本朝永代蔵 巻之一
初午は乗つて来る仕合せ
天道もの言はずして国土に恵み深し。人は実あつて偽り多し。その心は、もと虚にして、物に応じて跡なし。これ、善悪の中に立つて直なる今の御代を豊かに渡るは、人の人たるが故に、常の人にはあらず。
一生一大事、身を過ぐるの業、士農工商の外、出家神職に限らず、始末大明神の御託宣に任せ、金銀を溜むべし。これ、二親の外に命の親なり。人間、長く見れば朝を知らず、短く思へば夕べに驚く。されば、天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻と言ふ。時の間の煙、死すれば何ぞ。金銀、瓦石には劣れり。黄泉の用には立ち難し。然りといへども、残して子孫の為とはなりぬ。
ひそかに思ふに、世に有る程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天が下に五つ有り。それより外はなかりき。これにましたる宝船の有るべきや。見ぬ嶋の鬼の持ちし隠れ笠隠れ蓑も、俄雨の役に立たねば、手遠き願ひを捨てて、近道にそれそれの家職を励むべし。福徳はその身の堅固に有り。朝夕油断する事なかれ。殊更、世の仁義を本として、神仏を祭るべし。これ、和国の風俗なり。
折節は春の山、二月初午の日。泉州に立たせ給ふ水間寺の観音に、貴賤男女詣でける。皆、信心にはあらず、欲の道連れ。遥かなる苔路、姫萩、荻の焼け原を踏み分け、いまだ花もなき片里に来て、この仏に祈誓かけしは、その分際程に富めるを願へり。この御本尊の身にしても、一人一人に返言し給ふも、尽きず。「今この娑婆に、掴み取りはなし。我頼むまでもなく、土民は汝に備はる、夫は田打ちて婦は機織りて、朝暮その営みすべし。一切の人、この如く。」と、戸帳越しにあらたなる御告げなれども、諸人の耳に入らざる事の浅まし。
それ、世の中に借銀の利息ほど、恐ろしき物はなし。この御寺にて、万人借り銭する事あり。当年一銭預りて、来年二銭にして返し、百文請け取り、二百文にて相済ましぬ。これ、観音の銭なれば、いづれも失墜なく返納し奉る。各々五銭三銭、十銭より内を借りけるに、ここに年の頃二十三、四の男、生れ付き太く逞しく、風俗律義に、頭つき後上がりに、信長時代の仕立。着る物、袖下せはしく、裾周り短く、上下共に紬の太織{*1}を無紋の花色染にして、同じ切れの半襟を掛けて、上田縞{*2}の羽織に木綿裏を付けて、中脇差に柄袋をはめて、世間構はず尻からげして、ここに参りし印の山椿の枝に、野老入れし髭籠取り添へて{*3}下向と見えしが、御宝前に立ち寄りて、「借り銭一貫。」と言ひけるに、寺役の法師、貫ざしながら相渡して、その国その名を尋ねもやらず。かの男、行き方知れずなりにき。
寺僧集まりて、「当山開闢よりこのかた、終に一貫の銭貸したるためしなし。借る人、これが始めなり。この銭、済むべき事とも思はれず。自今は大分に貸す事、無用。」と沙汰し侍る。
その人の住み所は武蔵江戸にして、小網町の末に浦人の着きし舟問屋して、次第に家栄えしを喜びて、掛硯に「仕合丸」と書き付け、水間寺の銭を入れ置き、漁師の出船に子細を語りて、百文づつ貸しけるに、「借りし人、自然の幸ひ有りける。」と遠浦に聞き伝へて、せんぐりに毎年集まりて、一年一倍の算用に積もり、十三年目になりて、元一貫の銭、八千百九十二貫に嵩み、東海道を通し馬に付け送りて、御寺に積み重ねければ、僧中、横手打ちて、その後僉議あつて、「末の世の語り句になすべし。」と、都よりあまたの番匠を招きて宝塔を建立、有難き御利生なり。
この商人、内蔵には常燈の光。その名は網屋とて、武蔵に隠れなし。惣じて親の譲りを受けず、その身才覚にして稼ぎ出し、銀五百貫目よりして、これを分限と言へり。千貫目の上を長者とは言ふなり。この銀の息よりは、幾千万歳楽と祝へり。
【口訳】
天道は、黙つては居られるが、その恵みは天下に深い。ところが人は、誠はあるが、一方には又偽りも多い。然るに人の本心は、元来空虚で、外物に応じて善とも悪ともなるもので、外物が去ればまた空虚に帰して、跡形がない。かやうに善と悪との世の中に立つて、正しい今の御代を正直にしかも豊かに渡世するのは、本当にすぐれた人であるわけだから、かやうな人は、平凡な人ではない。 一生の一大事は渡世の業で、士農工商は勿論、僧侶神官に至るまで、倹約の神様のお告げに従ひ、倹約を第一として金銀を溜めるのがよい。金銀は、両親を除いては、命の親だ。だが人の一生も、長いと見れば翌朝も待たずに死に、短いと思へば、その日の夕方にも世を去る人がある。支那の詩人も、「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻」と言つている。人生は暫くの間に火葬の煙と消える。死ぬれば金銀も何の役に立たうぞ。瓦石にも劣るものだ。未来の用には立ち難い。さうではあるが、残しておけば、子孫の為にはなるものだ。
心に思ふに、世にある程の願ひは、何に限らず、金銀の力で出来ない事は天下に無いはずで、唯不可能なのは五つだけだ{*4}。それ以外には無い。金銀にまさる宝が外にあらうや。見た事もない島の鬼が持つてゐるといふ隠れ笠隠れ蓑も、俄雨の役には立たないから、さやうな迂遠な願ひを捨てて近道を取り、めいめいの家業を励むがよい。だが、仕合せを得るには、その身持ちを健実にするにある。常住、油断するな。殊更、世間の道徳を第一として、神仏を祭るがよい。これは日本の風俗である。
時は春の山遊びによい二月初午の日、泉州にお立ちになつてゐる水間寺の観音様に、貴賤男女が参詣する。しかし皆、信心の為ではなく、欲深い人の道づれで、遥かに続く苔路をたどり、姫萩や荻の焼け原を踏み分け、まだ桜の花も咲かない片田舎に来て、この仏に祈願する事は、その分際相応に富まん事を願ふのである。しかるに、この御本尊にしても、一人一人にお答えなさつても、尽きないわけだ。そこで、「当世では、濡れ手で粟を掴むやうな金儲けは無い。我を祈るまでもなく、百姓の本職は汝らに備はつてゐる。即ち、夫は田を耕し、婦人は機を織つて、朝夕その仕事をせよ。一切の人、皆、かうせよ」と、戸帳越しにあらたかな御告げであるけれども、諸人の耳に入らないのは情けない事だ。
一体、世の中に借銀の利息ほど恐ろしいものは、外にない。知らぬ間に嵩むものだ。この御寺に多くの人々が借銭する風習がある。本年一文借りて、来年二文にして返し、百文借りれば二百文にして済ますのである。これは観音の銭だから、皆々浪費する事なく返納し奉る。大抵の人は皆、五文三文、十文以内を借りるのに、ここに年輩二十三、四の男、体格が太く逞しく、身なりが質朴で{*5}、髪形は後上がりで、信長時代の仕立をした着物を着、袖下狭く裾短く、上下共に紬の太織を無地の花色染にして、同じ切れの半襟を掛け、上田縞の羽織に木綿裏を附け、中脇差に柄袋をはめ、世間体を構はず尻からげして、ここに参詣した印として、山椿の枝に、野老入れた髭籠を取り添へてかたげながら、帰途と見えるが、御宝前に立ち寄つて、「借銭一貫、お頼み申す。」と言つた。そこで役僧は、貫ざしのまま相渡したが、その住所姓名を尋ねる暇もないうちに、かの男は行方知れずなつた。
寺僧達が集まつて、「この寺開山以来、未だ{*6}かつて一貫の銭を貸した例がない。借りる人は、これが始めだ。この銭は、返済しさうにも思はれない。今後はたくさん貸す事はいけない。」と議決した。
この男の住所は武蔵国江戸で、小網町の下手に舟着き場があるが、そこに舟問屋をしてゐたが、次第に繁昌したのを喜んで、掛硯に仕合丸と書き付け、水間寺の銭を入れ置き、漁師の出船の時、この銭のいはれを話して、百文づつ貸した。ところが、借りた人は自然に福運を得た事を、遠い漁村までも聞き伝へて、その返済する銭が毎年集まり、一年二倍の算用に見積もり、十三年目になつて、元一貫の銭が八千百九十二貫に増加した。そこで、これを通し馬に付けて東海道を運送し、水間の御寺に積み重ねたので、僧達は皆、横手を打つて感服した。その後評議して、将来の話の種になさうといふ事になり、都からあまたの大工を呼び寄せ、宝塔を建立した。有難き御利益だ。
この商人の内蔵には常燈の光が輝き、その名は網屋といつて、武蔵に知れ渡つてゐる。この人は親の遺産を受けず、自分の才能で儲け出したのであつた。一体、銀五百貫目{*7}からの資産家は、これを分限と言ふ。千貫目以上を長者とは言ふのである。網屋では、この銀の勢ひから幾千万貫と殖え、行く末長く栄えるやうに、万歳楽と祝つてゐる。
【批評】
事件の推移を叙述するばかりでなくて、遥かなる苔路、姫萩、荻の焼け原を踏み分くる早春の野べを写す事を忘れず、始末男の風采を精細に描くところに、作者の特長が見えるのである。校訂者注
1・2:底本は、「ふとり」「上田嶋(うへだしま)」。底本語釈及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従いそれぞれ改めた。
3:底本は、「取りそろへて」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
4:底本語釈に、「地水火風空の五輪。五大ともいふ。ここは自分の身体をいふ。」とある。
5:底本語釈に、「〇風俗 みなり。」「〇律義 質朴なこと。」「〇裾まはり 裾たけ。裾のたけが長いのは質素な風。」「〇ふとり 太織の約。粗末な太い絹糸で織つたもの。」「〇半襟 当時の町人は男女共に黒の半襟を着物に掛けるのが普通であるのに、同じ切れの半襟をかけたのは、半襟の分は裁ち出したので、別に黒い切れを買はなくても済むからである。これも粗末な風を描いてゐる。」「〇上田嶋 経緯とも紬糸で、極めてもちがよく、これで仕立てた着物は、裏を三度取り替へても表は一つで間に合ふと言ふ程で、三裏縞とも言つた。」「〇柄袋(つかふくろ) 世智弁袋(せちべんぶくろ)とも言ふ。世智弁とは悋(しは)い事で、柄を惜しむ故かく言ふ。この男が柄袋をはめてゐるのは、しはい事を示してゐる。」とある。
6:底本は、「末だ」。
7:底本語釈に、「〇銀五百貫目 仮に貞享元年に於ける大阪銀価を言へば、金一両に対し銀六十目、銭一貫文に対し銀十三匁ないし十五匁であつた。」とある。
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