恋の出店
安部茶問屋して、江戸麹町によろしき者あり。年久しく使ひし若い者に長兵衛と申して、たまかに商ひの道、精に入りければ、親方、次第に富貴になりぬ。はや年もあけば、下町に店を出させ{*1}、国元より母親を呼び寄せ、後ろ見させて、良き商人にし立てける。いまだ定まる妻なければ、あなたこなたと聞き立てける。
折節は極月の初めつ方、世間せはしき時分に、素紙子一つに深編み笠着たる男、明けてより暮れまで四、五度、門を通り茶棚を見入り、しばし立ち留まるを、亭主も心得ず。近所の者も気を付けて、「これは、ねだれ者なり。油断し給ふな。」と申す処へ、又かの男来つて、内に入り、「長兵衛殿と申すは、こなたの事か。少しの御無心に参つた。」と申せば、「この方も世帯の取り付きにて、御用に立つ程の事はなるまじ。少しの御合力は、易き御事。」と申す。
辺りの人、勝手に回りて様子を聞くに、かの浪人の申すは、「御心入れ、忝し。我等の望み、さやうの義にはあらず。母親のなき娘一人持ち申し候が、我が子ながら{*2}、さのみ賤しからず。その方心入れ、かねて聞き及び候へば、是非に聟になりて賜はれ。」と頼む。「それがし、旦那もあれば、内談申しての上に御返事。」と申せば、「それまで間のなき事ぞ。申し掛かつて合点参らずば、これまでの命。」と思ひ切るを、いづれも出で合ひ、「ここは何とぞあるべし。我々に御任せあれ。」と申す内に、乗り物長持ち舁き入れける。
この娘の美人、東に見た事もない姿、各々驚きける。紙子袖より小判五百両取り出だし、「これは、娘の使ひ金なり。刀脇指は引き出物なり。今日より、世に親ありと思ふな。」と言ふ声の下より髪を切れば、門より法師の「遅い。」と呼び立て、行き方知らずなりぬ。
その後、色々子細を尋ねけれども、涙にくれて、「名もなき者の娘なり。」とばかり。重ねて物をも申されず。この事申し上げけるに、その通り済みぬ。
校訂者注
1:底本は、「出せ」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)脚注及び『新釈日本文学叢書 第十巻』(日本文学叢書刊行会 1929)に従い改めた。
2:底本は、「持(もち)しが。我子(わがこ)なから。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
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