雲中の腕押し

 元和年中に大雪降つて、箱根山の玉笹を埋づみて、往き来の絶えて十日ばかりも馬も通ひなし。
 ここに、鳥さへ通はぬ峰に庵を結び、短斎坊といふ木食ありしが、仏棚も世を夢の如く暮らして百余歳になりぬ。常に十六むさしを慰みに指されけるに、或る時、奥山に年重ねたる法師の来つて、むさしの相手になつて遊びける。その有様を見るに、木の葉を貫き肩に掛け、腰には藤蔓をまとひ、黒き顔より眼光り、人間とは思はれず。松の葉をむしり食物として、物言ふ事稀にして、これ程良き友はなし。
 ある夕暮に焚火に事を欠きしに、かの老人、腰より革巾着を取り出だし、「『これは鞍馬の名石にて、火の出づる事速し。』と判官殿に貰うた。」と正々しう語る。短斎驚き、「そなたはいかなる人ぞ。その時は久しき事。」と言へば、「我こそ常陸坊海尊。昔に変はる有様。」と言ふ。
 これを思ひ合はすに、「この人の最後の知れぬ事を申し伝へしが、さては不思議。」と、「過ぎにし弁慶は、色黒く背高く、絵にさへ恐ろしく見ゆる。」と尋ねければ、「それは大きに違うた。またなき美僧。」と語る。「義経こそ、丸顔にして鼻低う向う歯抜けて、やぶ睨みにて縮みがしらに横太つて、男振りは一つも取り柄なし。只、志が大将で。その外は、片岡がよろづにしわい事。忠信は大酒食らひ。伊勢の三郎は買掛かりを済まさぬ奴。尼崎・渡辺・福島の舟賃、侍顔して一度も遣らず。熊井太郎は、一年中比丘尼好き。源八兵衛は、ぬけ風の俳諧して埒の開かぬ者。駿河二郎は名誉な事の、夏冬なしに褌嫌ひ。亀井は、何をさしても小刀細工が利いた。鈴木・継信は棒組にて、一生飛び子買うて暮らす。兼房は、浄土宗にて後世願ひ。この外一人もろくな者はなかつた。」と語る。
 「さてまた、静は今に申す程の美人か。」と問へば、「いやいや、十人並に少し優れた女房を、その時は判官、世盛りにて借銭はなし。唐織鹿の子の法度もなく、明け暮れ京の水で磨きぬれば美しい。今でも大名衆の手かけども、御関所の改めに見るに、その時よりは風俗が良い。」と申して、「まだ話したい事もあれども、皆嘘のやうに思ふやろ{*1}。誰ぞ証拠人欲しや。」と言ふ折節、柴の網戸を訪れ、「正しくこれに海尊の御声がしまする。ちと御目に掛かりたし。」と内に入る。
 「やれ、懐かしや、懐かしや。命長らへて又会ふ事の嬉し。まづ御亭坊へ引き会はしましよ。これは、猪俣の小平六とて昔のよしみなるが、今は備中の深山に住まれますが、この度は奇特の訪ねなり。自今以後は顔見知られて、互に。」と申して、夜もすがら往にしの軍物語、昨日今日の如く、「今に平六、力の程は。」と言へば、「さのみ変はらじ。」と片肌脱ぐ。常陸坊も腕まくりして、亀割坂にて枕引きせし事思ひ出だして、「さらば、腕押し。」と、両人負けず劣らず三時余りももみ合へば、短斎も中に立ち、両方へ力をつけて、掛け声雲中に響き渡つて、三人ながら姿を失ひて、この勝負知つた人もなし。

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校訂者注
 1:底本は、「おもやろ。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)脚注に従い改めた。