本朝桜陰比事
春の初めの松葉山
それ大唐の花は甘棠の蔭に召伯遊んで詩をうたへり。和朝の花は桜の樹蔭豊かに歌を吟じ、この時なるかな、御代の山も動かず、四つの海原不断のさざ波静かに、王城の水清く、流れの末の久しき一人の翁あつて、百余歳になるまで家に杖つく事もなく、善悪二つの耳賢く聞き伝へたる物語、今の世の慰み草ともなりて、心の風に乱れたる萩も薄も、真つ直ぐに分かれる道の道筋の広き事、筆の林にも中々書き尽きずして残しぬ。
昔、都の町に高家の御吉例を勤むる年男あつて、毎年十二月二十一日に定めて、丹波境なる里の山入りして、御飾りの松を伐りける。この山の東の麓に里あり。西の麓にも里あり。この両所の入り組みの山にして、年々庄屋出合ひ、山境の争ひ、やむ事なし。ここを飾り山とて、古代より伐る所に極まる記録を持ち伝へ、「この山は、我が支配の所。」と言ふ。又一方の庄屋も巻物を出しけるに、双方一字一点違ひ無く、猶この事済み難し。さて又、高嶺の景地に大同年中の建立と言ひ伝へて、楠木作りに一間四面の観音堂あつて、内陣の扉は昔日より釘付けにして、本尊拝みたるためし無し。終に灯明の影もせず参詣の人も無く、柴男の休み所となつて、御仏前は木の葉に埋もれおはしける。この堂の事、第一争ひ訴状差し上げ、山公事に取り結びぬ。
時に両里の庄屋を京都に召され、「同じ記録を持ち伝へし事、仔細あるべし。この巻物に、観音堂事は何とも記し置かざり。記録は大同より後の年号なり。秘仏と言へば、誰か拝せし人もあるまじ。然れども我々どもは様子を知るべし。何観音の尊像なるぞ。両方より申し出づべし。言ひ当てし方の堂に申し付くべき」との御意なれば、ここぞ思案大事の所なり。一方よりは、「清水寺の御同体、千手観音。」と申し上ぐる。又一人は、暫く頬つかへして分別極め、「如意輪観音。」と申し上ぐる。両方極めさせての後、丹波に御役人を遣はされ、かの堂の扉を引き開けしに、格別なる事にて、各々横手を打ちける。すさまじき雷の形を八方へ鉄の鎖を懸けて縛め、目を留めて見るも、身のふるへる{*1}事なり。
京都に帰りてこの有様を言上申すに、さのみ不思議にも思し召されず、洛中の仏師を残らず召し寄せられ、「もし、この雷の像を刻みたる事を聞き伝へたる細工人は無きか。」と御尋ねの時、その頃、五條の大仏師法橋民部といふ者、六代の先祖、これを作りたる家業の巻物差し上げしに、「後小松院応永元年霜月十八日の夜、大雪降つて雷鳴り出し、その数知れず落ち懸かつて、諸木を砕き、里の屋を破り、人の命を取る事、男女に二十四人、万民の歎きなる時、北国方より真言の旅僧来つて、これを封じ籠められし後、この山里に虫出しの雷さヘ音なく、これを歓び、その像を造つて、『ここ久しかれ。』と祝ひ籠め、両里よりこれを崇め、雨乞ひの願ひをせしに、叶はざるといふ事なし。その事、里人、末になつて留め来し候と存じ奉り候。私先祖、これを造り申し候{*2}証拠には、則ち『岩座の内に書付残し候。』と、この巻物に見え申し候」段、言上申せば、台座を改めさせ御覧ありしに、一つの折紙あつて、仏師が申せし通り、少しも違はず。願主は両里の庄屋なり。その頃は聟舅の仲なる事、知れ来れり。
「さては記録、一方より書き写して遣はしけると見えたり。昔日縁者なれば、今以て外の義にあらず。自今以後は申し合はせて、この堂を限つて東西の山を守るべし。松は先例に任せ、一方の山にて十二本づつ伐つて、十二門の松を奉るべし。」と仰せ付けさせられ、永代変はらぬ松葉山、千代に八千代と祝ひ納めけるなり。
校訂者注
1:底本は、「ふるべき事」。『本朝桜陰比事』(1993)に従い改めた。
2:底本は、「造りし証拠」。『本朝桜陰比事』(1993)に従い改めた。
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