手形は消えて正直が立つ

 昔、都の町に北国の買ひ問屋して、六角通り{*1}に手前よろしきあり。親代より懇ろせし方へ、銀子五貫目貸して、預かり手形取り置き、それより{*2}年々、断りに任せて八年相待ち、その大節季に「入用。」とて人遣はしけるに、「手形持たせて御越しあるべし。銀子返進。」と申せば、右の手形箱を開けて内見するに、これ白紙となつて、不思議晴れ難し。あまたの証文、吟味致せしに、外の別條なし。
 何とも思案に及ばず、ひそかにこの段を貸したる方へ申せしに、「いづれ、その銀子は済ましたやうに覚えたり。何分にしても手形なくては不埒。」と、その後はいよいよ相済ましたに極めて、結句、貸し方の人悪しく沙汰せられて、世上に外聞失ひ、ここは堪忍成り難く、「銀子の損は格別、せめて我が正直を世に{*3}知らせたき」願ひ、ありのままに書き付け、申し上ぐれば、両方召し出だされ、まづ町の者に、両人が身代の程を御尋ねあそばしける。
 「財宝かけて八百貫目。」と{*4}指して、「相違御座なく候。」と申し上ぐる。又、「借り申す方は、三十貫目ばかり。」と見及びの程、ありていに申し上ぐる。「されば、この銀子は、借つたには紛れなし。たとへ手形は白紙に成るとも、銀は、きつと相済ますべし{*5}。おのれ、恐ろしき所存、世の仕置者なれども、相渡せば仔細なし。」と仰せ出されし時、何とも御返答成り難く、「銀子、相立て申す」御請け合ひ申し上ぐる。
 その後、貸し方の者を近う召され、「定めてこの手形は、あの者が宿より書き調へ、持参致したか。」と御意のありしに、「仰せの通り、私宅より認め参り申し候{*6}。印判は見覚え別條無く存じ、請け取り置き候」段々、申し上ぐる。「重ねては、眼前にて書かせ、商売の事まで念を入るべし。都にも、あの如くなる悪人あり。この度の手形は、かねて拵へたる物なり。烏賊の黒みに粉糊をすり交ぜて書ける物は、三年過ぐれば白紙に成るといふ事、『本草』に見えたり。正しくこれなるべし。」と仰せけるとなり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「六角通(ろくかくかよ)ひ」。『本朝桜陰比事』(1993)注釈に従い改めた。
 2:底本は、「取置(とりお)かれ、年々(とし(二字以上の繰り返し記号と濁点))」。『本朝桜陰比事』(1993)本文及び注釈に従い改めた。
 3:底本は、「正直(しやうぢき)を知(し)らせたき」。『本朝桜陰比事』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「八百貫目(くわんめ)をさして」。『本朝桜陰比事』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「相済(あいす)ますべく、」。『本朝桜陰比事』(1993)に従い改めた。
 6:底本は、「認(したゝ)め参(まい)りし、」。『本朝桜陰比事』(1993)注釈及び対訳文に従い改めた。