水筋の抜け道
若狭の国小浜といふ所に、漁師の使ふ網の糸を商売して有徳に世を渡る人あり。越後屋の伝助とて、この湊に隠れなし。年切りの女に名を久と呼びて、その姿、北国者には優しく、心を掛けし人あまたの中にも、京屋の庄吉とて都より通ひ商ひせしが、馴染めば片里も住み家となりて、年を重ねてありしが、いまだ定まる妻もなし。かの久を忍び馴れて、末々までの事を申し交はせしに、親方の女房見咎め、あらけなく折檻して、「とかくは形、人並なるが故に悪戯をするなれば、目の前に思ひ知らせん。」と、火箸を赤めて左の脇顔にさしつけけるに、皮薄なる所焼け縮みて、女の身にしてはこの悲しさ、大方乱気になつて、年月手馴れし鏡台に向かへば顔をかしくなるを、身もだえして歎き、「世に長らへても詮なし。」と思ひ極め、心にある事書き置きして、小浜の海に身を投げけるに、その夜は沖浪荒く、死骸も行方知れず。「不憫。」とばかり申し果てける。
その頃は正保元年二月九日の事なるに、大和の国秋志野の里に、田畠の用水のために百姓集まりて、古き寺地の跡を切りならして池を掘りけるに、世間より深く土をあぐれども水筋に当たらぬ事を悔やみ、鋤鍬の暇なく三日二夜{*1}掘る程に、水の蓋と聞こえて、車何百輌か引く音して、片隅に穴開きて、それより青波立ちのぼり、俄に阿波の鳴戸の如く渦の巻く事二時余り。池より水余りて、国中大雨の思ひをなし、驚く{*2}事限りなし。
明けの日、水静かになつて見れば、十八、九なる者、身を投げしが岸の茨に寄り添へしを、「哀れ。」と引き上げ見るに、この里々の女とも見えず。「殊更十日も以前に身捨てし有様、いと不思議。」と申す折節、二月堂の行ひに参詣せし旅人、暫し目を留めて、「世には似たる面影もあるものかな。遠き国里を隔てしに、越後屋の下女にそのままなるは。」と、前に回りて改めけるに、木綿着る物に鹿子の散らし紋。帯は常々見つけし横縞の黄色にして、胸に守り袋。これを開けて見るに、善光寺如来の御影、檀得の浄土珠数、書き残せし物をあらまし読むに、疑ひなく若狭の事なり。
「これを思ふに、奈良の都へ若狭より水の通ひありと伝へしが、古より今の世までためしもなきぞ。」と、身体はその里に埋づみて様々弔ひ、各々右の品々を持ちて国元に帰りしに、いづれも横手を打つて、この物語に哀れ増して、庄吉、万事棄ててその身を墨染になして、秋志野{*}の里に行きて、塚のしるしの笹蔭に昔の事ども申し尽くし、おのづからの草枕、まだ夢も結ばぬ内に、火燃えし車に女二人とり乗りて飛び来るを見るに、正しく伝助が女房なり。これを押さへて焼き金当つるは、我が馴れし久が姿の変はる事なし。「今ぞ思ひを晴らしけるぞ。」と言ふ声ばかりして消えぬ。三月十一日の事なるに、日も時も違はず、若狭にて一声叫びて空しくなりけるとなり。
校訂者注
1:底本は、「三日三夜(よ)」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
2:底本は、「轟(とゞろ)く」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
3:底本は、「秋志(あきし)の里(さと)」。『新釈日本文学叢書 第十巻』(日本文学叢書刊行会 1929)に従い改めた。
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