暗がりの手形
「美女は身の敵。」と昔より申し伝へし。思ひ当たる事ぞかし{*1}。
今川采女と申す人、生国越後にて、段々義理につまつて、人を討つて退きしに、親類のなき事、かやうの時の喜びなりしに、歎きあり。この二年余り相馴れし女、この別れを悲しみ、「いづくまでも。」と袖にすがれば、是非なく連れて只二人、山越えに立ち退き、やうやうと危なき国元を離れ、信濃路にさしかかりて行くに、追分より、から尻を急がせぬれど、この所は女房馬方にてはかどらず{*2}。心ざしぬる宿まで、日の暮れければ、定まりの泊まり外なる野外れの一つ家の、常は旅人を泊めた事もなき主に、様々詫び言して情の一夜を明かすに、山風の激しく、早この里は、九月の末つ方{*3}より雪降り初め、寒さもひとしほ増されど、凌ぐべき着替へもなく、木曽の麻衣の一重なるを重ね、夜もすがら焚き火して、いかき茶といふ物を呑むより外の楽しみなし。世の憂き、年貢の足らぬ事、「牛が一匹欲しき。」など話し寝入りに、囲炉裏の松篝消えて、鼾ばかりになりぬ{*4}。
その頃、木曽の赤鬼とあざ名を呼び、暴れ者のありしが、与する若者あまた集めて内談するは、「今日の暮れ方に、屋敷女を連れて旅の者の通りしが、さてもさてもその姿、何とも言葉には述べ難し。見初むるより無理はおぼえて恋となり、命に替へてとも思ふなり。幸ひ今宵は宿外れに泊まれば、各々が力を添へ、この思ひを晴らさしてくれよ。」と、鬼の目にも涙を流して頼む。無分別盛りの若者、「それは手に入りたる女なり。さらば皆々、形を変へよ。」と、色々頭巾に顔隠して、かのかり宿の門に行きて、大勢声を立てて、「人足出だせ。」と呼べば、亭主駆け出づるを捕つて締め、かの男を初め、家内残らず縄をかけ置き、火打ちの光に女を見付け、様々我がままして逃げて行く。
思ひ寄らざる事、是非にかなはぬ難儀に遭ひ、夜の明くるを待ちかね、奉行へ御訴訟申し上ぐるに{*5}、「何も盗らぬ事の不思議なり。一人も見知らねば、何を以て詮索の種もなし。」と仰せける。その時、「それがし、覚えの候へば、この宿中、男残らず御前へ。」と申し上ぐる。一人も残らず召されける。
女、罷り出で、「この内に二、三人も、背中に鍋炭の手形あるべし。」と。肩を脱がして詮索するに、顕はれて、この仲間十八人成敗あそばしける。さてもせはしき中に、女の知恵を褒めける。
「これまでの因果。」と、夫婦刺し違へける。
校訂者注
1:底本は、「事そかし。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
2:底本は、「はかとらず。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
3:底本は、「末(すへ)ずかた」。『日本古典全書 井原西鶴集四』(朝日新聞社 1974)に従い改めた。
4:底本は、「ゆるりの松かくり消(きへ)て。鼾(いびき)ばかりなりぬ。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)本文及び脚注に従い改めた。
5:底本は、「申あくるに。」。『新日本古典文学大系76』(岩波書店 1991)に従い改めた。
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