第四 朝の塩籠夕の油桶
「これやこなたへ御免なりましよ。鹿嶋大明神様の御託宣に、人の身代は、『ゆるぐともよもや抜けじの要石商ひ神のあらん限りは』との御詠歌の心は、惣じてすぎはひの道、稼ぐに追ひ付く貧乏なし。」と言触れが言うて廻りしに、正直の耳に挟みて、一文の銭をもあだにする事なかれ。昔、青砥左衛門が松明にて鎌倉川を探せしも、世の重宝の朽ちすたる事を惜しみての思案深し。それは最明寺の御時にて、松、桜、梅を切つて薪屋をしても掴み取りのある世なり。今は銀が銀を儲くる時節なれば、中々油断して渡世はなり難し。
ここに、常陸の国にその身一代の内の分限、十万両の小金が原といふ所に日暮らしの何がしとて、棟高く屋作りして人馬あまた抱へ、田畑百町に余り、家栄えて不足なし。末々の里人を憐れみ慈悲深く、「この人、所の宝。」と村の草木も靡きける。
初めは僅かなる笹葺に住みて、夕の煙細く、朝の米櫃もなく、着類も春夏の分かちなく、只律義千万に身を働き、夫婦諸共に憂き時を過ぐしぬ。朝は酢、醤油を売り、昼は塩籠を担ひ、夕暮は油の桶に替はり、夜は沓を作りて馬方に商ひ、若き時より一刻もただ居をせず。毎年内証宜しくなりて、五十余までに銭三十七貫延ばしける。この男、商売に取り付きてこの方、一銭も損をしたるためしなく、年々に利得を求めたれども、元少しの事なれば、金子百両になる事、中々難しく、やうやう百両に積もりて、それより次第に東長者となりぬ。しかも男子ばかり四人ありて、何に不足もなし。
この所は江戸より程近ければ、この人の頼もしき事を聞き及び、長浪人の身を隠しかね、筋目ある方より状を添へられ、小金の里に行きてひたすら頼みけるに、この男、心ざし深く、藁葺の庵を渡して扶持を分け置きけるに、後は七、八人もありて物かしましけれど、浪人売れ難き世なれば、いづれも是非なく里の月日を重ねぬ。
この中に森島権六といふ男、少しこびたる者にて学力あれば、道を忘れず、「かく厄介になれる恩賞に、せめては。」と思ひ、四人の子供に四書の素読をさせけるは殊勝なり。又、木塚新左衛門といふ男は、中息子を勧め、三野色道を教へ、大分の金銀を遣はせける。宮口半内といふ男は、小刀細工利きければ、卯木の耳掻、鼠の作り物仕出して、明け暮れ油断なく精に入れ、江戸の通り町に遣はし、五、六年に銀子溜めけるは、この時に至りての才覚人なり。
又、大浦甚八といふ者は、小歌、小舞に気を移し、後にはおのづから拍子利きて、人のする程の事習ひ得ずといふ事なし。又、岩根番左衛門といふ人は、その様すぐれて大男、髭生ひて眼凄まじく、使ひ役にしても三百石がものは見えたり。然れどもこの人、形に似せぬ心入れ、仏の道に賢く、身をせせる蚤を殺さず、足下のみみずを踏まず。正直の頭ばかりは恐ろし。又、赤堀宇左衛門といふ男は、この身になりても鉄砲を残し置き、無用の盗み鳥、野山の狼を殺し、鞘咎め、武勇だて、年中我が儘を振舞ひける。「それぞれの人心、かく変はりあるこそ浮世なれ。」と、匿へ置きし主は、この善悪をたださず置きしに、世の浪人改めに、皆々所を送りける。
その後、つらつら世上を見るに、色々に成り行くさまこそ可笑しけれ。書物好きの権六は、神田の筋違橋にて太平記の勧進読み。好色の新左衛門は、渋面新吉と名を呼ばれて、田町に茶屋して日頃利いたる口三味線、太鼓持と成れり。細工利きの半内は、芝の神明の前にて渋紙敷きての小間物売り、今に編み笠可笑し。音曲好きの甚八は、又九郎が芝居に入りて、やうやう口の世で抱へられ、朝から晩まで尤役に使はれ、身をそれになしける。武士顔をやめざる宇左衛門は、心の如く乗り馬に十文字を持たせ、先知五百石の時に遇ひぬ。又、後生願ひの番左衛門は、いつしか墨染の袖となり、おのが姿も大仏の辺りにて我と心を責め念仏{*1}。申しても申しても口惜しき身の行く末。皆、知行も取りし者の、死なれぬ命なれば、かくは成り下がりける。
「これを思ふに、めいめい家業を外になして、諸芸深く好める事なかれ。これらも常々思ふ所の身とはなりぬ。必ず人にすぐれて器用と言はるるは、その身のあだなり。公家は敷嶋の道、武士は弓馬、町人は算用細かに、針口の違はぬやうに、手まめに当座帳付くべし。」と、小金の有徳人のあまたの子供に申し渡されける。
【口訳】
「これやこなたへ御免なりましよ。鹿嶋大明神様の御託宣に、人の身代は、『ゆるぐともよもや抜けじの要石商ひ神のあらん限りは』との御詠歌がござりますが、その意味は、惣じて『家業を稼ぐに追ひ付く貧乏なし。』といふ事ぢや。」と鹿嶋の事触れが言うて廻るが{*2}、これを正直に聞いておいて、一文の銭でも無駄にしてはならない。昔、青砥左衛門が松明で鎌倉川の銭を探したのも、世の重宝が朽ちすたるのを惜しんでの深い思案からだ。それは、最明寺殿の御時で、松、桜、梅を切つて薪屋をしても{*3}、ぼろい仕合せのできた時世であつた。今は金が金を儲くる時節であるから、中々油断しては渡世はできない。
ここに、常陸の国にその身一代の内に分限となつて、十万両の黄金を積んだ人が、小金が原といふ所に住んでゐたが、その名は日暮らしの何がしと言つて、棟高く屋造りして、人馬を多く抱へ、田畑は百町に余り、家運繁昌して何不足がなかつた。貧しい村人達を憐れんで慈悲深くあるので、「この人は、所の宝だ。」と言つて、村の草木さへも靡く程であつた。
初めは貧弱な笹葺の家に住んで、夕餉の煙も細く、朝の米櫃もなく、着類も春夏の分かちもなく、只実直一途に身を働き、夫婦諸共に辛い暮らしをしてゐた。朝は酢、醤油を売り、昼は塩籠を担ひ売りし、夕暮は油の桶に替はり、夜は馬の藁沓を作つて馬方に売り、若い時から一刻も安閑とせず、毎年生計が宜しくなつて、五十余までに銭三十七貫文を溜め込んだ。この男は、商売に手を着けて以来、一文も損をしたためしがなく、年毎に利益を得たけれども、元手が僅かの事であるから、金子百両になる事はとても難しい事であるが、やつと百両まで溜まつて、それから次第に東長者となつた。その上、男子ばかり四人もあつて、何に不足もない。
ここは江戸から距離が近いので、この人の頼もしい事を聞き伝へて、長浪人の身を隠しかねるのが{*4}、縁者から紹介状を添へられ、小金の里に行つてひたすら頼んだところが、この男は同情が深く、藁葺の庵をあてがつて給米を分け与へたところが、後には七、八人も浪人が居候して、物やかましいけれど、浪人の売れない時節であるから、いづれも仕方なくこの里に暮らしてゐた。
この中に森島権六といふ男がゐたが、少し巧者な者で学力があるので{*5}、人の道を忘れず、「かやうに世話になつてゐる御恩に対して、せめては報いよう。」と思つて、四人の息子どもに四書の素読をさせたのは感心だ。又、木塚新左衛門といふ男は、次男を勧めて山谷通ひを教へ、大分の金銀を費消させた。宮口半内といふ男は、小刀細工が上手であつたので、卯木の耳掻{*6}、鼠の作り物を新たに拵へて、朝晩油断なく精を出し、江戸の通り町に送り出して、五、六年の内に銀子を溜めたのは、かやうな時に至つては重宝な才覚男である。
又、大浦甚八といふ者は、小歌や小舞に耽り、後には自然に拍子が利いて{*7}、人のする程の事は習ひ得ないといふ事がない。又、岩根番左衛門といふ人は、その風采が非常な大男で、髭が生えて眼つきが鋭く、使ひ役にしても三百石取り程の武士には見える{*8}。けれどもこの人は、容貌に似合はぬ優しい心がけで、仏道を深く信じ、身をせせる蚤を殺さず、足下のみみずを踏まず、心は正直で、顔だけは恐ろしい。又、赤堀宇左衛門といふ男は、このやうな身の上になつても、ひそかに鉄砲を残して置いて、禁じられてゐる鳥を密猟したり、野山の狼を殺したり、鞘咎めや武勇だてをしたりして{*9}、年中我が儘をしてゐた。「それぞれの人の心には、かやうに変はりのあるのが世間の常だ。」と思つてかくまへて置いた主人は、これらの善悪をたださずにおいたところが、世の浪人調査のあつた時に、皆々ここを追ひ払はれた{*10}。
その後、つらつら世間を眺めてゐると、彼らが色々の身の上になつて行く有様が面白い。書物好きの権六は、神田の筋違橋で太平記の勧進読みとなり、好色の新左衛門は、渋面新吉と名を呼ばれて、田町に茶屋を開業して{*11}、日頃上手な口三味線が身を助けて太鼓持となつた。細工上手の半内は、芝の神明様の前で、渋紙を敷いて小間物売りになつたが、今でも時代遅れの編み笠姿が可笑しい。音曲好きの甚八は、坂東又九郎が芝居に雇はれ、口の世の諺の通り、やつと抱へられ、朝から晩まで尤役に使はれ{*12}、それを本業にした。武士の風をしたい宇左衛門は、思ひの如く馬に乗る身となり、十文字の槍を御供に持たせ、以前の知行通り五百石取りと成つて出世した。又、未来成仏を願ふ番左衛門は、いつの間にか墨染の衣を着て、自分の姿も大仏そのままで、芝の大仏の辺で自分で自分の心を責めながら責め念仏を唱へてゐたが{*13}、いくら申しても不運な身の行く末であつた。皆、元は知行をも取つた者が、死ぬにも死なれぬ命であるので、かくは零落したのである。
「これを思ふに、各人は、家業を怠つて諸芸を深く好んではならない。これらの浪人も、日頃好きな芸で世を渡る身の上となつた。人にすぐれて器用だと言はれるのは、必ずその身の仇となるものだ。公卿は和歌の道、武士は弓馬の道を励み、町人は算用細かにして、勘定の間違はぬやうに、手まめに当座帳を付けたがよい{*14}。」と、かの小金の里の福人が、あまたの子供を戒められた。
【批評】
初めは序説とも言ふべく、全篇の六分の一を占めてゐるが、鹿島の言触れ、塩売り、長者などは、御伽草子の「文正草子」に着想を得たものであると思はれるが、本篇の長者日暮らしといふ名は、小金町本土寺の過去帳にも見えるから、実在した人物であらう。
作者は「朝の塩籠夕の油桶」と題を掲げて、日暮らしの致富を述べようとしたのであつたが、読者は浪人生活の描写に本篇の価値を見出すであらう。一体、武士は刀あつての武士で、一旦泰平が続けば、本国でも江戸詰めでも書記や会計方などをする他はない。従つて、暇に任せて遊芸に耽り、遊里に通ふ者も多かつたから、まして浪人は「常々思ふ所の身となる」者が多かつた事も、事実であつたであらう。本篇は、この浪人の生活の一面がよく摘まれてゐる。
校訂者注
1:底本は、「せめ念仏(ねぶつ)を申ても」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
2:底本語釈に、「〇是やこなたへ 『是や』は感動詞。『こなたへ御免(めん)なりましよ』は『お宅へ御免ください』の意。」「〇動(ゆるぐ)ともの歌 和漢三才図会第六十六、要石の條『ゆるくともよもやぬけじの要石かしまの神のあらん限りは』。」「〇言触(ことふれ) ことぶれ。鹿嶋の言触れの略。正月に、鹿島明神の御託宣と称して、その年の吉凶などを触れ歩いて米銭を貰ひ歩く者。」とある。
3:底本語釈に、「〇青砥(あをと)左衛門 左衛門尉藤綱。」「〇西明寺(さいみやうじ) 執権北条時頼。最明寺が正しい。」「〇松桜(さくら)梅(むめ)を切(きつ)て 謡曲『鉢の木』に拠る。」とある。
4:底本語釈に、「〇長浪人(ながらうにん) 長く浪人してゐる者。」「〇身を隠(かく)しかね 慶安四年由井正雪の変以来、幕府は浪人の取り締まりを厳重にし、都会地では宿屋に於いても浪人を宿泊させる事を禁じ、地方でも許可なくして浪人を置く事はできなかつた。」とある。
5:底本語釈に、「〇こびたる 古事、世事、学問などをひと通り心得てゐる事。」「〇学力(がくりき) ここは、儒学の素養を言ふ。」とある。
6:底本語釈に、「〇三野(さんや) 今は山谷と書く。今の吉原の事。」「〇卯木(うつぎ) うつぎ属の落葉灌木。」とある。
7:底本語釈に、「〇きゝて 利きて。上手な事。」とある。
8:底本語釈に、「〇使役(つかいやく) ここは近世に於ける幕府の職名。戦時では使命を伝へ、平時では遠国役人を視察し、又、江戸市中火災ある時、巡視する役。延宝三年正月、使番と改称された。」とある。
9:底本語釈に、「〇鞘咎(さやとがめ) 自分の刀の鞘に人が触れたのを口実にして、咎めだてをなし、喧嘩をする事。」「〇武勇達(ぶようだて) 武勇を誇つて口論する事。」とある。
10:底本語釈に、「〇所を送(をく)りける 送るとは、監視を付けて人を他所に送り出す事。所払ひになつた事。」とある。
11:底本語釈に、「〇太平記の勧進読(くはんじんよみ) 太平記読み。太平記を読んで銭を乞ふ者。」「〇茶(ちや)屋して 浅草の田町に編み笠茶屋を開いて、自らは遊客の供をして吉原に出入りしたのであらう。」とある。
12:底本語釈に、「〇又九郎 坂東又九郎と言ふ江戸の俳優。」「〇口の世 諺。口さへ利けば、何かの渡世ができる意。」「〇尤役(もつともやく) 端役(はやく)。『これは尤も。』などの台詞を使ふ道化の端役。」とある。
13:底本語釈に、「〇大仏(をゝほとけ) おほぼとけ。今の芝区泉岳寺の南にある如来寺の仏像。『おのが姿も大仏』は、大きい身体が法体となつたので大仏のやうだといふ意と、芝の大仏とを言ひ掛けた。」「〇せめ念仏(ねぶつ) 心を責める意と責め念仏とを言ひ掛けた。責め念仏は、念仏の声を高くして、急な拍子で唱へる事。」とある。
14:底本語釈に、「〇針口(はりくち) 天秤の衡の中央に設けてあつて、衡の平均を示す針。天秤は金銀貨を秤る器であるから、針口の違はぬやうにとは、金銀の計算を違へぬやうにの意。」「〇当座帳(たうざちやう) その時その時につけ込み、しわけをしない帳簿。」とある。
コメント