浪風静かに神通丸{*1}
諸大名には、いかなる種を前生に蒔き給へる事にぞ有りける。万事の自由を見し時は、目前の仏と言うて、又外になし。さればとよ、世に大名の御知行百二十万石を、五百石取り、釈迦如来御入滅この方、今に永々勘定したて見るに、これを取り尽くさじと言へり。大身小身{*2}の違ひ、格別世界は広し。
近代泉州に唐金屋とて、金銀に有徳なる人出来ぬ。世渡る大船を造りて、その名を神通丸とて、三千七百石{*3}積みても足軽く、北国の海を自在に乗りて、難波の入り湊に八木の商売をして、次第に家栄えけるは、諸事につきてその身調義のよき故ぞかし。
惣じて北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に五万貫目のたてり商ひも有る事なり。その米は、蔵々に山を重ね、夕べの嵐、朝の雨、日和を見合せ、雲の立ち所を考へ、夜の内の思ひ入れにて、売る人有り、買ふ人有り。一分二分を争ひ、人の山をなし、互ひに面を見知りたる人には、千石万石の米をも売買せしに、両人手打ちて後は、少しもこれに相違なかりき。
世上に金銀の取り遣りには、預かり手形に請け判慥かに、「何時なりとも御用次第。」と相定めし事さへ、その約束を延ばし、出入りになる事なりしに、空定めなき雲を印の契約を違へず、その日切りに損徳を構はず売買せしは、扶桑第一の大商人の心も大腹中にして、それ程の世を渡るなる難波橋より西{*4}、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍を並べ、白土、雪の曙を奪ふ。杉ばへの俵物、山もさながら動きて、人馬に付け送れば、大道轟き地雷の如し。上荷、茶船、限りもなく川浪に浮かびしは、秋の柳に異ならず。米刺しの先を争ひ、若い者の勢ひ、虎臥す竹の林と見え、大帳、雲を翻し、十露盤、霰を走らせ、天秤、二六時中の鐘に響きまさつて、その家の風、暖簾吹き返しぬ。
商人あまた有るが中の嶋に、岡、肥前屋、木屋、深江屋、肥後屋、塩屋、大塚屋、桑名屋、鴻池屋、紙屋、備前屋、宇和嶋屋、塚口屋、淀屋など、この所久しき分限にして、商売やめて、多く人を過ごしぬ。
昔、ここかしこのわたりにて僅かなる人なども、その時に会うて旦那様と呼ばれて、置き頭巾、鐘木杖、替へ草履取るも、これ皆、大和、河内、津の国、和泉近在の物作りせし人の子供。惣領残して末々を丁椎奉公に遣はし置き、鼻垂れて手足の土気落ちざる内は、豆腐、花柚の小買物に使はれしが、お仕着せ二つ三つ年を重ねけるに、定紋を改め、髪の結ひ振りを吟味仕出し、風俗も人のやうになるに従ひ供はやし。能、舟遊びにも召し連れられ、行く水に数書く砂手習ひ、地算も子守の片手に置き習ひ、いつとなく角前髪より銀取の袋をかたげ、次第送りの手代分になつて、見るを見真似に自分商ひを仕掛け、利得は黙りて損は親方にかづけ、肝心の身を持つ時、親、請け人に難儀を掛け、遣ひ捨てし金銀の出所なく、それなりけりに{*5}内証扱ひ済みて、担ひ商ひの身の行く末、幾人か限りなし。おのれが性根によつて、長者にもなる事ぞかし。
惣じて大坂の手前よろしき人、代々続きしにはあらず。大方は吉蔵、三助が成り上がり。銀持ちになり、その時を得て、詩歌、鞠、楊弓、琴、笛、鼓、香会、茶の湯もおのづからに覚えて、よき人付き合ひ、昔の片言もうさりぬ。とかくに人は習はせ。公家の落とし子、作り花して売るまじきものにもあらず。
これを思ふに、奉公は主取りが第一の仕合せなり。子細は繁昌の所にはよらず。北浜過書町のほとりに住みける指物細工人有りしに、この職人にも小さき弟子二人ありしが、新屋、天王寺屋などの十貫目入りの銀箱、ふだん手に掛けて寸法は覚えて、その銀は終に手に取りたる事なし。この弟子、大人しくなりて一分店を出しけるに、親方に変はらず。鍋蓋、火燧箱の仕置き、これより外を知らず。「この者も、同じ所から大所に使はれなば、それぞれの商人になるべきものを。」と見及び、不憫なり。
すぎはひは草箒の種なるべし。この浜に西国米水揚げの折節、こぼれすたれる筒落米を掃き集めて、その日を暮らせる老女有りけるが、形ふつつかなれば、二十三より後家となりしに、後夫となるべき人もなく、一人有る倅を行く末の楽しみに、悲しき年を経りしに、いつの頃か、諸国改免の世の中すぐれて、八木だいぶんこの浦に入り舟。昼夜に揚げかね、借り蔵せまりて置くべき方もなく、沢山に取り直し、すたれる米を塵塚まじりに掃き集めけるに、朝夕に食ひ余して一斗四、五升溜りけるに、これより欲心出来て始末をしけるに、はや年中に七石五斗延ばして、ひそかに売り、明けの年なほまた延ばしける程に、毎年嵩みて、二十余年に臍繰り銀十二貫五百目になしぬ。
その後、倅にも九歳の時より遊ばせずして、小口俵のすたるを拾ひ集めて、銭ざしをなはせて両替屋、問屋に売らせけるに、人の思ひ寄らざる銭儲けして、我が手より稼ぎ出し、後には確かなる方へ日貸しの小判、当座貸しのはした銀。これより思ひ付きて、今橋の片蔭に銭店出しけるに、田舎人立ち寄るに暇なく、明け方より暮れ方まで、僅かの銀子取り広げて、丁銀、細銀替へ、小判を豆板に替へ、秤に暇なく掛け出し、毎日毎日積もりて、十年たたぬ内に仲間商ひの上盛りになつて、諸方に貸し帳。我が方へは借る事なく、銀替の手代、これに腰をかがめ機嫌を取る程になりぬ。小判市も、この男買ひ出せば俄に上がり、売り出せば忽ち下がり口になれり。おのづからこの男の口を窺ひ、皆々手を下げて、「旦那。旦那。」と申しぬ。
中にも先祖を探して、「何ぞ。あれめに随ひ世を渡るも口惜しき。」と我を立てける人、物の急なる時にさし当たつて迷惑し、これも又御無心申さるる、{*6}金銀の威勢ぞかし。後は大名衆の掛け屋、あなたこなたの御出入り専らにしければ、昔の事は言ひ出す人もなく、歴々の聟となつて、家蔵、数を造りて、母親の持たれし筒落箒、蘂箒、渋団扇は貧乏招くと言へども、「この家の宝物。」とて、乾の隅に納め置かれし。
諸国を巡りけるに、今もまだ稼いでみるべき所は、大坂北浜。流れありく銀もありと言へり。
【口訳】
諸大名は、前世に於いてどんなに善い種をお蒔きになつたのであらう、真に果報な御身分だ。万事につけて栄耀ができる時は、目前の仏とも言ふべきで、こんなお仕合せな方は外にはない。だからこそ世間では、大名の禄高百二十万石を五百石取りの武士に比ぶれば大きい相違で、「釈迦如来御入滅以来、永年の間勘定してみるに、これを取り尽くすまい。」と世間で言つてゐる。大身小身の違ひは格別大きく、これにつけても世間の広い事がわかる。
近年、泉州{*7}に唐金屋とて、金銀に富裕な人が出来た。渡世の為に大船を造つて、その名を神通丸とつけ、三千七百石{*8}積んでも船足が軽く、北国の海を自在に乗つて難波の港に入り、米{*9}の商売をして次第に家運が繁昌したが、これは諸事につけて、その身の工夫の宜しい故であるのだ。
一体、北浜の米市は、大阪が日本第一の港であればこそ、一刻の間に銀五万貫目のたてり商ひ{*10}も有る事だ。その米は、蔵々に山の如く重ね、「夕方は嵐が吹くか、明日は雨が降るか。」と天気を見合せ、雲の立つ方を考へ、夜の内の思はくで売る人もあれば、買ふ人もある。一分{*11}二分を争ひ、山の如く群集し、互ひに顔を見知つてゐる人には、千石万石の米をも売買するのであるが、両者が売買の約束をして手を打つた後は、少しもこの約束に背く事はないのであつた。
世間に於いては、金銀の貸借には、預かり手形に保証人の印判まで押して、「慥かに何時なりとも御用次第、返進可致候。」などと相定めた事でさへ、その約束の期限を延ばして訴訟沙汰になる事であるのに、この米市では、あてにもならぬ天気模様を目印にした契約を違へず、その期日限りに損得を構はず売買してゐるのは、日本第一の大商人の心も太つ腹であるが為で、それほど豪気に世を渡る難波橋から西を見渡せば、風景もさまざまで、数千軒の問屋は棟を並べ、白壁の色は雪の曙よりもまさつてゐる。杉ばえ{*12}の俵物は、山もそのまま動くが如く、これを人馬に付け送れば、大道が轟いて地雷のやうだ。上荷船、茶船が無数に川浪に浮かんでゐる様は、秋の柳の枯葉のやうだ。米刺しが先を争つて刺しを入れ、若い者が働く勢ひは、虎臥す竹の林と見え{*13}、大帳の紙をめくるのは、雲を翻すが如く、算盤の珠をはじくのは、霰をたばしらすが如く、天秤を叩く音は、十二の時を報ずる鐘の響きよりもやかましく、軒毎の暖簾は翻り、家々の繁昌ぶりを示してゐる。
商人が沢山あるが、その中でも中の島には、岡、肥前屋、木屋、深江屋、肥後屋、塩屋、大塚屋、桑名屋、鴻池屋、紙屋、備前屋、宇和嶋屋、塚口屋、淀屋などあつて、この処では古くからの分限者で、商売をやめてゐる家でも、なほ多くの人を雇つて暮らしてゐる。
昔、あちこちに住んでゐた僅かな身代の人なども、出世すれば旦那様と呼ばれて、頭巾をかぶり、鐘木杖をつき、草履取りを召し連れる程の身分となつてゐるが、これらも元は皆、大和、河内、摂津、和泉辺の農業をしてゐた人の子供で、これらの農家では、長男を家に残して、次男以下を丁椎奉公に遣はしておくものだが、洟垂れて手足の土気の失せない間は、豆腐、花柚の小買物に使はれるが、お仕着せを貰つて二、三年たてば、着物も主家の定紋に改め、髪の結ひ振りを吟味し始め、風采も一人前のやうになるに随ひ、お供{*14}、能、舟遊びにも召し連れられ、その暇には砂に手習ひをしたり、地算も子守りの片手間に置き習ひ{*15}、いつの間にか角前髪{*16}となつてからは、銀取りの袋をかたげるやうになり、順々に手代分になれば、朋輩の真似して自分商ひをし始め、利益は黙つて懐にし、損は主人に負はせ、大切な独立の店を開く時、親や保証人に難儀を掛け、遣ひ捨てた金銀の出所はなく、そのままに内々の仲裁が済んで、行く末はみすぼらしい担ひ商ひをする身となる者が幾人あるか、限りもない。一体、人は自分の心掛けによつて、長者にもなるものだ。
一体、大阪の身代豊かな人は、代々続いたのではない。大方は、吉蔵、三助{*17}が成り上がつて金持ちになつたもので、仕合せを得れば、詩歌、鞠、楊弓、琴、笛、鼓、香会、茶の湯も、自然に覚えて紳士の仲間入りをなし、昔の片言もなくなるものだ{*18}。とかく人は習はせに依るもので、公家の落胤でも造花を拵へて売るまいものでもない。
これを思ふに、奉公するには大商店の主人に仕へるのが第一の仕合せだ。そのわけは、必ずしも繁昌してゐる所に奉公する意味ではない。北浜過書町の辺に住んでゐた指物細工人があつたが、この職人にも小さい弟子があつたが、新屋、天王寺屋などの十貫目入りの銀箱を平生造つてゐるので、寸法は覚えてゐるが、つひぞ十貫目程の銀を儲けた事はない。この弟子が成人して独立の店{*19}を出したが、やはり元の主人に変はらず、鍋蓋、火打ち箱の型にはまつた造り方を知つてゐるのみで、これより外の事を知らない。「この者も、同じ奉公するにしても、大商店に使はれたなら、相当立派な商人にならうものに。」と、目に止めて以来、不憫に思つてゐる。
渡世のわざはいくらもあるもので、草箒{*20}の種のやうなものであらう。この北浜に西国米を水揚げする時、こぼれすたる筒落米{*21}を掃き集めて、その日を暮らしてゐる老女があつたが、二十三から後家となつたのだが、容貌がよくないので後夫となる人もないので、一人有る息子を将来の楽しみにして、悲しい年月を送つてゐた。さて、いつの時代か諸国一般に年貢の改定があつて、その上豊作となり、米がたくさんこの浦に輸送され、昼夜かかつても舟からこれを揚げかね、借り蔵も狭くなつて俵物を置くべき所がなく、沢山置き直すごとにすたる米を掃き集めたところが、朝夕食べても尚余して、一斗四、五升溜つた。これから欲心が起こつて倹約をしたところが、はや一年中に七石五斗溜めたので、ひそかにこれを売り、翌年また溜めたところが、毎年増加して、二十余年間に臍繰り銀を十二貫五百目になした。
その後、息子にも九歳の時から遊ばせないで、さん俵のすたるのを拾ひ集め、銭差しを綯はせて{*22}両替屋、問屋に売らせたところが、人の思ひ寄らぬ銭儲けして、自分の腕で稼ぎ出し、後には確実な人へ、小判の日貸しやはした銀の当座貸しをしてゐたが、これから思ひ付いて、今橋の片ほとりに銭店{*23}を出したところが、田舎の人が立ち寄るので忙しく、明け方から暮れ方まで、僅かの銀子を店に並べて、丁銀をこまがねに替へたり、小判を豆板に替へたり{*24}、秤に暇なく掛けるやうになり、毎日毎日利益が積もつて、十年たたぬ内に仲間商ひの銀親になり{*25}、諸方に貸し出して貸し帳につけ、自分の方には借りる事がなく、銀替へに来る手代も、この男に腰を屈めて機嫌を取る程になつた。小判の相場も、この男が買ひ出せば俄に上がり、売り出せば忽ち下がり口になるのであつた。自然にこの男の口ぶりを注意して聞き、皆々手を下げて「旦那。旦那。」と申した。
世には、この男の素性を詮索して、「何だ、あんなやつに随つて渡世するのも残念だ。」と、我を立ててゐた人も、銀子の急に要る時には、さしあたつて困却し、この人も又、御無心をなさる。これまた金銀の威勢である。後には大名衆に貸し付ける掛け屋になり、諸方の御屋敷への御出入りを専らにしたので、昔の素性は言ひ出す人もなく、お歴々の娘を貰つて、家や蔵を多く造り、「母親の持たれた筒落箒、蘂箒、又、『渋団扇は貧乏招く。』と世間では言ふけれども、この家にとつては宝物だ。」とて、これらを乾の隅{*26}にしまつて置かれた。
諸国を巡つてみるに、今でもまだ稼いでみるべき所は大坂の北浜で、流れありく{*27}銀さへもあると言ふことだ。
【批評】
作者は例によつて、致富談や教訓を述べようとしたらしいけれども、その致富談の筋は、すこぶる平凡なものであり、教訓も何ら深みのあるものではない。むしろ、事物世態の描写、人心の機微を説破した点に、作者の才藻を認め、かつ最も興味を覚えるのである。即ち、作者の予期しようとする事は、我等が、さまで感興を覚えぬ内容であつて、作者が脱線してゐる点に、一段の興味を覚えるのである。永代蔵三十篇を大体から観察するならば、致富の虎の巻ではなくて、読み物として面白いのである。読者としては、実利を得るのでなくして、趣味を感ずるのである。教訓書といふよりも、むしろ文芸作品としてこの書の価値を認めるのである。かく観来たれば、本編の如きは又、永代蔵中の一代表作と言へよう。
校訂者注
1:底本は、「神痛丸(じんづうまる)」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
2:底本は、「大(たい)人小人」。底本語釈に従い改めた。底本語釈に、「大身は大小名など、小身は小禄の人。」とある。
3:底本は、「三千七百名」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
4:底本は、「両(にし)」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
5:底本は、「そのなりけりに」。『日本永代蔵精講』(1953)に従い改めた。
6:底本は、「申さるゝ。皃金銀(きん(二字以上の繰り返し記号))の」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
7:底本語釈に、「〇泉州(せんしう) 勿論和泉国であるが、堺の事をいふ。」とある。
8:底本は、「三千五百石」。「日本永代蔵」本文に従い改めた。
9:底本語釈に、「〇八木(ぼく) はちぼく。米の異名。」とある。
10:底本語釈に、「〇たてり商(あきなひ) 空米相場の一種。『たて』は売建(うりたて)(売りの契約)買建(買ひの契約)などの『たて』から来たもので、『り』は接尾語であらう。」とある。
11:底本語釈に、「〇壱分 銀一分。一分は一匁の十分の一。」とある。
12:底本語釈に、「〇杉(すぎ)ばへ 米俵などを三角形に積みかさねること。杉の生えてゐる形が三角であるので、かく言ふ。」とある。
13:底本語釈に、「〇米(こめ)さし 俵米の品質を検する為に、米俵に突き刺す竹の筒で、長さ七、八寸、先が斜めに切つて尖つてゐる。これを半ば俵物に突き刺して引き抜けば、一、二百粒の米が竹筒に入つたまま出る。かくする事を刺米(さしまい)(差米)と言ふ。この刺し米をなす者を米さしとも言つた。」「〇若(わか)ひ者 北浜で俵物を運ぶ者を特に称した。」「〇虎臥竹(とらふすたけ)の林(はやし)と見へ 若い者などを虎に譬へ、手に持つ米さしを竹の林に見立てた。」とある。
14:底本語釈に、「〇供(とも)はやし 供。主人の供。供の鑓持ちが主人を出迎へる時に、鑓を持つて或る一定の所作をなしながら、はやす風習があつたので、それから来た言葉と思はれる。」とある。
15:底本語釈に、「〇行く水に数書く ここは単に砂の序詞。」「〇砂手習(すなてならひ) 砂に字を書いて習ふこと。」「〇地算(ぢざん) 珠算の基本的な置き方で、加算を言ふ。地は地色(ぢいろ)、地声(ぢごゑ)などの地。」とある。
16:底本語釈に、「〇角前髪(すみまへがみ) 手代見習ひになると、前髪の左右にある小鬢の角(すみ)を角(かど)張つた形に剃り込む。これを角(すみ)を入れると言ふ。これを半元服、半若い者と称した。」とある。
17:底本語釈に、「〇吉蔵三助 共に下男の呼び名。」とある。
18:底本語釈に、「〇片言(かたこと) 不完全な言葉づかひ。なまりことば。」「〇うさりぬ 失せぬに同じ。」とある。
19:底本語釈に、「〇一分(ぶん)見世 一人前の店。主家から独立した店。」とある。
20:底本語釈に、「草箒は箒草で造つた箒で、箒草は一年生草本で、小さな種子が無数に出来る。」とある。
21:底本語釈に、「〇筒落米(つつをごめ) 刺し米の時、米刺しの筒からこぼれ落ちた米。」とある。
22:底本語釈に、「〇小口俵(さんたはら) 米俵の両端を塞ぐ円い蓋。藁で造る。」「〇銭(ぜに)ざし 銭を貫いて一束にする縄。藁で造る。百文を貫くものを百ざし、一貫文を貫くものを貫ざしと言ふ。単に、さしとも言ふ。」とある。
23:底本語釈に、「〇銭(ぜに)見世 銭両替屋。銀貨を銭に切り替へる事に応ずるのであるが、小判を銀貨に、丁銀を小玉に替へる事もする。そして切り賃、即ち切替の手数料を取つて渡世をする店である。大両替、本両替屋とは本務を異にする。貞享元年に於ける大阪の銭価は、その一貫文に対し銀十三匁ないし十五匁、銀価はその六十目に対し小判一両であつた。」とある。
24:底本語釈に、「〇丁銀(てうぎん) 挺銀とも書く。一枚の重さは当時は約四十三匁であつた。」「〇こまかね こまがね。細銀。小粒の銀貨。豆板銀を言ふ。」「〇大豆板(まめいた) 豆板銀。小玉銀。略して小玉とも言ふ。」とある。
25:底本語釈に、「〇うはもり 上守(うはもり)の義。銭屋仲間を支配監督するもの。銀親(かねおや)。」とある。
26:底本語釈に、「〇乾(いぬゐ)の隅(すみ) 戌亥即ち西北隅。西北隅に福の神大黒天を祀る風俗があつた。」とある。
27:底本語釈に、「〇流(なが)れありく 銀が溢れて所有者の一定しないこと。誇張法である。」とある。
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