左馬頭基氏逝去の事
「かくては天下も如何。」と危ぶめる処に、今年の春の頃より、「鎌倉左馬頭基氏、いささか不例の事あり。」と聞こえしかば、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳にて忽ちに逝去し給ひけり。連枝の鍾愛は多けれども、この別れに至つては、いかでか悲しまざるべけん。況んやこれは唯二人、二翼両輪の如くに{*1}華夷の鎮憮となり給ひしかば、さらぬ別れの悲しさもさる事ながら、関東の柱石砕けぬれば、「柳営の力、衰へぬ。」と、愁歎、殊に浅からず。これに就いて、京都、大きに怖れ慎しみて、「祈祷などもあるべし。」と沙汰ありけり。
南禅寺三井寺と確執の事
同じき六月十八日、園城寺の衆徒蜂起こして、公武に列訴を致す事あり。その謂はれを何事ぞと尋ぬれば、南禅寺造営のために、この頃建てたる新関に於いて、三井寺帰院の児を、関務の禅僧、これを殺害す。これ、希代の珍事とて、寺門の衆徒、鬱憤を散ぜんと、大勢を率し不日に押し寄せて、当務の僧ども、人工、行者{*2}に至るまで打ち殺すのみならず、猶も憤りをやめず、南禅寺を破却せしめ、達磨宗の蹤跡を削りて、宿訴を達せしめんために、忽ちに嗷訴にぞ及びける。
即ち、山門、南都へ牒送して、「四箇の大寺の安否を定むべきよし、已に往日の堅約なり。何の余儀にか及ぶべき。一同に触れ訴へて、事、遅々せしめば、神輿神木、神座の本尊、共に入洛あるべし。」と罵りければ、「すはや、天下の重事、出で来ぬるは。」と、才ある人はひそかにこれを危ぶみけり。されども事、大儀なれば、山門も南都も急には思ひ立たず。結句、山門には東西両塔に様々の異議あつて、三塔の事書き、鳥使、翅を費す{*3}ばかりなり。然れば、左右なく事行はるべしともおぼえず。公方の御沙汰は、裁許、その期なかりしかば、園城寺は、款状いたづらに投げられて、怒りの中に日数をぞ送りける。
最勝講の時闘諍に及ぶ事
さる程に、同じき八月十八日、「最勝講行はるべし。」とて、南都北嶺に仰せて、所作の人数をぞ召されける。興福寺より十人、東大寺より二人、延暦寺より八人なり。園城寺は、今度の訴訟に是非の左右に及ばざる間、公請に従ふべからざる由、所存申すに依つて、四箇の一寺は除かれ畢んぬ。証義は前大僧正懐雅、山門の慈能僧正をぞ召されける。講演論場の砌には、学海、智水をわかし、恵剣を闘はしむる事なるに、南都北嶺の衆徒等、南庭に於いて不慮に喧嘩を引き出だして、散々の合戦にぞ及びける。
紫宸殿の東、薬殿の前には南都の大衆、西の長階の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差の太刀なんど用意の事なれば、抜き連れて切つてかかる。山門の大衆は、太刀長刀も持たざりければ、いかでか叶ふべき。一歩も踏み止まらず、紫宸殿の大床の上へ捲き上げられ、足手にもかからざりけるに、光円坊の良覚、一心坊の越後註記覚存、行泉坊の宗運、明静房の学運、月輪坊の同宿円光房、十乗房を始めとして、宗徒の大衆、腰刀ばかりにて取つて返し、勇み誇つたる南都の衆徒の中へ、面も振らず切つて入る。
中にも一心房の越後註記は、南都若大衆の持ちたる四尺八寸の太刀を引き奪ひて、我一人の大事と切つて廻りけるに、奈良法師、切り立てられ、叢雲立つて見えけるところに、手蓋侍従房、唯一人踏み止まつて、一足も退かず喚き叫んで切り合ひたり。追ひ廻し追ひ靡け、時移る程闘ひけるに、山門の衆徒、始めは小勢にて、しかも無用意なりける間、叶ふべくも見えざりけるが、山徒の召し使ひし中方{*4}の者ども、太刀長刀の鋒をそろへ、四脚の門より込み入つて、縦横無碍に切つて廻りしかば、南都の大衆は大勢なりといへども、こらへかねて、北の門より一條大路へ白雲の風に渦巻くが如くにぞ、たなびき出でたりける。されば、南庭の白砂の上には、手蓋侍従を始めとして、宗徒の衆徒八人まで、骸を並べて斬りふせらる。山門方にも手負あまたありけり。半死半生の者どもを、戸板、楯なんどに乗せて舁き連ねたる有様、前代未聞の事どもなり。
あさましいかな、紫宸北闕の雲の上、玄圃茨山の月の前{*5}には、霜剣の光すさまじくして、干戈の庭となりしかば、御溝の水も紅を流し、著座の公卿大臣も、束帯悉く朱の色{*6}に染めなして、呆れ給ふばかりなり。さしもこれ程の騒動なりしかども、主上は、これにも騒がせ給ふ御事もなく、手負死人どもを取り捨てさせ、血を洗ひ清めさせ、席を改めさせられて、最勝講をば仔細なく遂げ行はれけるとかや。
これ則ち、厳重の御願、天下の大会たるに、かかる不思議出で来ぬれば、「公私に就いて、不吉の前相かな。」と、人皆、物を待つ心地ぞせられける。
将軍薨逝の事
かかる処に、同じき九月下旬の頃より、征夷将軍義詮、身心例ならずして、寝食快からざりしかば、和気、丹波の両流は申すに及ばず、医療にその名を知らるる程の者どもを召して、様々の治術に及びしかども、かの大聖釈尊、双林の必滅に、耆婆が霊薬もそのしるしなかりしは、誠に浮世の無常を予め示し置かれし事なり。何の薬か定業の病をば癒すべき。これ、明らけき有待転変の理なれば、同じき十二月七日子の刻に、御年三十八にて忽ちに薨逝し給ひにけり。天下久しく武将の掌に入りて、恩を戴き徳を慕ふ者、幾千万といふ事を知らず、歎き悲しみけれども、その甲斐、更になかりけり。
さてあるべきにあらずとて、泣く泣く葬礼の儀式を取り営みて、衣笠山の麓、等持院に遷し奉る。同じき十二日午の刻に、荼毘の規則を調へて、仏事の次第、厳重なり。鎖龕は東福寺の長老信義堂、起龕は建仁寺の沢竜湫、奠湯は万寿寺の桂巌、奠茶は真如寺の清誾西堂、念誦は天竜寺の春屋、下火{*7}は南禅寺の定山和尚にてぞおはしける。文々に悲涙の玉詞を磨き、句々に真理の法義を述べられしかば、尊儀、速やかに三界の苦輪を出でて、直ちに四徳の楽邦に到り給ふらんと、哀れなりし事どもなり。
さる程に、「今年は如何なる年なれば、京都と鎌倉と相同じく、柳営の連枝、忽ちに同根空しく枯れ給ひぬらん。誰か武将に備はり、四海の乱れをも治むべき。」と、危ふき中に愁へあつて、世上、「今は、さて。」とぞ見えたりける。
細川右馬頭西国より上洛の事
ここに、細川右馬頭頼之、その頃、西国の成敗を司つて、敵を亡ぼし、人をなつけ、諸事、沙汰の途轍{*8}、少し先代貞永貞応の旧規に相似たりと聞こえける間、即ち、「天下の管領職に居らしめ、御幼稚の若君{*9}を輔佐したてまつるべし。」と、群議、同趣に定まりしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。
外相内徳{*10}、実にも人のいふに違はざりしかば、氏族もこれを重んじ、外様も、かの命を背かずして、中夏{*11}無為の代になつて、めでたかりし事どもなり。
校訂者注
1:底本は、「如く華夷(くわい)の」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
2:底本は、「人工(にんぐ)行者(あんじや)」。底本頭注に、「〇人工 人夫。」「〇行者 修行者。」とある。
3:底本は、「鳥使(てうし)翅(つばさ)を費す」。底本頭注に、「飛脚の往来が頻りである。」とある。
4:底本は、「中方(ちうはう)」。底本頭注に、「中間などの小者をいふか。」とある。
5:底本は、「紫宸(ししい)北闕(ほくけつ)の雲の上、玄圃(げんば)茨山(しざん)の月の前」。底本頭注に、「〇紫宸北闕玄圃茨山 皆帝闕をいふ。」とある。
6:底本は、「悉く朱(あけ)に」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
7:底本は、「下火(あこ)」。底本頭注に、「火葬の時火をつける役僧。」とある。
8:底本は、「途轍(とてつ)」。底本頭注に、「方法。」とある。
9:底本頭注に、「幼名は春王、後に義満となる。」とある。
10:底本は、「外相(げさう)内徳(ないとく)」。底本頭注に、「外見と内実の行。」とある。
11:底本は、「中夏(ちうか)」。底本頭注に、「畿内を云ふ。」とある。
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