神鳴の病中

 欲には一門兄弟の仲も見捨つる事、世の習ひぞかし。
 信濃の国浅間の麓に松田藤五郎と申して、所久しき里人のありしが、今年八十八歳にして浮世に何をか思ひ残す事もなく、末期の近づく時、藤六藤七、二人の子を枕に、「我、相果ての後、摺り糠の灰までも二つに分けて取るべし。さて又この刀は、面妖の命を助かり、この年まで世に住む事のめでたく、この家の宝物となれば、たとへ牛は売るとも、これを放つ事なかれ。」と懇ろに申し置かれて、遂に仏の国へ参られけるに、いまだ七日も経つやたたずに早、跡職を争ひ、諸道具両方へ分け取る。
 くだんの刀をば、兄も弟も心掛けて論ずる事の見苦しさに、親類立ち合ひ、「とかく惣領なれば、この一腰は藤六に渡せ。」と色々に申せど、弟は更に合点をせず、兄は是非に取らねば聞かず、いづれも扱ひに日を暮らしぬ。
 藤六申すは、「二つに分けたる家を、皆藤七に取らすべし。」と申せば、やうやう扱ひ済みて、藤六は刀ばかり取つて家を出で、「向後、百姓を罷める。」と、それより遥々の都に上り、目利きへ行きてこれを見するに、奈良物にして、しかも焼刃もかつてなければ{*1}、重ねて人、手にも取らねば、また故里に帰り、母親の方に行きて刀の様子を尋ねけるに、老母語りけるは、「その昔、国中、百日の日照り。ふけ田も干潟となつて、村々、水論のありし時、隣里の男を親仁斬り付けられしに、しぶり皮も剥けず、危ふき命を助かられしなり。その時この刀の切れぬを喜び、『命の親。』とて、『一代、家の宝物。』とは申されける。初めより無銘の何の役にも立たざる物とは隠れもなきに、その方がよろづに替へても欲しがる事の不思議なり。
 「しかも水論は、正保年中六月初めつ方の事なるに、両村の大勢、千貫樋に群がり、庄屋年寄、一命を捨てて争ひして、今ぞ危なき折節、日の照る最中に一つの太鼓鳴り、黒雲舞ひ下がつて、赤褌をかきたる火神鳴の来て里人に申すは、『まづ静まつて聞き給へ。久しく雨を降らさずして、かく里々の難儀は、我々仲間のわざなり。この程は水神鳴ども若気にて、夜ばひ星に戯れ、あたら水を減らして、思ひながらの日照りなり。各々手作の牛蒡を贈られたらば、追つ附け雨を請け合ふ。』と申す。『それこそ易き事なれ。』とあまた遣はしけるに、龍の駒に一駄つけて天上して、その明けの日より早しるしを見せて、ばらりばらりと痳病気なる雨を降らしける。」とぞ。

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校訂者注
 1:底本は、「かつてなれば、」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。