因果の抜け穴

 鑓持ち、乗り馬を引き連れて、家中にまたなき使者男。「大河判右衛門が風俗、世に見習へ。」と言はれしに、武士の身ほど定め難きものはなし。きのふ故里豊後の国より文遣はしけるを、女筆、心もとなく開けて見るに、嫂が書き越しける。
 「判兵衛殿事、この十七日の夜、妙福寺の碁会に、少しの助言より言ひ上がりて、寺田弥平次、討つて早、所を立ち退き申し候。子もなき人の御事なれば、各々様ならで誰か外には頼りもなし。女の身の是非もなき仕合はせ。」と、哀れに申し遣はしける。思案に及ばず、俄に御暇申し請け、一子の判八ばかり連れて武州を立ち出づる。
 「この弥平次は、殿より御取り立ての者なれば、深く隠して中々手には回るまじ。常々伝へ聞きしは、但馬の国に里人に親類ありとや。定めてこれへ退くべし。我々もこの所へ行きて心掛くべし。」と、急ぎ但馬に下りて、忍び忍びに尋ねけるに、案の如く、百姓の門造りに二重垣をして、浪人あまたかくまへ、用心の犬まで何匹か。夜は油断なく拍子木を鳴らし、間もなう目を覚まさしける。
 ある夜、雨風激しくしかも闇なれば、焼飯拵へ、まづ犬どもに近寄り、横手の塀を切り抜き、また内なる壁に道つけて広庭に忍び入りしが、弥平次聞き付け、「何者か。」と言ふ。親子ともに、板の切れをくはへ魚の骨の如くにもてなし、犬の真似致せしに、これを聞きて、「犬には頭が高い。皆起き合へ。」と呼ばはる程に、かねての若者ども喚き渡れど、まだ気遣ひをして弥平次は出でず。
 けはしくなれば、「まづこの度は退け。」と出でさまに、鍋釜を投げて表に捨て置き、初めの抜け道に出づるに、老人の不自由さは、くぐり時暇いる処を、後より大勢両足に取り付き、少しも身の動きならず。判八、立ち帰りて親の首を切り、その首提げて逃げ延びけるに、後にて詮議様々。鍋釜の様子を見て、「盗人には疑ひなし。」と、その通りに済ましける。
 その後判八は、我が手にかけし親の首を持ちて、入佐山の奥深く秋萩の下葉を分けて、「世には{*1}かかる憂き目もある事かな。仇は討たで、いかなる因果ぞかし。江戸にまします母の聞き給はば、我を不甲斐なく、御歎きも深かるべし。されども、一念かけし弥平次を討たでは置くまじ。御心安かれ。」と、御首にものを語りて、さて木の根を返し、埋づみ所の穴を掘りしに、下よりしやれかうべ一つ出でける。
 「これもいかなる人の昔ぞ。」と、知らぬ哀れ。並べて埋づめ、露草を折りて水を手向け、その日もまだ暮れに遠ければ、人の目を忍び、夜に入り里に帰らんと、塚を枕に暫しまどろむ内に、かのしやれかうべ、告げて語るは、「我は判兵衛{*2}が浅ましき形なり。我がためとて仇を討ちに来て、汝が手にかかる事は、これ定まる道理あり。前世にて弥平次が一門、故なき事に八人まで失ひければ、天、この科を許し給はぬを、今この身になりておぼゆる。その方とても、これを逃れ難し。武勇の本意をやめて墨染の身となりて、先立ちし二人が跡をよくよく弔ふべし。この言葉の証拠には、我が形あるまじ。再び掘つて見るべし。」と告げて失せける。
 かの塚を掘るに、初めのしやれかうべなき事不思議ながら、「よもや討たで置くべきか。」と、心を尽くせし甲斐なく、判八も又返り討ちに会ひぬ。

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校訂者注
 1:底本は、「世(よ)にかゝる」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
 2:底本は、「判(はん)右衛門」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)脚注に従い改めた。