力なしの大仏

 長崎半左衛門が柄杓の曲尽くしを面妖と思へば、京の樵木町{*1}に若い者ども集まりて、束ね木、山の如く積み重ね、下よりは三間高し。上より、「茶が呑みたい。」ととよめば、天目に入れながら投ぐる{*2}。少しもこぼさず取る事、幾度にても危なからず。又、近江の湖にて白髭の岩飛び、吉野の滝落とし。これ皆、練磨なり。「飛鳥井殿の烏帽子付けの鞠を見て、油売り、一升量りて、銭の穴より雫も外へ漏らさず通しけるとや。たとへば無筆なる者、将棋の駒書くに同じ。」と、功者なる人の申し伝へし。
 その頃、下鳥羽の車使ひに大仏の孫七とて、その生まれつき千人にも勝れて、都通ひに東寺辺りの小家へは入る事を、頭つかへて迷惑す。されども、少しも力なくて、達者事にひけをとる事、度々なり。一斗の重め、片手にては上がらず、世間の笑ひ者ぞかし。この里の若者、一石二斗を宙差しにする者、あまたなり。
 大仏、一代無念に思ふ内に、男子一人儲けぬるに、大人しくなる事を待ちかね、はや取り立ちの時分より六尺三寸の棒を持ち習はせ、三歳の時は早、一斗の米を上ぐる。それより段々仕込み、八歳の春の頃、手慣れし牛の子を産みけるに、荒神の宮巡りも過ぎて、やうやう牛の子もかたまり{*3}、我と草叢に駆け回るを捕らへて、初めてかたげさせけるに、何の仔細もなく持ちければ、毎日三度づつかたげしに、次第に牛は車引く程になれども、そもそもより持ち続けぬれば、九歳の{*4}時もとらへて宙差しにするを、見る人、興をさましぬ。
 後は親仁には変はり、洛中洛外の大力。十五歳より、「鳥羽の小仏」とぞ名乗りける。

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校訂者注
 1:底本は、「こかき町(まち)」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
 2:底本は、「呑(のみ)たいとよめば。天目(もく)に入(いれ)ながらなくる。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
 3:底本は、「かたまり、かたげさせけるに、」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
校訂者注
 4:底本は、「九歳(さい)時(とき)も」。『新釈日本文学叢書 第十巻』(日本文学叢書刊行会 1929)に従い改めた。