第三 大豆一粒の光り堂
あらがねの土割り、手づからに畑打ち、女は麻布を織り延べ足引の大和機を立て、東明かりの朝日の里に川端の九助{*1}とて小百姓ありしが、牛さへ持たずして角屋作りの浅ましく住みなし、幾秋か一石二斗の御年貢を量り、五十余まで同じ顔にて、年越しの夜に入りて小さき窓も世間並みに鰯の頭、柊を挿して、目に見えぬ鬼に恐れて心祝ひの豆打ち囃しける。夜明けてこれを拾ひ集め、その中の一粒を野に埋づみて、「もし煎り豆に花の咲く事もや。」と待ちしに、ものは争ふまじき事ぞかし、その夏青々と枝茂りて、秋はおのづから実入りて手一合に余るを、溝川に蒔き捨て、毎年刈り時を忘れず次第に嵩みて、十年も過ぎて八十八石になりぬ。これにて大きなる灯籠を作らせ、初瀬街道の闇を照らし、今に豆灯籠とて光を残せり。
諸事の物、積もれば大願も成就するなり。この九助、この心から次第に家栄え、田畠を買ひ求め、程なく大百姓となれり。折節の作り物に肥やしを仕掛け、間の草取り、水を掻きければ、おのづから稲に実りの房ぶりよく、木綿に蝶の数見えて、人より徳を取る事、これ天性にはあらず。朝暮油断なく、鋤鍬のちびる程働くが故ぞかし。よろづに工夫の深き男にて、世の重宝を仕出しける。
鉄の爪を並べ、こまざらへといふ物を拵へ、土を砕くにこれほど人の助けになる物はなし。この外、唐箕、千石通し。麦こく手業もとけしなかりしに、尖り竹を並べ、これを後家倒しと名付く。古代は二人して穂先をこきけるに、力も入れずして、しかも一人して手廻りよくこれを始めける。
その後、女の綿仕事まだるく、ことさら打ち綿の弓、やうやう一日に五斤ならではこなれぬ事を思ひ巡らし、唐土人の仕業を尋ね、唐弓といふ物、初めて作り出し、世の人に隠して横槌にして打ちける程に、一日に三貫目づつ。雪山の如く繰り綿を買ひ込み、あまたの人を抱へ、打ち綿幾丸か江戸に廻し、四、五年の内に大分限になりて、大和に隠れなき綿商人となり、平野村、大坂の京橋、富田屋、銭屋、天王寺屋、いづれも綿問屋に、毎日何百貫目といふ限りもなく、摂河両国の木綿買ひ取り、秋冬少しの間に毎年利を得て、三十年余りに千貫目の書き置きして、その身一代は楽といふ事もなく、子孫の為によき事をして、八十八にて空しくなりぬ。
死光りのして折しも十月十五日、浄土は願ひのままに野辺の煙になして、それ百ケ日も過ぎ行けば、遺言の通りに有原寺の法師を証拠に、御非時の上にて譲り状の箱を開きて見しに、「有り銀一千七百貫目、一子九之助に相渡し、なほ家屋敷諸道具の義は、書き載するに及ばず。」さて、親類の方へそれぞれの所務分けの書き付け読みしに、「三輪の里のをばの方へ手織の算崩しの木綿袷一つ、紬地の首巻、桑の木の撞木杖一本。吉野の下市に住みし弟の方へ、三つ星小紋の布子に綟の肩衣、これを送るべし。岡寺の妹に、花色の布子に黒き半襟の掛かりしを一つ、生平の帷子添へて取らすべし。同じく甥に、病中、下に敷きたる縦縞の蒲団、中柑子の革足袋一足、これは縫ひ縮めて履くベし。唐竹の煙管筒、日野絹の頭巾、この二色は、医師の中林道伯老へ形見なり。柿染の夏羽織、袖の鼠喰ひを見えぬやうに継ぎを当て、寺同行の仁左衛門殿へ進ずべし。」家久しき手代二人ありけるに、一人には置き古びし十露盤一丁取らせける。又一人には、使ひ馴れし秤一丁譲りける。
書き置き見ぬ内は頼もしく、いづれも開くを待ちかねしに、いかないかな、金銀の事は一匁も{*2}書き付けなくて、各々呆れ果て、「手前のよき親類も、銭銀の頼りにはならぬもの。」と、今までこぼせし涙をやめて、この家を見限り、我が里々に帰りぬ。千七百貫目の銀は一代の始末にて延ばしければ、一門欲しがればとて、沢山に遣る筈もなし。
この九助、一生絹物、肌に着ざる印は、この度の改めにて知れぬ。四十二の厄年に絹の下帯一筋、初めて買はれしが、少しも汚れめつかず、そのままにありける。親仁の身の廻りとては右の通りの外なく、藤巻柄に胡桃の目貫の匕首一腰、なめし革横襞の巾着に鹿の角の根付、長門練の無地の印籠、これならでは世間道具一つもなかりし。
九之助、これを浅ましく思ひ、はや遺言状を背き、親類手代までもそれぞれに銀子を分け取らせけるを、「親とは格別の心ざし。」と人皆悦び、出入り申し、昔に変はらず商売する内に、或る時、多武峯の麓里二王堂といふ所に、京、大坂の飛子の隠れ家を、知るべの人にそそのかされ、ここに通ふ事募りて、恋の二道を掛け、奈良木辻狂ひも程なく嫌になりて、今の都の和国、唐土までも引舟任せに買ひ詰め、やむ事なきを母親の歎きて、十市の里より色よき娘呼び迎へしに、分け里の美形を見馴れたる目なれば、中々これにてとまらぬ事を、思ひと成り、母人も終に果てられし後、異見言ふ人もなくて、万事を捨てて年久しく騒ぎぬ。その後は下々までも見限りて、奉公、外になしける。されども夫婦の中にいつともなう男子三人ありて、家継ぎは気遣ひなかりしに、いよいよ九之助、酒淫の二つに身を責め、八、九年の内に頼み少なき身となつて、三十四の年に頓死。驚くに甲斐なく、無常野{*3}に送りける。
九之助も身の程は覚悟して、かねて書き置き認め置きしを、手代ども集まり、「若年の人々なれば、後の事ども心もとなし。金銀はいづれもの中へ預かり、方々御成長の時分、相渡し申すべし。」と、心底残らぬ内談。「さすが昔のよしみ。」と、所の人々これを感じ、まづまづ書き置き開いて見しに、皆々横手を打ちけるこそ道理なれ。有銀千七百貫目は遣ひ崩し、これは借銀の書き置き。興をさましける。
「京井筒屋吉三郎殿小判二百五十両、借り有り。これは、悪所にて金子のいる事俄なれば、借用して恥をすすぎければ、義理の借り金なり。これは惣領九太郎成人の後、随分稼ぎ出し済ますべし。大坂の道頓堀にての遊興のわけの立たぬ事、一つ書きにしてあるなれば、これは九二郎、済ますべし。この外、所々{*4}買ひ掛かり、僅か三十貫目ばかりなれば、これは九三郎、寄り寄りに済ますべし。家屋敷諸道具は、所の差し引きに分散して相渡すべし。後の弔ひは後家にさすべし。書置仍而如件。」
【口訳】
土割りを手にして自分は畑を打ち、妻は麻布を織り延べ大和機を立てて暮らしてゐる、東明かりの朝日の里に川端の久助と言つて、小百姓があつたが、牛さへ持たないで角屋造りの家にみすぼらしく住まひ{*5}、幾秋かの間、一石二斗の御年貢を量つて納め、五十歳余りまで同じ顔つきで過ごし、年越しの夜に入つては、小さい窓も世間並に鰯の頭や柊の枝を挿して{*6}、目に見えない鬼に恐れて、心祝ひの豆を打ち囃した。夜が明けてこれを拾ひ集め、その中の一粒を野に埋づめて、「もし煎り豆に花の咲く事があるかも知れない{*7}。」と待つてゐたところ、ものは争はれないものだ、その夏、青々と枝が茂つて、秋には自然に稔り、手一合に余る程なのを、溝川に蒔き捨てて、毎年刈り時を忘れず、次第に収穫が嵩み、十年も過ぎて八十八石になつた。これを売つて大きな灯籠を造らせ、初瀬街道の路傍に建てて闇を照らした。今に至るまで、これを豆灯籠と言つて灯が灯され、寄進者の功を遺してゐる。
色々の物事が積もれば大願も成就するものだ。この九助は、この良い心掛けにより次第に繁昌して、田畠を買ひ求め、間もなく大百姓となつた。季節の農作物に肥料を施し、その暇には田の草を取り、水を掻いたので、自然に稲に実りがあつて、穂ぶりもよく、木綿も豊かに花が咲いて、多くの蝶の舞ふが如く、他人よりも多くの利益を得た。これは自然の力ではなく、やはり朝暮油断なく、鋤鍬の減るほど働くからだ。この人は万事に深く工夫する男で、世間の重宝な物を発明した。
鉄の爪を並べ付けて、こまざらへといふ物を拵へたが、土くれを砕くのに、これほど人の助けになる物はない。この外に、唐箕、千石通しも工夫した。今までは麦こく手わざも暇どつたのに、尖り竹を並べ付けて、これを後家倒しと名付けた{*8}。昔は二人で穂先をこいでゐたが、これは力を入れずに、しかも一人で便利にこけるやうに発明したのであつた。
その後、女の綿仕事がまだるくて、殊に打ち綿の弓がやつと一日に五斤でなくてはこなれないので、工夫を巡らし、支那人の仕業を尋ね、唐弓といふ物を初めて作り出し、世間の人に内緒にして横槌で打つてゐたところが、一日に三貫目づつもはかどり、雪の山の如く繰り綿を買ひ込み、多くの人を雇ひ、打ち綿も幾丸も江戸に廻送し、四、五年の内に大分限になつて、大和に有名な綿商人となり、平野村、大坂の京橋、富田屋、銭屋、天王寺屋など、いづれも綿問屋であるが、これらに毎日何百貫目といふ限りもなく、摂津河内両国の木綿を買ひ取つては、打つて送り出し、秋冬少しの間に毎年利を得て{*9}、三十年余りに千貫目の身代となつたが、これを書き置きにして、その身一代は楽といふ事もなく、子孫の為によい事をして、八十八で死んだ。
死に映えがして、丁度十月十五日{*10}、お十夜の満つる日の事であつたから、極楽浄土へは願ひのままになつたわけで、野辺の火葬を済ました。それから百ケ日もたつたので、遺言の通りに在原寺の法師を証人に来て貰つて、御非時を供した上で{*11}、遺言状の箱を開けて見たところが、「有り銀一千七百貫目、一子九之助に相渡し、なほ家屋敷諸道具の儀は、書き載するに及ばず。」とあつた。さて、親類の方へ贈るそれぞれの形見分けの書き付けを読んだところ、「三輪の里の伯母の方へ、手織の算崩しの木綿袷一つ、紬地の首巻、桑の木の撞木杖一本{*12}。吉野の下市に住みし弟の方へ、三つ星小紋の布子に綟の肩衣、これを送るべし。岡寺の妹に、花色の布子に黒き半襟の掛かりしを一つ、生平の帷子添へて取らすべし。同じく甥に、病中、下に敷きたる縦縞の蒲団、中柑子の革足袋一足、これは縫ひ縮めて履くベし。唐竹の煙管筒、日野絹の頭巾、この二色は、医師の中林道伯老へ形見なり。柿染の夏羽織、袖の鼠喰ひを見えぬやうに継ぎを当て、寺同行の仁左衛門殿へ進ずべし。」とある。又、家に久しく奉公してゐる手代、二人あつたが、一人には置き古した算盤一挺与へた。又一人には、使ひ馴れた秤一台を譲つた。
書き置きを見ない内は頼もしく思ひ、いづれも箱を開くのを待ちかねてゐたが、どうして、金銀の事については一匁さへも書き付けがないので、各々呆れてしまひ、「身代のよい親類も、金銭の頼みにはならぬものだ。」と、今までこぼした涙をやめて、この家を見限り、自分自分の里に帰つた。千七百貫目の銀は一代倹約して増やしたのだから、一族の人々が欲しがるからとて、沢山にくれる筈もないわけだ。
この九助が、一生の間、絹物を着なかつた証拠は、今度の遺言状調べでわかつた。四十二の厄年に、絹の褌一筋を初めて買はれたが、少しも汚れめがつかずにそのままにあつた。親爺の身の廻りと言つては、右の通りの外にはなく、藤巻柄に胡桃の目貫の合口一腰、横襞のあるなめし革の巾着に鹿の角の根付の付いたもの、長門練の無地の印籠。これらより外には、世間道具とては一つもなかつた{*13}。九之助は、この事を「呆れた事だ。」と思ひ、はや遺言状を背いて、親類手代までもめいめいに銀子を分け与へたが、「親とは格別に違ふ志ぢや。」と人々は皆悦んで、この家に出入りを致した。
さて、以前に変はらず商売してゐる内に、或る時、多武峯の麓の村、仁王堂といふ所に、京、大阪の飛子の隠れ家があるのを、知るべの人に勧められてここに通ふ事になつたが、これが募つて恋の二道を掛け、奈良の木辻狂ひもするやうになつたが、程なくここも嫌になつて、今の都の和国、唐土までも、引舟任せに買ひ続けて止まらないのを、母親が歎いて、十市の里から美しい娘を呼び迎へたが、色里の美人を見馴れた目であるから、中々これで遊びが止まらない。これを苦に病んで、母人も終に果てられたが、その後は異見を言ふ人もなくて、万事を捨てて年久しく遊蕩した{*14}。その後は、召し使ひまでも主人を見限つて、奉公をおろそかになすのであつた。けれども、夫婦の間にいつの間にか男子三人できたので、跡目は心配がなかつたが、いよいよ九之助は酒と女の二つに体を弱くして、八、九年の内に頼み少ない身となつて、三十四の年に頓死したが、今さら驚いても甲斐がなく、野辺送りをした。
九之助も、体の事は見込みのない事を覚悟して、かねて遺言状を書いて置いたが、手代どもが集まつて、「息子さん方は、まだ若年の人々であるから、今後の事どもが心配だ。金銀は吾々の間に預かつて、お子方が御成長の時に相渡し申さう。」と、真心を打ち明けて内々相談をしたので、「さすがに以前の恩義を忘れぬ人々だ。」と、所の人々もこれを感心して、まづまづ書き置きを開いて見たところが、皆々横手を打つたのは道理であつた。現銀千七百貫目は遣ひ崩して、これは借銀の書き置きだつたので、驚いたのであつた{*15}。
その書き置きには、「京井筒屋吉三郎殿に小判二百五十両借りがある。これは、悪所で金子のいる事が俄に起こつたので、借用して恥をすすいだから、義理のある借金である。これは惣領九太郎が成人した後、随分稼ぎ出して済ますべし。大阪の道頓堀での遊興の勘定が未払ひのままになつてゐるが、これは一つ書きにしてあるから、これは九二郎、済ますべし。この外に所々に掛け買ひがあるが、僅か三十貫目ばかりであるから、これは九三郎が追々済ますべし。家屋敷諸道具は、土地の人々への負債と差し引きして、身代限りにして相渡すべし。葬式の費用は、後家に支払はすべし。書き置き仍つて件の如し{*16}。」
【批評】
本篇の主人公は親子二代にわたつてをり、親子と全く関係のない余談漫談とも言ふべきものはない。それ故、他篇の多くとは違つて、小説としては統一の美がある。
作者は致富の筋道を説くけれども、一篇の狙ひは致富談にかかつてゐない事が多い。作者の持ち前である滑稽洒落な描写が一篇の重要性を帯び、読者の興味をこれに繋いでゐるのである。ここに談林の連句の香味が漂つてゐる。
親は始末屋の働き者、子は贅沢な遊蕩児。親は質素そのものとも言ふべき形見分けを遺し、子は放埓による借銀の返済を遺児に託してゐる。これらの対照の上にも、作者は相当の工夫を巡らしてゐるやうである。
校訂者注
1:底本は、「久介」。
2:底本は、「一匁(モ)」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
3:底本は、「無情野(むじやうの)」。底本語釈「〇無常野(むじやうの) 火葬場。又、墓場。」及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
4:底本は、「近々」。底本口訳及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
5:底本語釈に、「〇鉱(あらかね)の 土の枕詞。」「〇土割(つちわり) 土塊を打ち砕いて田畑をならす柄の長い木槌。」「〇東(ひかし)あかりの 朝日の序詞。」「〇角(つの)屋作(つく)り 角は牛の縁でもある。」とある。
6:底本語釈に、「〇鰯(いはし)の首(かしら)柊(ひらぎ)をさして 節分の夜、鰯の頭や柊を門戸、窓などに挿して邪気を払ふ。」とある。
7:底本語釈に、「〇煮(いり)豆に花の咲(さく) 諺『炒り豆に花。』奇蹟的な、或いは不可能に見える事。」とある。
8:底本語釈に、「〇細攫(こまざらへ) 農具の一種。土塊を細かく掻きさらへる物。」「〇唐箕(たうみの) 普通には『たうみ』と言ふ。穀物の実と籾殻、粃(しひな)とを吹き分ける農具。」「〇千石通(とをし) せんごくどほし。農具の一つ。箱の中に斜めに篩(ふるひ)を設けてゐる。米は一定の箱に溜まり、糠は下に落ちる。」「〇後家倒(ごけたをし) ごけだふし。稲扱(いなこき)といふ農具。この歯に一束の稲を引つ掛け、殻をこき取る。」とある。
9:底本語釈に、「〇打綿(うちわた)の弓 繰り綿を打つ弓。綿弓。」「〇五斤(きん) 綿は一斤二百二十匁で、これを平野目と称した。平野は綿の集散地。」「〇繰綿(くりわた) 綿繰りに掛けて実(み)綿の実を抜き去つたままで、まだ打たないもの。」「〇打綿(うちわた) 繰り綿を綿弓で打つたもの。即ち仕上げた普通の綿。」「〇丸(まる) 重量の単位の名。五十斤を一丸と言ふ。」「〇秋冬(あきふゆ) 綿は秋に刈り取る。秋から冬にかけて受け取つては打ち綿となす。」とある。
10:底本語釈に、「〇十月十五日 十夜念仏の終はる日。十夜念仏は、浄土宗で十月六日から十五日まで、特に念仏を勤修する事で、俗にお十夜と言ふ。」とある。
11:底本語釈に、「〇御非時(ひじ) おひじ。僧に供する食膳。午前のを斎(時の義)、午後のを非時と称した。」とある。
12:底本語釈に、「〇桑(くは)の木(き) 中風を治すると言ふので、桑の杖、桑の箸などを用ゐた。」とある。
13:底本語釈に、「〇胡桃(くるみ) 質素な事がわかる。」「〇目貫(めぬき) ここは飾り目貫。目貫の飾りに彫刻した胡桃を用ゐたのである。」「〇相(あひ)口 鍔の無い短刀(匕首)。」「〇根付(ねつけ) ねづけ。印籠、巾着などの緒に貫いてこれを締め、腰に挟むもの。」「〇長門練(ながとねり) 印籠中の薬が乾かず、長もちのするのを長所とする。長門印籠とも言ふ。」「〇無地(むぢ) 無地の黒漆。蒔絵のないもの。」「〇世(せ)間道具(だうぐ) 面(おもて)道具とも。男子が外出する時、装身具として帯用する道具。」とある。
14:底本語釈に、「〇飛子(とひこ) とびこ。旅稼ぎのかげま。かげまは、舞台にまだ立たない少年俳優。」「〇恋(こひ)の二道 野郎遊びと傾城遊びと。」「〇木辻(きつぢ) きつじ。奈良の遊里の名。」「〇今の 『都』にかからず『和国もろこし』にかかる語。都の島原の意。」「〇和国 わこく。島原の太夫の名。」「〇もろこし 島原太夫の名。」「〇引舟 ひきふね。太夫(遊女の首位)に付き添つて世話をもする囲ひ女郎。」「〇分里(わけさと) わけざと。遊里。」「〇さはぎぬ 騒(さわ)ぎぬ。遊里などで太鼓持ちなどをも呼んで遊ぶ事。」とある。
15:底本語釈に、「〇興を覚(さま)しける 西鶴は、呆れ驚く意に大抵使つてゐる。」とある。
16:底本語釈に、「〇悪所(あくしよ) 遊里。」「〇分(わけ)の立ぬ事 分の立たぬ事。分は諸分(しよわけ)に同じく遊興費。勘定を支払はなかつた事。」「〇一つ書(かき) ひとつがき。『一、何々。』と項目を分けて書く事。」「〇仍而如件 仍(よ)つて件(くだん)の如(ごと)し。証書などの終はりに書く言葉。『くだん』は『くだり』の訛り。『くだり』は條(くだり)の意。」とある。
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