仕合せの種を蒔き銭{*1}

 人は正直を本とする事、これ神国の習はせなり。伊勢の社の軽々しく百二十末社、紙表具の神体、思へば浅まなる事なれども、何の偽りなき心を鏡に懸けて、人も曇らず、殊勝に有り難く、この秋津洲に住む者、歩みを運びぬ。されば、いづれの世より小才覚らしく、宮巡りの蒔き銭に鳩の目といふ可笑しげなる鉛銭、百と言うて六十繋ぎにして、さても世智賢き人心。豊かなる福の神、これを笑ひ給ふベし。
 ここの繁昌、申すもおろかなり。大々神楽の宝の山、諸願成就十二貫目、この御初穂の絶ゆる間もなく、笙の笛、貝杓子して世渡る、海の若和布に真砂の数を知らず。その外、末々御師、手前右筆のなき人は、諸国檀那廻りのお定まりの状、一つ銭一文づつにしてこれを書いて、年中妻子育む人、何百人かその限り知られず。口過ぎさまざまにある所ぞかし。
 人の気を汲みて商ひの上手は、この国なり{*2}。間の山の袖乞ひまでも、心長く道者の機嫌を取りて、飢ゑず寒からず、身に絹布を飾り、連れ弾きの三味線に乗せて、「浅ましや、心一つ。」といふ一節、いつ聞きても変はらず。この一里の内、殊更に慰みにもなれり。
 世に銭ほど面白き物はなし。あまたの講参りはあれども、終にこの乞食の堪能する程、銭取らせし人なかりき。思へば僅かの事なるに、喜ばせたきものなり。「嶋原正月買ひの庭銭はすれど、京の人、すぐれてしはし。」と、御白石蒔く親仁も言へり。
 或る時、江戸の町人参宮せしに、乗り掛けさのみ飾らず、駕籠蒲団も紫の目に立たずして、供二、三人召し連れ、太夫殿の案内者に任せ、山田を出し時、新銭二百貫調へ、から尻馬に付けて、間の山五十町の内、蒔き散らしければ、大道は土も見えず、野も山も皆、銭掛松かと思はれ、立ちかかりて拾ヘば、松原踊りの袖に余り、味噌漉よりこぼれて、暫しは小歌、撥音の鳴りをやめて、「いかなる長者にあるやらん{*3}。」とその名を尋ねしに、武州堺町のほとりに分銅屋の何がしとて、人の知らぬ銀持なり。世間には、から大名の見せかけ商売多し。この人は、表向き軽うして内証の強き事、暗がりに鬼を繋ぐが如く、年越し毎に仕合せ重なり、二十一より五十五歳まで三十四年に我と稼ぎ出し、金七千両を一子に譲りぬ。
 そもそも商ひの始めは、都伝内といふ芝居の近所に九尺間の棚借りて、銭店を出し、諸見物の札銭を売りけるに、銀二匁、三匁の内にて五厘、一分の掛け込みを見て、少しの事ながら、積もれば大分の利を取り、次第に両替屋となりて、これ楠分限、根のゆるぐ事なし。
 その隣にすぐれて利発なる男ありて、烏を鷺の見せ物を拵へ、一年は閻魔鳥とて作り物珍しく、一日に五十貫づつも取り込み、又或る年は、形の可笑しげなるを便乱坊と名付け、毎日銭の山をなして、俄に家蔵求むべき人は、さもなく、今に奥山入り海に心をなし、「自然、浅葱色なる猿もがな。もしも、手足の付きたる鯛のある事も。」と水の泡の世渡り。消ゆる事、易し。
 惣じて役者子供の取り銀は、当座のあだ花ぞかし。玉川千之丞、女形して、河内通ひの狂言一番を一日小判一両に定め、一年三百六十両づつ取りぬるも、伊勢へ引き込み死ぬる時は、昔の舞台衣装も残らず、その時の栄花を楽しめる外なし。金銀溜めて商人になるべき心掛け、知るにもあらず。その道々を知る事、人の肝心なり。
 「過ぎにし酉の年、諸道具までも煙となし、皆々丸裸になりしが、程なく以前の如く、酒屋は杉を印の門は変はらず、本町の呉服棚、それぞれの錦を飾り、伝馬町の絹屋、綿屋も同じ棚つき。佐久間の表はよろづの紙売り、舟町の魚市、米河岸の売り買ひ、尼棚の塗り物問屋、通り町の繁昌、この御時なるべし。風絶えて雲静かに、降照町は下駄、雪踏の細工人、白銀町の槌の音。昔見し人、この家職変はらず。この前、日用取りはその姿、山伏はその顔、腫物、切り疵の膏薬売りは今も同じ声。一人も身過ぎを変へたるは見えず。貧者貧にて、分限は分限に成りける。これ程不思議なる事なし。」と、かの分銅屋、見巡り置きて語りぬ。
 「広き町筋に只一人、その時分、銀拾ひてや、手馴れし珠数屋をやめて、中橋に刀、脇差の棚出して、一度は栄えて見えしが、程なく今の剣、昔の菜刀と錆びて、また元の珠数屋を後生大事として、命の珠を繋がれ、人は仕付けたる道を一筋に覚えて良し。」とぞ。

【口訳】
 人は正直を根本とする事、これ、神の鎮座まします国の習はしである。その伊勢の社に於いて、軽々しくも百二十末社が紙表具の御神体である事は{*4}、思へば浅はかな事であるけれども、これは、偽りの心でした事でない事は、鏡に懸けて見る如く人の心も正直で{*5}、殊勝で有り難いので、この日本に住む者は、参宮する事である。然るに、いつの頃からか小才を利かして、宮巡りの蒔き銭に鳩の目と称する怪しげな鉛銭を売り始めたが{*6}、百と言つても実は六十繋ぎにしたものであるが、さてもけちくさい人の心で、豊かな福の神も、これを笑ひなさる事であらう。
 ここの繁昌は、申すまでもない事だ。大々神楽の礼金は宝の山の如く積もり、諸願成就を祈る賽銭は十二貫目にも達し{*7}、かやうな御初穂が絶える間もない。笙の笛や貝杓子を商つて世を渡る人もあれば{*8}、海の若和布を売る者もあつて、浜の真砂の如く無数である。その外、末々の御師も{*9}、自宅で書き手のない人は、諸国の檀那廻りのお定まりの祝儀状を{*10}、一つにつき銭一文づつの賃銭にして書かせるのだが、これを書いて一年中妻子を養ふ人は、何百人あるかわからぬ程だ。渡世の業のさまざまあるところだ。
 人の気風を察して商ひの上手な事は、この国の人だ。間の山の乞食までも、気長く道者の機嫌を取つて{*11}、飢ゑず寒からず暮らし、身には絹布を着飾り、連れ弾きの三味線に合はせて、「浅ましや、心一つ。」といふ一節を歌ふが、いつ聞いても変はらない。この一里の間{*12}、殊更に慰みにもなるのである。
 世に銭ほど面白いものはない。あまたの講参りはあるけれども{*13}、ついぞこの乞食の満足する程に、銭を与へた人は無かつた。思へば僅かの銭の事だのに、喜ばせてやりたいものだ。「島原の正月買ひの庭銭は蒔くけれども、京の人は、ことさら吝い。」と、御白石蒔く親爺も言つてゐる{*14}。
 或る時、江戸の町人が参宮したが、乗り掛け馬もそれほど飾らず、駕籠蒲団も紫色の目立たないもので、供を二、三人召し連れ、太夫殿の案内者に任せて山田を出たが、その時、新銭二百貫文を用意して、から尻馬に付け{*15}、間の山五十町の間を蒔き散らしたので、大道は土も見えず、野も山も皆、銭掛松かと思はれる程で、左右の乞食どもも立ち上がつて拾ふので、松原踊りをやる少女の袖にあふれ、或いは味噌漉からこぼれる程で{*16}、暫しの間は小歌、撥音の鳴りをやめた。「どういふ長者であらうか。」と、或る者がその名を尋ねたところ、江戸堺町の辺に住む分銅屋の何がしといつて、人の知らぬ金持ちであつた。世間には、から大名の見せかけ商売をする者が多いが{*17}、この人は、表面は僅かな身代に見せて、実際の資産の強固な事は、暗がりに鬼を繋ぐやうであつた{*18}。年越し毎に仕合せが重なり、二十一から五十五歳まで三十四年間に、自分の手で儲け出し、金七千両を一子に譲つた。
 そもそもこの男の商ひの初めは、都伝内といふ芝居の近所に九尺間口の店を借りて、銭店を出し、諸見物の札銭を売つたのであつたが{*19}、銀二匁、三匁以内の商ひで、五厘、一分の掛け込みを見て{*20}、僅かの儲けであるが、積もれば大分の利を取るわけで、次第に繁昌して、終に両替屋となつたのだが、これこそ楠分限で、身代の根がゆるぐやうな事はない。
 その隣に非常に利発な男が住んでゐて、烏を鷺の諺の如く、ごまかしの見世物を拵へて見せてゐたが、或る年は、「閻魔鳥」と称して作り物を仕出したが{*21}、これが珍しくて、一日に銭五十貫文づつも取り込み、又或る年は、形の可笑しげな者を、「べら坊」と名付けて見せたが、毎日、銭が山の如く溜まつた。そこで、俄に家蔵を買ひ求めるだらうと思はれたが、この人はさうでもなくて、今に至るまで奥山や入り海に気を配つて、「万一、浅葱色な猿でもあればいい。もしも、手足の付いた鯛がありはしないか。」と探してゐる。元来、水の泡のやうな商売だから、つぶれる事も易い。
 一体、少年俳優の収入は、その時だけのもので、あだ花の如く身につかないものだ。玉川千之丞が女形をして、河内通ひの狂言一番を一日小判一両の給料に定め{*22}、一箇年に三百六十両づつも取つたけれども、伊勢へ引つ込んでから死ぬる時は、以前の舞台衣装も残らぬ程であつた。その時の栄耀を楽しんだ外には、何もしなかつたのだ。金銀を溜めて商人にならうといふ心掛けを知つてゐるのでもなかつたのだ。人は、それぞれの本職を知つてゐる事が肝要だ。
 「過ぎし酉の年の大火で諸道具までも煙となして{*23}、皆々丸裸になつたが、程なく以前の如く復興して、酒屋は杉を印にした門口も昔と変はらず、本町の呉服店は、各々の綺麗な呉服物を飾り、伝馬町の絹屋、綿屋も同じ店つき。佐久間の表通りはよろづの紙売り、舟町の魚市、米河岸の米の売買、尼店の塗り物問屋、通り町の繁昌など、今が一番盛んな御時世であらう。今や、風が絶えて雲も静かで、降照町は下駄、雪踏の細工人が相変はらず住み、白銀町の槌の音も元のままで、以前に見た人も、その家業は変はらず、以前日傭取りであつた者は、元のままの姿{*24}、山伏は元の顔{*25}、腫物、切り疵の膏薬売りは、今も同じ声。一人も渡世の業を変へた者は見えない。貧者は元の如く貧者で、分限は元の如く分限に成つてゐる。これ程不思議な事はない。」と、かの分銅屋が見巡つておいて語つた。
 「広い町筋に只一人、以前と違つたのがゐる。その人はその時分、銀を拾つたのか、今まで手慣れてゐた数珠屋をやめて、中橋に刀、脇差の店を出して、一度は繁昌して見えたが、今の刀剣も買ひ手が無くて、菜刀と錆びて衰へ{*26}、また以前の数珠商売を後生大事にして、露命を繋いで居られるが、やはり人間は、しつけた商売を専一に覚えたがよい。」と語られた。

【批評】
 分銅屋の出世談を観るに、そこには特に致富の秘訣や機智が述べてあるわけではなく、ただ実直に小刻みに儲けたといふに過ぎない。すこぶる平凡な話である。そして、それは描写でなくて、叙述の法をとつてゐるので、吾人は一層、興味を起こさない。むしろ、神都の人々が、道者などを相手に生計を営む唯物的な生活や、大神宮をも売り物にする程の銭儲けの世相の描写に、微笑を禁じ得ないのである。
 又、堺町辺の閻魔鳥、便乱坊の見世物や、玉川千之丞といふ美しい歌舞伎若衆や、今の日本橋、京橋辺の店つきに興味をそそられる。殊に大火の後、本町辺の町家が元の如く再興されて、紙屋は紙屋、下駄屋は下駄屋として、父祖以来の伝統的家職を、定められた運命の如く継いで行く町人の姿が、昨日も今日も紅葉山の彼方に落ちる、鈍い夕陽に翻る暖簾の蔭に閃くのをおぼえるのである。

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校訂者注
 1:底本語釈に、「〇仕合(しあはせ)の種(たね)を蒔銭(まきせん) 伊勢参宮の時、散米の代はりに蒔く銭を蒔き銭(ぜに)と言ふ。」とある。
 2:底本は、「上手(じやうず)は北国なり」。底本口訳及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 3:底本は、「あらん」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 4:底本語釈に、「〇百二十末社(まつしや) 元来、伊勢神宮の末社は他国に散在してゐるけれども、参詣者の便を計つて、外宮内宮の附近に遥拝所を設けたのである。末社を多く設ける程、御賽銭も多いわけである。これらの末社を拝み巡るのを、宮巡りと言ふ。」とある。
 5:底本語釈に、「〇人も曇(くも)らず 宮の人々の心も不正直ではない。『曇らず』は鏡の縁。」とある。
 6:底本語釈に、「〇鳩(はと)の目(め) 銭に似せた鉛の小銭。鳩の目と言ふのは、銭と同じく穴があつて、鳩の目に似てゐるから。」とある。
 7:底本語釈に、「〇大々神楽(かぐら) 語義については、皇都午睡巻三『太太神楽といふ事は代神楽にて、講中の人に代はりて神楽を奏するが故、代神楽にて、代太神楽と書くべきなり。』」「〇十二貫(くはん)目 銀十二貫目。銭ならば貫目とは言はないで、貫文と言ふ。一回の祈祷料が十二文で、一切成就の祓といふ事を行ひ、これを千度修するのを千度の祓と称した。これを銀十二匁にしてその千倍、十二貫目と書いた。十二文は十二灯(銅)とも称し、賽銭十二文を白紙に包んで神仏に奉る風俗があつた。一年即ち十二箇月分の灯明料といふ意で、閏月のある年は十三文包む事もあつた。」とある。
 8:底本語釈に、「〇笙の笛 玩具の小さい笙。次の貝杓子、若和布などと共に、参宮者は買つて持ち帰り、親戚友人などに贈る風俗があつた。」「〇貝杓子(かいしやくし) かひじやくし。帆立貝の殻に竹の柄を付けた物。」とある。
 9:底本は、「御師もなく、自宅で」。底本語釈に、「〇御師(をし) 御師は諸国に檀家(檀那)を有し、檀家の初穂を収受し、檀家参宮の時は世話し、或いは宿泊させ、これらの収入に依つて生活した。御師は全て何々大夫と名乗るので、御師の事を単に大夫とも言つた。」とある。
 10:底本語釈に、「〇状(じやう) 御祓(はらひ)に添へる祝儀状。御祓は両大神宮の御祓の大麻で、即ち御札である。これを入れた箱を御祓箱と言ふ。この御祓箱に、伊勢暦、扇子、はらや(伊勢おしろい)、青海苔などを添へ、何々大夫と署名し、これを御師達が諸方に出張して、各檀那の家を廻つて配つた。檀那はこれに対して御初穂を差し上げる。それ故、この署名した添へ物を御初穂配り状とも称した。」とある。
 11:底本語釈に、「〇相(あひ)の山 内宮と外宮との間にある坂の名。」「〇道者(だうしや) だうじや。団体を組んで神仏に参詣する者。」とある。
 12:底本語釈に、「〇此一里(り)の間(うち) 内宮と外宮との間。」とある。
 13:底本語釈に、「〇講(かう)参(まい)り 神仏参詣の目的を以て組織してゐる組合を何々講と称し、この組合員の参詣する事を講参りと言ふ。」とある。
 14:底本語釈に、「〇庭銭(にはせん) 島原などにて物日に遊ぶ客から祝儀として遊女その他へ与へる銭。」「〇お白石(しろいし) 御遷宮の時、瑞垣御門内、正殿の軒下、床下等に敷き詰める白い石。」とある。
 15:底本語釈に、「〇新銭(しんせん) 寛永通宝の事。従来通用の永楽銭に対して、新銭と民間で称した。」「〇から尻馬(しりうま) からじり馬。軽(かる)尻とも書く。軽尻は、荷物を載せた外に客の乗る事を得るもので、客一人乗る場合は、荷は五貫目まで、客が乗らない場合は、荷は二十貫目までとし、それ以上は禁ぜられた。」「〇付て つけて。新銭二百貫は約百八十貫目あり、から尻馬に銭のみを載せたとすれば、駄馬九匹を要したわけである。」とある。
 16:底本語釈に、「〇味噌漉(みそこし) 味噌漉しの笊。乞食が銭を受け入れる為に使ふ。」とある。
 17:底本語釈に、「〇分銅屋(ふんとうや) ふんどうや。屋号。目録の小書に『江戸に隠れなき千枚分銅備はりし人の身の程』とある。千枚分銅は、大判金千枚に相当する分銅の事。小書の文意は、江戸に有名な大資産家といふ事。」「〇唐大名(からたいめう) からだいみやう。空大名で、外観のみよくて実力のない大名。転じて、大商人の如く見せかけて、実は金銀のない者を言ふ。」とある。
 18:底本語釈に、「〇闇(くらがり)に鬼(をに)をつなぐ 諺。気味悪く恐ろしい事。」とある。
 19:底本語釈に、「〇銭(ぜに)見せ 銭店。芝居小屋の附近には必ず銭店があつた。芝居見物の人が入場料を支払ふのに銭がいるので、銭店に来て、銀貨などを銭に切り替へるからである。銭店では切り賃、即ち替へ賃を取る。」「〇札銭(ふだせん) 入場券を買ふ銭。入場券は木の札であつた。」とある。
 20:底本語釈に、「〇掛込(かけこみ) 銀貨を天秤にかけて秤る時、余分に取り込む事。たとへば銀二匁五分の目方があつても二匁と見て、五分だけ儲けるのである。切り賃を取る上に掛け込みまでもするから、普通以上に儲けるわけ。」とある。
 21:底本語釈に、「〇閻魔鳥(えんまてう) 堺町の見世物小屋で見せてゐた鳥の名。」とある。
 22:底本語釈に、「〇玉川千之丞 もと京の村山座の女形歌舞伎若衆。承応の頃、江戸に下り、堺町勘三郎座で河内通ひの狂言を三年間演じて名声を博した。」「〇河内(かはち)通 業平河内通(かよひ)という歌舞伎狂言。」とある。
 23:底本語釈に、「〇酉の年 明暦三年丁酉正月の江戸大火を指す。」とある。
 24:底本語釈に、「〇降照町(ふれてれてう) 今の日本橋区照降町(てりふりちやう)。照降町といふ名は本文にある如く、下駄、雪踏の細工人が住んでゐた町であるから、誰かが言ひ始めた名と思はれる。言ふまでもなく、下駄は雨天に、雪踏は天気に履いた。本文に『降照町』とあるのは、作者の覚え違ひである。」「〇白銀町(しろかねてう) 今の日本橋区本銀町(ほんしろがねちやう)。」「〇槌(つち)の音(をと) 白銀町には銀細工の職人が住んでゐたので、町名もこれから起こつてゐる。」「〇日用取(ひようとり) 日雇ひの人足。」とある。
 25:底本は、「元の類、」。
 26:底本語釈に、「〇今の剣(つるき)昔(むかし)の菜刀(なかたな) 諺『昔の剣、今の菜刀』を逆に用ゐた。諺の意は、剣も古く錆びては菜刀同様。」とある。