才覚を笠に着る大黒{*1}
一に俵、二階造り、三階蔵を見渡せば、都に大黒屋と言へる分限者有りける。富貴に世を渡る事を祈り、五條の橋、切り石に架け替はる時、西詰より三枚目の板を求め、これを大黒に刻ませ、信心に徳あり。次第に栄え、家名を大黒屋新兵衛と知らぬ人はなかりき。
男子三人無事に育て、いづれも賢く、親仁喜び老後の楽しみを極め、追つつけ隠居の支度をせしに、惣領の新六、俄に金銀を費し、算用なしの色遊び。半年たたぬに百七十貫目、入り帳の内見えざりしに、とても埒の明かざる僉議なれば、手代、一つに心を合はせ、買ひ置きの有り物に勘定仕立て、七月前をやうやうに済まし、「向後、奢りを止め給へ。」と異見さまざま申せしに、更に聞き入れずして、その年の暮れに又二百三十貫目足らず。今は内証に尾が見えて、稲荷の宮の前に知るべの人ありて、身を隠しぬ。
律義なる親仁、腹立せられしを、色々詫びても機嫌直らず。町衆に袴着せて旧里を切つて、子を一人捨てける。されば、親の身としてこれ程までうとまるる事、大方ならぬ悪心なり。新六、是非もなき仕合せ、はや当分の借り屋にも居られぬ首尾になりて、ここを立ち退き、東の方へ行く道の草鞋銭とてもなく、「悲しさは{*2}我が身一つ。」と歎くに甲斐もなし。
頃は十二月二十八日の夜、水風呂に入りしを、「それ、親仁様。」と言ふ声恐ろしく、濡れ身に綿入一つ肩に掛け、左に帯を提げて、下帯には気を付けずして逃げ延び、今日旅立つにも尻からげ気の毒。二十九日の空定めなく、溜まりもやらぬ白雪の、藤の森の松に降りしこりて、菅笠なしの首筋に入相の鐘も胸に響きて、大亀谷、勧修寺の茶屋の奇麗に湯釜のたぎるを好もしく、「堪へ難き寒さを凌ぐ物よ。」と思ひながら、一銭も無ければ腰掛けを見合はせ、大津、伏見駕籠の立ち続き、大勢のどさくさ紛れに咽の渇きをやめ、立ちさまに人の脱ぎ捨てし豊嶋莚を外し、初めて盗み心になつて行くに、小野といふ里に着きぬ。
落ち葉して梢寂しき柿の木の蔭に、童友達の集まりて、「惜しや。弁慶が死にける。」と悔むを聞けば、特牛ほどなる黒犬なるを、立ち寄りてこれを貰ひ、かの莚に包み、音羽山の麓に行きて、野に鍬使ふ男を招き、「これは、疳の妙薬になる犬なり。三年余り種々の薬を与へ、今、黒焼になす。」と言へば、「さては、諸人の為ぞ。」と辺りの柴、枯れ笹を集め、火打袋を取り出し、煙の種となし、里人にも僅かに取らせ、残るを肩に置きて、山家の作り言葉になりて、「狼の黒焼は。」と声の可笑しげに売りて、行くも帰るもの関越えて、知るも知らぬもに突き付け商ひ。ずいぶん道中の人に馴れたる心の針屋、筆屋騙られて、追分より八丁までに五百八十が物、代なして、まづは才覚男。
「この取り廻しが京にて出れば、遠い江戸までは行かずに済む事を。」と心ながら泣いつ笑うつ、勢田の長橋、末に頼みを掛けて草津の人宿にて年を取り、姥が餅を昔の鏡山に見なし、やがて心の花も咲き出る桜山。色も香も有る若盛り、稼ぐに追ひ着く貧乏神は、足弱き老曽の森の注連飾りもおのづからに春めきて、秋見る月も頼もしく、不破の関戸の明け暮れ、美濃路、尾張を過ぎて東海道の在々廻り、都を出て六十二日目に品川に着きぬ。
これまでの口を過ぎ、銭二貫三百延ばし、売り残せし黒焼きを磯浪に沈めて、それより江戸入りを急ぎしに、暮れて、行く当てどもなければ、東海寺門前に一夜を明かしけるに、その片蔭に薦かぶりて非人あまた臥しけるが、春も浦風荒く浪枕の騒がしく、目の合はぬ夜半まで身の上の事ども物語するを聞くに、皆、筋なき乞食。
一人は大和の龍田の里の者。「少しの酒造りて、六、七人の世を楽々と送りしに、次第に溜まりし金銀取り集めて百両になる時、所の商ひまだるく、万事うち捨てここに下るを、一門残らず、親しき友の色々申して止めける。我が無分別盛んに任せ、呉服町の肴棚借りて、上上吉諸白の軒並びには出しけれども、鴻の池、伊丹、池田、南都。根強き大木の杉の香りに及び難く、酒元手を皆、水になして、四斗樽の薦を身にかぶりて、古郷の龍田へ紅葉の錦は着ずとも、せめて新しき木綿布子なれば帰るに。」と男泣きして、「これにつけても、仕付けたる事をやめまじきものぞ。」と言ふ程よろしからず。よい智恵の出時、もはや遅し。
又一人は泉州堺の者なりしが、よろづに賢過ぎて、芸自慢してここに下りぬ。手は平野仲庵に筆道を許され、茶の湯は金森宗和の流れを汲み、詩文は深草の元政に学び、連俳は西山宗因の門下と成り、能は小畠の扇を請け、鼓は生田与右衛門の手筋。朝に伊藤源吉に道を聞き、夕に飛鳥井殿の御鞠の色を見、昼は玄斎の碁会に交じはり、夜は八橋検校に弾き習ひ、一節切は宗三に弟子となりて息使ひ、浄瑠璃は宇治嘉太夫節。踊りは大和屋の甚兵衛に立ち並び、女郎狂ひは島原の大夫高橋にもまれ、野郎遊びは鈴木平八をこなし、騒ぎは両色里の太鼓に本粋になされ、人間のする程の事、その道の名人に尋ね覚え、「何をしたればとて、人の中には住むべきものを。」と腕頼みせしが、かかる至り穿鑿、当分身過ぎの用には立ち難く、十露盤を置かず秤目知らぬ事を悔しがりぬ。武士勤めは勝手を知らず、町人奉公もおろかなりとて追ひ出され、今この身になりて思ひ当たり、諸芸の代はりに身を過ぐる種を教へ置かれぬ親達を恨みける。
今一人は、親から江戸の地生えにて、通り町に大屋敷を持ちて、一年に六百両づつ定まつての棚賃を取りながら、始末の二字を弁へなく、その家まで売り果たし、身の置き所なく、心の燃ゆる火宅を出て、車善七が仲間外れの物貰ひとなりぬ。
思ひ思ひの身の上物語、さりとては同じ思ひに哀れ深く、新六、枕に立ち寄り、「我等も京の者なるが、旧里切られて御江戸を頼みに下りけるが、各々話を聞くに、心細し。」と恥を包まず申せば、三人ともに口を揃へて、「詫び言の手立てはあらずや。」「をば様もないか。」「何とぞ下り給はぬがよいものを。」と言ふ。「はや、後へ帰らぬ昔。今から先の思案なり。さて、面々の利発にて、かく浅ましく成り給ふは不思議なり。何事を見立て給ひても有るべき。」と言へば、「いかないかな。この広き御城下なれども、日本のかしこき人の寄り合ひ。銭三文あだには儲けさせず。只、銀が銀を溜める世の中。」と言へり。
「久しく見及び給ふ内に、商ひの仕出しは無きか。」と尋ねしに、「されば、大分にすたり行く貝殻を拾ひて、霊岩嶋にして石灰を焼くか。」「物事忙しき所なれば、刻み昆布、花鰹かきて量り売りか。」「続き木綿を買うて手拭の切り売りか。」「かやうの事ならでは、軽い商売有るまじ。」と言ふにぞ智恵付き、夜の明け方に立ち別れけるが、三人に三百の置き銭。悦ぶ事限りなく、「御仕合せ見えて、富士山程の金持ちに。今の事ぞ。」と申しける。
それより伝馬町の太物棚に知るべ有りて尋ね行き、この度の子細を語れば、哀れをかけ、「男の働くべき所はここなり。一稼ぎ。」と言ふにぞ力を得て、思ひ入れの木綿を調へ、切り売りの手拭。しかも三月二十五日、初めて下谷の天神に行きて、手水鉢のもとにて売り出しけるに、参詣の人、「買うての幸ひ。」と一日に利を得て、毎日これより仕出して、十ケ年たたぬ内に五千両の分限に指され、「一人の才覚者。」と言はれ、新六が指図を受けて所の人の宝とは成りける。暖簾に菅笠着たる大黒を染めければ、笠大黒屋と言へり。八つ屋敷方に出入り、九つ小判の買ひ置き、十で丁ど治まりたる、御代に住める事のめでたし。
【口訳】
一に俵、二階造り、三階蔵を見渡せば{*3}、これぞ都に名高い分限者大黒屋である。富裕に暮らす事を願ひ、五條の橋が切り石に架け替はる時、西詰から三枚目の橋板を求め、これを大黒の像に刻ませ、信心すれば徳があり{*4}、次第に繁昌し、屋号を大黒屋新兵衛と言つて、知らぬ人はなかつた。
男子三人を無事に愛育し、どれも賢いので親爺は喜び、老後の楽しみを極め、やがて隠居の準備をした。ところが長男の新六が俄に金銀を遣ひ出し、算用構はぬ傾城狂ひをやり、半年たたぬ内に、入り帳締高の内、百七十貫目の現銀が足らなかつた{*5}。これを取り調べたところで到底片付かぬ事なので、手代たちも新六と一緒に心を合はせ、買ひ置きの在庫品で計算の合ふやうに拵へ立て、盆前をやつと済まし{*6}、「以後、放蕩をやめなさい。」と手代たちは、異見さまざま申したが、少しも聞き入れないで、その年の暮れに又二百三十貫目足らなかつた。今は内情が暴露して{*7}、稲荷の宮の前に知る人があつて、そこに身を隠した。
実直な親爺も、とうとう腹を立てられたのを、色々お詫びしても機嫌が直らず、町衆に袴を着けて付き添つて貰ひ、町奉行所に願ひ出て勘当の処分をして{*8}、子を見捨てた。しかるに親の身として、これ程までに子をうとんじなさるのは、並大抵でない怒りがあるからだ。新六も仕方がない事になり、はや当分の借り屋にも居られぬ始末となつて、ここを立ち退き、江戸の方に行く事にしたが、道中の草鞋銭さへもなく、「我が身一人が悲しい。」と歎いても、今さら甲斐もない。
頃は十二月二十八日の夜、水風呂{*9}に入つてゐたが、「それ、親爺様だ。」と言ふ声が恐ろしく、濡れ身に綿入一つを肩に引つ掛け、左に帯を提げ、褌には気を付けずに逃げ延びたので、今日旅立つにしても、尻からげするには困つた。二十九日の空模様は定めなく、積もる程でもない白雪が、藤の森の松林に降りまさつて、菅笠なしの首筋に入り、夕べを告げる鐘の音も胸にしみながら、大亀谷、勧修寺に来ると、茶屋の綺麗に{*10}湯釜のたぎるのがおいしさうで、「あれは堪へ難い寒さをしのぐものよ。」と思ひながら、一文も無いので腰掛けるのを見合はせ、大津、伏見駕籠{*11}が立ち続いて、大勢の者が入り込むどさくさ紛れに一杯飲んで、咽の渇きをなほし、立ちしなに人の脱ぎ捨ててゐる豊嶋莚を外し取り{*12}、初めて盗み心になつて行くと、小野といふ村に着いた。
落葉して梢寂しい柿の木の蔭に、子供仲間が集まつて、「あつたら、弁慶が死んだ。」と悔むのを聞けば、特牛{*13}ほどの大きな黒犬であるので、立ち寄つてこれを貰ひ受け、かの莚に包み、音羽山の麓に行つて、野良に鍬打つ男を招き、「これは、疳の妙薬になる犬ぢや。三年余り色々の薬を与へ、今、黒焼きにしようと思ふところぢや。」と言へば、「それは人様の御為になりますぞ。」と言つて、辺りの柴、枯れ笹を集め、火打袋を取り出して焼いてくれたので、新六は村の人にも少し与へ、残りを肩に掛けて、山男の訛りに似せて、「狼の黒焼きは要りませんか。」と、おかしな声で売り歩き、逢阪の関を越え、知る人も知らぬ人にも押し売りをしたが、ずいぶん道中の人に馴れたずるい針売り{*14}筆売りさへも、これに騙られて、追分から大津の八町までに五百八十文ほど売つて{*15}、まづは才覚男となつた。
「この工夫が京で浮かんだら、遠い江戸までは行かずに済んだのに。」と、心の中に泣いたり笑つたりして、瀬田の長橋{*16}を渡つては行く末に頼みを掛け、草津の宿屋で新年を迎へ、姥が餅を食べながら鏡山を眺めては、家に居た時の鏡餅に思ひ比べ、やがて咲き出る桜山を見れば、やがて気も勇み立ち、「わしもまだ色も香も有る若盛りだ。稼ぐに追ひつく貧乏神はないはず{*17}。それは足が弱くて老人みたいなもの。」かく思へば、老曽の森の注連飾りもおのづから春めいて見え、「秋に眺めたら、さぞ月も面白からう。」と思ひながら不破の関を通り、明け暮れ美濃路、尾張を過ぎて{*18}、東海道の在々所々を廻り、都を出て六十二日目に品川に着いた。
ここまでの暮らしを立て、銭二貫三百文蓄へ、売り残した黒焼きは磯の浪に捨て、それから江戸入りを急いだが、日が暮れかかつて行くべき予定の所もないので、東海寺の門前に一夜を明かした。しかるに、門の傍に薦をかぶつた非人があまた寝てゐたが、春でも浦風は荒く、枕元の浪が騒がしく、眠れずに夜中まで身の上の事ども話すのを聞いてゐると、皆零落してなつた乞食である{*19}。
一人は大和の龍田の村の者で、「少しの酒を造つて、六、七人の家族を楽々と養つて来たが、次第に溜まつた金銀を取り集めて百両になつた時、所の商ひは手ぬるいと思ひ、万事を見捨ててここに下るのを、一族は皆、親しい友人も色々言つて止めたが、無分別の盛んなままに、呉服町の肴店を借り、上上吉諸白の看板を掲げた店と並んで開店はしたものの、鴻の池、伊丹、池田、奈良などの老舗の香り良き酒にはとても及ばず{*20}、酒元手を皆なくし、四斗樽の薦を身にかぶる身となつたが、故郷の龍田へ錦は着なくとも、せめて新しい木綿の布子なりともあれば、帰るのに。」と男泣きして、「これにつけても、仕付けた商売はやめてはならぬものだ。」と言ふ事が、既に間に合はぬ。よい智恵の出る時、もはや遅い。
又、一人は泉州堺の者であつたが、万事に才があり、芸自慢してこの江戸に下つた。書は平野仲庵に伝授を受け、茶道は金森宗和の流れを習ひ、詩文は深草の元政に学び、連歌俳諧は西山宗因の門下となり、能は小畠の伝を受け、鼓は生田与右衛門の手筋を覚え、朝に伊藤源吉に道を聞き、夕に飛鳥井殿に御鞠を習ひ{*21}、昼は玄斎の碁会に交じはり、夜は八橋検校に弾き習ひ、一節切は宗三に入門して吹き習ひ{*22}、浄瑠璃は宇治嘉太夫節、踊りは大和屋甚兵衛に習ひ、傾城狂ひは嶋原の太夫高橋に教へ込まれ、野郎遊びは鈴木平八を自由にし、遊興は両色里の太鼓持ちに本当の粋人になされ{*23}、人間のする程の事はその道の名人に尋ね覚え、「何をしたからとて、人交じはりはできるものを。」と腕頼みしてゐたが、かかる芸三昧は、さしあたり生活の役には立ち難く、算盤を置かず秤目知らぬ事を後悔した。武士勤めは勝手を知らず、町人奉公も「駄目だ。」と言つて追ひ出され、今この身になつて思ひ当たり、諸芸の代はりに生業を教へておかれなかつた親達を恨むのであつた。
いま一人は、親の代から江戸の生えぬきで、通り町に大屋敷を持つてゐて、一年に六百両づつ定まつた家賃を取りながら、倹約する事を知らないためにその家まで売つてしまひ、身の処置に困り、苦しい世間から逃れて、車善七の手下に投じ、仲間外れの乞食となつた{*24}。
思ひ思ひの身の上話を聞いて、「それでは自分と同じ身の上。」と思ひ、深く同情しながら、新六は非人の枕元に立ち寄り、「わしも京の者ぢやが、勘当受けて御江戸を頼みにして下つたが、お前さん達の話を聞いて心細くなつた。」と恥を包まず事情を申せば、三人共に口を揃へて、「謝る方法はないものか。」「伯母様もないのか。」「何とぞここには下りなさらぬがよいものを。」と言ふ。新六、「はや、後へ帰らぬ昔の事。これから先の思案ぢや。さて、お前さん方は利発でありながら、かう浅ましう成られたのは不思議ぢや。ここではどんな商ひでも、見立てたら有る筈ぢやに。」と言へば、「どうしてどうして。この広い御城下だけれど、皆日本の偉い人たちの集まりだ。銭三文だつてたやすくは儲けさせない。どうせお金のある者が金を溜める世の中だもの。」と言ふ。
新六、「お前さん方は、久しく世間を見てゐる内には、商ひの新工夫は何か見つからぬものかな。」と尋ねたところ、非人、「さうだな。大分にすたつて行く貝殻を拾ひ集めて、霊岩島で焼いて石灰にするか。」「又、ここは万事忙しいから、刻み昆布か花鰹を削つて量り売りをするか。」「木綿の匹を買つて手拭ひの切り売りをするか。」「こんな事でもしないでは、手軽い商売はあるまい。」と言ふ。これに思案が浮かんで、夜の明け方に立ち別れたが、三人に三百文の置き銭をしたところ、悦ぶ事限りなく、「御運が開けて、富士山程の金持ちにならるるは間もない事よ。」と申した。
それから伝馬町の太物店{*25}に知人が有るので尋ねて行き、この度の事情を話したら、同情して、「男の働くべき所はここだ。一稼ぎしてみよ。」と主人が言ふので元気づき、かねて考へておいた木綿を買ひ調へ、手拭ひの切り売りをする事にし、しかも三月二十五日、初めて下谷の天神に行つて{*26}、手水鉢の傍で売り出したところが、参詣の人、「買うての仕合せ。」と言つて求めるので、一日に利を得、毎日これから商売に新工夫をして、十年たたぬ内に五千両の分限と見込まれ、「第一の才覚者。」と言はれ、町中の人は、万事新六が指図を受ける事となり、所の人の宝と成つた。暖簾に{*27}菅笠を着た大黒天を染め抜いてあるので、「笠大黒屋。」と人は言つた。八つ、屋敷方に出入りする事になり、九つ、小判の買ひ置きをして、十で丁度治まつてゐる御代に、住んでゐる事のめでたさよ{*28}。
【批評】
本篇は、その構想を見るに、作者の狙ひ所は、第一が三人の非人の身の上話であり、第二が新六の道行である。永代蔵が、単に金儲けの手段、致富の道を教へるところの書でなく、それはむしろ一部分に過ぎないといふ適例の一つでもある。
非人の身の上話は、当時の世相を語るものに他ならない。又、道行文の面白さ。近古の戦記物語などの道行文に比較すれば、又おのづから別種の妙趣があつて、読者を曳き摺つて行く。彼は、公卿、武士の旅。これは、尻からげの町人の道中。彼はもつぱら歌語漢語を用ゐ、これは雅俗混淆、しかも時代の生きた言葉を駆使してゐる。それだけ実生活の描写に効果があるわけである。
西鶴の文に縁語の多い事は特色の一つであるが、自由に生きた言葉を駆使してゐるために、古風な文に堕せず、清新味が溢れてゐるのである。しかもそこには滑稽味が漂ひ、俳諧味が流れてゐるのであるが、また作者の態度を見るに、主観を示さず情熱を吐かず、冷やかに静かに自然の光景、人事の推移を描写してゐる。これがまた、作者の大きな特徴である。
校訂者注
1:底本語釈に、「〇才覚(さいかく)を笠(かさ)に着(き)る大黒(たいこく) 『笠に着る』は
恃み誇る意であるが、新六は才覚を誇つたわけではないが、江戸で才覚を現したので、言ひ掛けたのであらう。」とある。
2:底本は、「かなしきは」。底本語釈及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
3:底本語釈に、「〇一に俵(たはら)二階(かい)造(つく)り三階(かい)蔵(くら) 大黒屋の大黒の縁として、大黒舞の歌詞をふまへて書くと共に、大黒屋の大きい家造りを示した。古今夷曲集(寛文六年刊)序『大黒の能を聞くに、一に俵をふまへ、二ににつこと笑ひ、三に三界の福珠を袋いつはいに入れ。』」とある。
4:底本語釈に、「〇大黒(だいこく)に刻(きざ)ませ 橋板で大黒の像を刻めば福を得るといふ事は、今も言ふ事である。この事は町人嚢、商人生業鑑等に見える。」「〇信心(しん(二字以上の繰り返し記号))に徳(とく)あり 諺『信あれば徳あり。』」とある。
5:底本語釈に、「〇見へざりしに 現銀が見えない。諺『勘定合つて銭足らず。』の類。」とある。
6:底本語釈に、「〇七月前(まへ) 盆前。盆前の支払ひ日。」とある。
7:底本語釈に、「〇内証(しやう) ここは内情。」「〇尾(を)が見えて 化けの皮が現れて。稲荷の使である狐の縁。」とある。
8:底本語釈に、「〇町衆(しゆ) ちやうしゆ。まちしゆとも言ふ。ここは五人組の事。」「〇袴(はかま)きせて 礼装してもらつて。」「〇旧里(きうり)を切(きつ)て 勘当して。勘当された者は人別帳(宗門帳)から除籍され、町内から追放され、無宿者となる。」とある。
9:底本語釈に、「〇水風呂(すいふろ) すゐぶろ。据桶に水を入れて沸かす浴槽。据(すゑ)風呂の訛と思はれるが、湯風呂(蒸し風呂)に対して水風呂と書くのであらう。」とある。
10:底本は、「綺麗で」。
11:底本語釈に、「〇大津(をゝつ)伏見(ふしみ)駕籠(かご) 大津へ通ふ駕籠、伏見へ通ふ駕籠。」とある。
12:底本語釈に、「〇豊嶋莚(てしまむしろ) 狭くて短い。摂津豊嶋郡から産した。」「〇はづし 鉤などに懸けてあるのを外して盗んだのである。」とある。
13:底本語釈に、「〇弁慶(べんけい) 犬の名。」「〇特牛(こというし) ことひうし。強大な牡牛。」とある。
14:底本語釈に、「〇心の針(はり)屋 諺『心の針』を取る。心の針は、『心に針を持つ。』とも言ひ、心に悪意を持つ事。」とある。
15:底本語釈に、「〇代(しろ)なして 物を金に代へて。売つて。」とある。
16:底本語釈に、「〇勢田(せた)の長橋(ながはし) 瀬田川に架してある橋。河中に一小島があつて、橋は大小二つから成る。当時、大は九十六間、小は三十六間であつた。長橋の長から『すゑ』と言つた。」とある。
17:底本語釈に、「〇かせぐに追著(をひつく)貧乏神(びんぼうがみ) 諺『稼ぐに追ひつく貧乏なし。』又『老曽の森』の『老』の縁として『足よはき』と書き、貧乏神の追ひつき得ない意を含めた。」とある。
18:底本語釈に、「〇明暮(あけくれ) 関戸の戸の縁。毎日。『過ぎて』にかかる。」「〇美濃路(みのぢ) 美濃街道。草津から湖東を北して中山道を辿り、鳥居本(とりゐもと)(米原の南)から右折して美濃路に入る。美濃路を通つて尾張に入り、今の東海道に再び出る。」とある。
19:底本語釈に、「〇非人(ひにん) 賤民の一種として取り扱はれてゐた者。その貧しい者は乞食をした。京阪では乞食(こじき)と言ひ、江戸では宿無(やどなし)と言つた。非人は戸籍即ち人別帳があり、小屋を有した。宿無は人別帳外の者で、即ち無頼無宿の徒である。宿無に対して人別帳中の者を宿有(やどあり)と言つた。」「〇筋(すぢ)なき乞食(こつしき) 諺『乞食に筋なし。』これをふまへた。諺の意は、いつたん乞食となれば、家柄など誇つてもだめで、家筋の無いと同然。」とある。
20:底本語釈に、「〇上上吉 じやうじやうきち。最上等。」「〇諸白(もろはく) 麹も米も諸共によく白げたのを用ゐて醸造した上等の酒。片白(かたはく)の対。」「〇鴻(かう)の池(いけ) 今の摂津川辺郡鴻池村。富豪鴻池氏はこの地の出身。」「〇南都(なんと) 奈良。古来良酒を産する。」「〇根(ね)づよき大木(ぼく)の杉(すぎ)のかほり 『根づよき大木』は強い基礎を有する老舗。『杉のかほり』は酒。樽は杉材で作る。酒にしみた杉の香を木香(きが)と言ふ。」とある。
21:底本語釈に、「〇朝(あした)に 論語里仁篇『子曰、朝聞道夕死可矣。』に拠る。又、『ゆふべ』と対照させた。」「〇伊藤源吉(いとうげんきち) 伊藤仁斎。」「〇飛鳥井殿(あすかゐどの) 鞠の師範家。」「〇鞠(まり)の色(いろ) 鞠のいきほひ。色は旗色などの色で、勢ひ、ぐあひなどの意。」とある。
22:底本語釈に、「〇一節切(よきり) 笛の一種。ひとよぎりの尺八とも称した。」「〇宗三(そうさん) 中村宗三。一節切の名手。盲目であつた。」とある。
23:底本語釈に、「〇大和(やまと)屋の甚(ぢん)兵衛 初代大和屋甚兵衛。京都の歌舞伎俳優。踊りに巧みであつた。」「〇立ならび 習ふ事。踊りを習ふ時は師匠と同じ側に並ぶ。」「〇鈴木(すゞき)平八 京の有名な歌舞伎若衆。」「〇両(りやう)色里(いろさと) 島原と、川東の石塩町、祇園町辺とを指す。」「〇本透(ほんすい) 本粋(ほんすゐ) 本当の粋人。」とある。
24:底本語釈に、「〇火宅(くはたく) 世間。苦悩の現世。『火宅を出て』は、普通ならば出家する意であるが、ここは世間を捨てて非人の群に投じたのである。」「〇車(くるま)善(ぜん)七 江戸の非人頭(かしら)の名。代々、車善七を名乗る。彼は配下の非人を統率し、囚人の警衛その他の雑役を命ぜられた。」「〇仲間はづれ 善七配下の非人は有籍者で、人別帳に載せられてゐるので、これは人別帳以外の宿無である。」とある。
25:底本語釈に、「〇太物棚(ふとものたな) 太物は木綿の太糸で織つた反物。」とある。
26:底本語釈に、「〇三月廿五日 月次の天神祭の日。」「〇下谷(したや)の天神(てんじん) 西鶴の頃は上野にあつた。上野を下谷の岡とも称した。」とある。
27:底本は、「暖簾の」。
28:底本語釈に、「〇八つ屋敷(やしき)かたに 以下、八つ九つ十と連ねたのは、冒頭の『一に俵二階造り三階蔵』の語句と照応首尾させたもので、大黒舞の歌詞に拠つた。」「〇小判(ばん)の買置(かいをき) 当時は小判や銭に相場があつて売買された。」「〇丁(てう)ど治(をさま)まりたる 初めに挙げた大黒舞の歌詞『八つ屋敷を広めて、九つ小蔵をぶつ立て、十でとうどおさまつた。』をふまへた。」とある。
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