二 奈良の庭竃
昔から今に、同じ顔を見るこそ可笑しき世の中。この二十四、五年も奈良通ひする肴屋ありけるが、行く度に只一色に極めて、蛸より外に売る事なし。後には人も、「蛸売りの八助。」とて見知らぬ人もなく、それぞれに商ひの道つきて、ゆるりと三人口を過ぎける。されども大晦日に、銭五百持つて終に年を取りたる事なし。口喰うて一杯に、雑煮祝うた分なり。
この男、常々世渡りに油断せず、一人ある母親の頼まれて、火桶買うて来るにも、はや間銭取りて、只は通さず。まして他人の事には、取り上げ婆呼んで来て遣るけはしき時も、茶漬け飯を喰はずには行かぬ者なり。いかに欲の世に住めばとて、念仏講仲間の布に利を取るなどは、誠に「死ねがな目くじろ」の男なり。これ程にしても、あのざまなれば、天の咎めの道理ぞかし。
そもそも奈良に通ふ時より今に、蛸の足は日本国が八本に極まりたるものを、一本づつ切つて足七本にして売れども、誰かこれに気の付かぬ事にて売りける。その足ばかりを松原の煮売り屋に、定まつて買ふ者あり。さりとは恐ろしの人心ぞかし。
「物には七十五度。」とて、必ず顕はるる時節あり。過ぎつる年の暮に、足二本づつ切りて六本にして、忙し紛れに売りけるに、これも穿鑿する人なく、売つて通りけるに、手貝の町の中程に、表に菱垣したる内より呼び込み、蛸二盃売つて出る時、法体したる親仁、ぢろりと見て、碁を打ちさして立ち出で、「何とやら裾の枯れたる蛸。」と、足の足らぬを吟味仕出し、「これは、どこの海より上がる蛸ぞ。足六本づつは、神代この方、何の書にも見えず。不憫や、今まで奈良中の者が一盃食うたであらう。魚屋、顔見知つた。」と言へば、「こなたのやうなる、大晦日に碁を打つて居る所では売らぬ。」と言ひ分してぞ帰りける。
その後、誰が沙汰するともなく世間に知れて、さる程に狭い所は、隅から隅まで「足切り八助」と言ひ触らして、一生の身過ぎの止まる事、これ、己が心からなり。
されば、大年の夜の有様も、京、大坂よりは格別静かにして、よろづの買ひ掛かりも、ある程は随分済まし、「この節季には成らぬ。」と断り言へば、掛取り聞き届けて、再び来る事なく、差し引き四つ切りに奈良中が仕舞うて、はや正月の心。家々に庭囲炉裏とて、釜かけて焚き火して、庭に敷物して、その家内、旦那も下人も一つに楽居して、不断の居間は空け置きて、所習はしとて、輪に入れたる丸餅を庭火にて{*1}焼き喰ふも、卑しからず福貴なり。
さて又、「都の外の宿の者。」と言ふ男ども、大乗院御門跡の家来因幡といへる人の元にて、例に任せて祝ひ始め、「富々、富々。」と言ひて町中を駆け廻れば、家毎に餅に銭添へて取らせける。これを思ふに、大坂などにて厄払ひに同じ。やうやう夜も明け方の元日に、「俵迎へ、俵迎へ。」と売りけるは、板に押したる大黒殿なり。二日の曙に、「恵比寿迎へ。」と売りける。三日の明け方に、「毘沙門迎へ。」と売りける。毎朝三日が間、福の神を売るぞかし。
さて元日の礼儀、世間の事は差し置きて、まづ春日大明神へ参詣致すに、一家一門、末々の親類までも引き連れてざざめきける。この時、一門の広き程、外聞に見えける。
いづくにても、富貴人こそ羨ましけれ。商売の晒布は、年中、京都の呉服屋に掛け売りて、代銀は毎年、大暮に取り集めて、京を大晦日の夜中から、我先に仕舞ひ次第に、松明灯し連れて南都に入り込む晒の銀、何千貫目といふ限りもなし。既に奈良へ帰れば、皆々夜明けになれば、金銀蔵に打ち込み置き、正月五日より互に取り遣りの差し引きする事、例年なり。
この銀荷を心掛けて、大和の片里に忍びて住みける素浪人ども、年取りかぬる事の悲しさに、命を捨てて四人内談して追剥に出しに、皆三十貫目又は五十貫目の大分にて、望み程のはした銀なければ、「それか、これか。」と見合はすれども、終に「酒手。」と言ひかねて、この道変へて暗峠に出て、大坂よりの帰りを待ち伏せし所に、小男のかたげたる菰包みを、「心憎し。重き物を軽う見せたるは、隠し銀に極まるところ。」とて、押さへて取つて逃げ去れば、この男、声を立て、「明日の御用には、とても立つまい、立つまい。」と申す時に、四人して開けて見れば、数の子なり。「これは、これは。」
校訂者注
1:底本は、「庭火に焼(やき)喰も」。『世間胸算用』(1989)に従い改めた。
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