光厳院禅定法皇行脚の事
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃、南山賀名生の奥より楚の囚はれを許されさせたまひて、都へ還御なりたりし後、世の中をいとど憂きものに思し召し知らせ給ひしかば、「姑射山{*1}の雲を辞し、汾水陽{*2}の花を捨てて、猶、御身を軽く持たばや。」と思し召しけり。御あらましの末通りて、方袍円頂の出塵の徒とならせ給ひしかば、伏見の里の奥、光厳院ときこえし幽閑の地にぞ住ませ給ひける。
これも猶、都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭はしく、浮世の事の御耳に触るるもすさまじく思し召しければ、「『来つて止まる所無く、去つて住する事無し。柱杖頭辺、活路通ず。』と中峯和尚の作られし送行の偈、誠に由あり。」と御心に染みて、人工、行者の一人をも召し具せられず、唯、順覚と申しける僧を一人御供にて、山林抖擻{*3}のために立ち出でさせ給ふ。
「まづ西国のかたを御覧ぜん。」と思し召して、摂津国難波浦を過ぎさせ給ふに、御津の浜松霞みわたつて、曙の気色、ものあはれなれば、遥かに御覧ぜられて、
誰待ちてみつの浜松かすむらむわが日の本の春ならぬ世に
と打ち涙ぐませ給ふ。山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給ひて猶、「過ぎ憂し。」と思し召したるに、「望むに窮まりなし、水天色を交じへ、看るに尽きず、山夕暉に映ず。」といふ対句の折節に相叶ひたるにも、「捨てぬ世ならば、何故かかかる風景をも見るべき。」と仰せられけるも、物悲し。
「これより高野山を御覧ぜん。」と思し召して、住吉の遠里小野へ出でさせ給ひたれば、焼痕、緑を返して春容早く、松影、紅を穿つて日脚西なり。海天野景、歩むに随つて新たなる風流に、御足たゆむとも思し召されず。昔は銷金軽羅のしとねならでは、仮にも踏ませ給はざりし玉趾を、深泥湿土の黒めるに汚れさせ給ひ、御供の僧は、仕へて懸けし肘後の府{*4}に替はれる一鉢を脇にかけ、今夜、境浦までも歩ませ給へば、潮干の潟にむれ立つて、玉藻を拾ひ磯菜取る海人どもの、各々、つげの小櫛を差して、葦間に隠れ顕はれたる様を御覧ぜらるるにも、「御貢物供へし民の営み、これ程に身を苦しめけるをしらで、なほざりにすさびける事よ。」と、今更浅ましく思し召し知らせ給ふ。
首を回らして東を{*5}望めば、雲に連なり霞に消えて、高くそばだてる山あり。道に休める木こりに山の名を問はせ給へば、「これこそ音に聞こえ候、金剛山の城とて、日本国の武士どもの、幾千万といふ数をも知らず討たれ候ひし所にて候へ。」とぞ申しける。これを聞こし召して、「あな、浅ましや、この合戦といふも、我、一方の皇統にて天下を争ひしかば、その亡卒の悪趣に堕して、多劫が間苦を受けん事も、我が罪障にこそなりぬらめ。」と、先非を悔いさせおはします。
日を経て紀伊川を渡らせ給ひける時、橋柱朽ちて、見るも危ふき柴橋あり。御足すさまじく、御肝消えて渡りかねさせ給ひたれば、橋の半ばに立ち迷ひておはするを、誰とは知らず、「いかさま、この辺に臂を張り作り眼する{*6}者にてぞあるらん。」とおぼえたる武士七、八人、後より来りけるが、法皇の橋の上に立たせ給ひたるを見て、「ここなる僧の臆病気なる、見たくもなさよ。これ程急ぐ道の一つ橋を、渡らば疾くわたれかし。さなくば後に渡れかし。」とて、押しのけ参らせける程に、法皇、橋の上より押し落とされさせ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら、浅ましや。」とて、衣著ながら飛び入つて引き起こし参らせければ、御膝は、岩のかどに当たりて血になり、御衣は、水に浸りて絞り得ず。泣く泣く辺りなる辻堂へ入れ参らせて、御衣を脱ぎ替へさせ参らせけり。「古も、かかる事やあるべき。」と、君臣共に捨つる世を、さすがに思し召し出でければ、涙のかかる御袖は、ぬれてほすべき隙もなし。
行く末細き針道を経て御登山ありければ、「山又山、水又水、登臨、いつの日か尽くさん。」と、身力疲れて思し召さるるにも、「先年、大覚寺法皇{*7}の、この寺へ御幸なりしに、供奉の卿相雲客もろともに、一町に三度の礼拝をして、首を地に著け誠を致されける事も、あり難かりける御願ひかな。予が在位の時も、世、静かなりとも、などかその芳躅を踏まざらん{*8}。」と思し召しなぞらへらる。
さて、御山にも御著ありしかば、大塔の扉を開かせて、両界の曼荼羅を御拝見あれば、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊をば、入道太政大臣清盛公、手づから書きたる尊容なり。「さしも積悪の浄海、如何なる宿善に催され、かかる大善根を致しけん。六大無碍の月晴るる時あつて、四曼相即の花開くべき春を待ちけり。さては、これも唯、ひたすらなる悪人にてはなかりけるよ。」と、今ここに思し召し知らせ給ふ。落花、雪となれども、笠重き事はなし。深樹、昏を誤れども、日未だ傾かず。その日、やがて奥の院へ御参詣あつて、大師御入定の室の戸を開かせ給へば、嶺松、風を含んで、踰伽上乗の理を顕はし、山花、雲を篭めて、赤肉中台の相を秘す。前仏の化縁は過ぎぬれども、五時の説、今耳にあるかとおぼゆ。慈尊の出世は遥かなれども、三会の粧ひ、已に眼に遮るが如し。三日まで奥院に御通夜あつて、暁立ち出でさせ給ふに、一首の御製あり。
高野山迷ひの夢もさむるやとその暁を待たぬ夜ぞなき
「安居の間は{*9}、御心閑かにこの山中にこそ御座あらめ。」と思し召して、諸堂御巡礼ある処に、唯今出家したる者とおぼしくて、濃き墨染に萎れたる桑門二人、御前に畏まつて、その事となく唯{*10}さめざめとぞ泣き居たりける。「何者なるらん。」と怪しく思し召して、つくづくと御覧じければ、紀伊川を御渡りありし時、橋の上より法皇を押し落とし参らせたりし者どもにてぞありける。「不思議や、何事に今遁世をしけるぞや。これ程心なき放逸の者も、世を捨つる心のありけるか。」と思し召して過ぎさせ給へば、この遁世者、御後に随つて、順覚に泣く泣く申しけるは、「紀伊川を御渡り候ひし時、かかるやんごとなき御事とも知り奉り候はで、玉体にあしく触れ奉りしこと、余りに浅ましく存じ候て、このかたちに罷りなつて候。仏種は縁より起こる儀も候なれば、今より薪をひろひ、水を汲むわざにて候とも、三年が間、常随給仕申し候て、仏神三宝の御とがめをも許され候はん。」とぞ申しける。
「よしや、不軽菩薩の路を行き給ひしに、罵詈誹謗する人をも咎めず。打擲蹂躙する者をも、かへつて敬礼し給ひき。況んや我、已にかたちを窶して、人、その昔を知らず。一時の誤り、何か苦しかるべき。出家は誠に因縁不思議なれども、随順せん事は、ゆめゆめ叶ふまじき」由を仰せられけれども、この者、強ひて片時も離れ参らせざりしかば、暁、閼伽の水汲みに遣はされたるその間に、順覚を召し具して、ひそかに高野をぞ御出でありける。
御下向は、大和路に懸からせ給ひしかば、「道の便りもよし。」とて、南方の主上{*11}の御座ある吉野殿へ入らせ給ふ。この三、四年の先までは、両統、南北に分かれて、ここに戦ひかしこに仇せしかば、呉越の会稽に謀りしが如く、漢楚の覇上に軍だちせしにも過ぎたりしに、今は散聖道人とならせ給ひて、玉体を麻衣草鞋に窶し、鸞輿を跣行の徒渉に替へて、遥々とこの山中まで分け入らせ給ひたれば、伝奏、未だ事の由を奏せざる先に、直衣の袖を濡らし、主上、未だ御相看なき先に、御涙をぞ流させ給ひける。
ここに一日一夜御逗留あつて、様々の御物語ありしに、主上、「さても、唯今の光儀、覚めての後の夢、夢の中の迷ひかとこそおぼえて候へ。たとひ仙院の故宮を棄てて、釈氏の真門に入らせ給ふとも、寛平{*12}の昔にもなぞらへ、花山の古き跡をこそ追はれ候べきに、尊体を浮萍{*13}の水上に寄せて、叡心を枯木の禅余に附けられ候ひぬる事、如何なる御発心にて候ひけるぞや。御羨ましくこそ候へ。」と尋ね申させ給ひければ、法皇、御涙に咽びて、暫しは御詞をも出だされず。ややあつて、「聡明文思の四徳を集めて叡旨にかけ候へば、一言未だ挙げざる先に、三隅の高察{*14}も候はんか。
「我元来、万劫煩悩の身を以て一種虚空の塵にあるを、本意とは存ぜざりしかども、前業のかかる所に旧縁を離れかねて、住むべきあらましの山は心にありながら、遠く待たれぬ老いの来る道をば、留むる関もなくて年月を送りし程に、天下の乱れ、一日も止む時なかりしかば、元弘の始めには、江州の番馬まで落ち下り、五百余人の兵どもが自害せし中に交じはりて、腥羶の血に心を酔はしめ、正平の末には、当山の幽閉に逢ひて、両年を過ぐるまで秋刑の罪に胆を嘗めき。これ程、されば世は憂きものにてありけるかと、初めて驚くばかりにおぼえ候ひしかば、重祚の位に望みをもかけず、万機の政に心をも留めざりしかども、一方の戦士、我を強ひて本主とせしかば、遁れ出づべき隙なくて、あはれ、いつか山深き住みかに、雲を友とし松を隣りとして心安く生涯を尽くすべきと、心に懸けて念じ思ひし処に、天地、命を改めて、譲位の儀出で来しかば、蟄懐、一時に開けて、この姿になつてこそ候へ。」と、御涙の中に語り尽くさせ給へば、一人、諸卿もろともに、御袖をしぼるばかりなり。
「今は。」とて御帰りあらんとするに、寮の御馬を参らせられたれども、堅く御辞退あつて、召されず。いつしか疲れさせ給ひぬれども、猶、雪の如くなる御足に、荒々としたる草鞋を召されて立ち出でさせ給へば、主上は武者所まで出御なつて、御簾を掲げられ、月卿雲客は、庭上のそとまで送り参らせて、皆涙にぞ立ち濡れ給ひける。道すがらの山館野亭を御覧ぜらるるにも、先年、羑里の囚はれ{*15}に逢はせ給ひて、「一日片時も過ぎ難し。」と御心を傷ましめ給ひし松門茅屋あり。「戦図に入る山中ならずば、かかる処にぞ住みなまし。」と、今は昔の憂き住みかを御慕ひありけるぞ悲しき。
諸国御抖擻の後、光厳院へ御帰りあつて、暫く御座ありけるが、中使{*16}、頻りに到りて松風の夢を破り、旧臣、常に参つて蘿月の寂を妨げける程に、「ここも今は住み憂し。」と思し召し{*17}、丹波国山国といふ所へ、跡を消して移らせ給ひける。山菓、庭に落ちて、朝三の食、秋風に飽き、柴火、炉に宿して、夜薄の衣、寒気を防ぐ。吟肩、骨痩せて、泉を担ふにものうき時は、石鼎に雪を煮て、三椀の茶、清風を飲す。仄歩、山嶮しく、蕨を折るに倦みぬる時は、岩窓に梅を噛んで、一連の句、閑味をあまなひ給ふ。「身の安きを得る処、即ち心安し。出づるに江湖あり、入るに山川あり。」と、一乾坤の外に逍遥して、破蒲団の上に光陰を送らせ給ひけるが、翌年の夏頃より、俄に御不予{*18}の事あつて、遂に七月七日に隠れさせ給ひけり。
法皇御葬礼の事
この時の新院光明院殿も、山門貫主梶井宮も、共に皆、禅僧にならせ給ひて、伏見殿に御座ありければ、急ぎ、かの遷化の山陰へ御下りあつて、御荼毘の事ども取り営ませ給ひて、後ろの山に葬し奉る。あはれ、仙院、芝山の晏駕ならましかば、百官涙をしたでて、葬車の御後に随ひ、一人悲しみを呑んで、虞祔の御祭{*19}をこそ営ませ給ふべきに、かかる御事とだに知る人もなき山中の御葬礼なれば、唯いたづらに鳥啼きて挽歌の響きをそへ、松咽んで哀慟の声を助くるばかりなり。
夢なるかな、往昔の七夕には、長生殿にして二星一夜の契りを惜しみて、六宮の美人、両階の伶倫、台下に曲を奏して、乞巧奠{*20}をこそ備へさせられしに、悲しいかな、当年の今日は、幽邃{*21}の地にして三界八苦の別れに逢うて、万乗の先主、一山の貫頂、山中に棺を担ひて御葬送を営ませ給ふ。唯、千秋亭の月、有待の雲に隠れ、万年樹の花、無常の風に随ふが如し。されば、砌を巡る山川もこれを悲しみて、雨となり雲となるかと怪しまる。心なき草木もこれを悼みて、葉落ち花萎めるかと疑はる。
恩を感じ徳を慕ふ旧臣多しといへども、あらかじめ勅を遺されしに依つて、参り集まる人も稀なりしかば、僅かに篭り僧三、四人の勤めにて、御中陰{*22}の菩提にぞ資し奉りける。御国忌の日毎に、種々の御作善、積功累徳せらる。殊更に第七回に当たりける時は、継体の天子、今上皇帝、御手づから一字三礼の紺紙金泥の法華経を遊ばされて、五日八講十種供養あり。伶倫正始の楽は、大樹緊那羅の琴の音に通じ、導師称揚の言は、富楼那尊者の弁舌を延べたり{*23}。結願の日に当たつて、薪を採りて雪を担ふ夕郎は、千載給仕{*24}の昔の跡を重くし、水を汲みて月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。これ又、善性善子の珊提嵐国に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵浄眼の妙荘厳王を化せし功にも越えたれば、十方の諸仏も、明らかにこの追賁{*25}を随喜し給ひ、六趣の群類も、定めてその余薫にこそあづかるらめと、思ひ知らるる御作善なり。
校訂者注
1:底本は、「姑射山(こやさん)」。底本頭注に、「仙人の住所。こゝは仙洞御所の所在地を云ふ。」とある。
2:底本は、「汾水陽(ふんすゐやう)」。底本頭注に、「昔汾水の北に堯の都があつたのでこれも上皇御所を云ふ。」とある。
3:底本は、「抖擻(とそう)」。底本頭注に、「行脚。」とある。
4:底本は、「肘後(ちうご)の府」。底本頭注に、「手首にかけた官府の文書。」とある。
5:底本は、「東に望めば、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
6:底本は、「作り眼(まなこ)する」。底本頭注に、「殊更に威容を示す。」とある。
7:底本頭注に、「後宇多天皇。」とある。
8:底本は、「芳躅(ほうしよく)を踏まざらん」。底本頭注に、「先例に倣はざらん。」とある。
9:底本は、「安居(あんご)の間に、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
10:底本は、「其の事となくさめ(二字以上の繰り返し記号と濁点)と」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補った。
11:底本頭注に、「後村上天皇。」とある。
12:底本頭注に、「宇多天皇を指す。」とある。
13:底本は、「浮萍(ふひやう)」。底本頭注に、「浮草。」とある。
14:底本頭注に、「〇聡明文思の四徳 堯典に『昔在帝堯聡明文思光宅天下』。」「〇三隅の高察 論語述而篇に『子曰、不憤不啓、不悱不発、挙一隅不以三隅反、則不復也。』と見ゆ。一方を云へば他の三方の事を察知する事。」とある。
15:底本は、「羑里(いうり)の囚(とらはれ)」。底本頭注に、「周の文王が殷の紂王によつて羑里に幽閉された故事より云ふ。」とある。
16:底本は、「中使(ちうし)」。底本頭注に、「禁中の使者。」とある。
17:底本は、「思召して、」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
18:底本は、「御不予(ごふよ)」。底本頭注に、「病気。」とある。
19:底本頭注に、「〇晏駕 崩御。」「〇虞祔の御祭 釈名に『既葬遷祭於殯宮曰虞、又曰祭、曰祔。』と見ゆ。葬後の附祭を云ふ。」とある。
20:底本は、「乞巧奠(きこうでん)」。底本頭注に、「七夕祭。」とある。
21:底本は、「幽逐(いうちく)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
22:底本は、「中陰(ちういん)」。底本頭注に、「死後四十九日の間。」とある。
23:底本頭注に、「〇大樹緊那羅 琴の名手であつたと云ふ。」「〇富楼那尊者 釈尊の弟子で説法の名人。」とある。
24:底本は、「千載給仕(ざいきふじ)」。底本頭注に、「法華経提婆品に見ゆ。過去の大王が無比仙人に千載の間仕へた話。」とある。
25:底本は、「追賁(つゐひ)」。底本頭注に、「追善。」とある。
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