忍び扇の長歌
屋形住まひ、気詰まりも上野の花に忘れて、諸人の心玉浮き立つ春の有様、衣裳幕の内には小歌交じりの女中姿、ほんの桜よりは眺めぞかし。
日も暮れに近き折節、大名の奥様めきて、先に長刀、二つ挟み箱持たせて、高蒔絵の乗り物続きて、後より二十余りの面影、窓のすだれのひまより見えけるに、その美しさ、和国美人揃への内にも見えず。うかうかとついて回りけるこの男、やうやう中小姓ぐらゐの風俗、女の好かぬ男なり。思ふに及ばぬ御方を恋ひ初め、後より行く中間に尋ねしに、「さる御大名の姪御様。」と、あらまし様子を語り捨て行く。
「さては。」とその所を知りて、奥方への御奉公を稼ぎしに、良き伝手ありて相済み、二年ばかり勤めし内に、あなたこなたへの御供申せし折節、思ひ入りし御乗り物に目をつけけるに、縁は不思議なり、あなたにもいつともなう思し召し入れられ、末々の女に仰せ付けられ、長屋の窓より黒骨の扇を投げ入れける。若い者仲間より見付けて、かのはしたと心のあるやうに申すを、沙汰なしに酒など買うて口を塞ぎぬ。
その夜、御扇開き見るに、筆の歩み、只人の文柄にもあらず。思し召す事ども、長歌にあそばしける。よくよく読みて見るに、「我を思はば今宵の内に連れて立ち退くべし。男に様替へて切戸を忍び、命を限り。」との御事。「この忝さ、身を砕きても。」と思ひ定め、その時を待つに、御知らせ違はず、小者姿にして御出であそばしけるを、御門を紛れ出で、早その夜に、土器町といふ所によしみの者あり、これに忍び、少しの裏棚を借りて人知れず住みけるに、何の心もなく出で給へば、世を渡るべき種もなければ、御守り脇差を僅かの質に置きて、月日を送らるる内に又悲しく、男は夜々切り疵の膏薬を売れどもはかどらず。後にはせん方尽きぬれば、手慣れ給はぬ濯ぎ洗濯、見る目も痛はしく、近所も不思議を立てける。
屋敷よりは毎日五十人づつ御行方を尋ねしに、半年余り過ぎて探し出だし、大勢とりかけ、かの男は縄をかけて、その夜に成敗に遇ひける。
その後姫は、一間なる方に押し込め、自害あそばすやうに仕掛け置きても、中々その心ざしもなく、時節移れば、「いかに女なればとて、後れたり。最期を急がせ。」と大殿より仰せければ、姫の御方に参りて、「世の定まり事とて、御痛はしくは候へども、不義あそばし候へば、御最期。」と申し上ぐれば、「我、命惜しむにはあらねども、身の上に不義はなし。人間と生を受けて、女の男只一人持つ事、これ作法なり。あの者下々を思ふは、これ縁の道なり。各々、世の不義といふ事を知らずや。夫ある女の外に男を思ひ、又は死に別れて後夫を求むるこそ不義とは申すべし。男なき女の一生に一人の男を、不義とは申されまじ。又、下々を取り上げ縁を組みし事は、昔よりためしあり。我、少しも不義にはあらず。その男は殺すまじきものを。」と涙を流し給ひ、「この男の跡弔ふためなり。」と、自ら髪を下ろし給ふとなり。
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