二 ほくろは昔の面影

【本文】

 明智日向守の、以前は十兵衛と言ひて、丹州亀山の城主に仕へて、やうやう広間の番組に入り、外様の勤めをせしが、朝暮心ざし、常の人には格別変はりて、奉公に私なき事、自然と天理に叶ひ、程なく弓大将に仰せ付けられ、同心二十五人預かり、武家の面目。この時、具足金十両ありしに、はや一国の大名にもなりぬべき願ひ。生まれ付きての大気、その身の徳なり。
 十兵衛、今に妻のなき事を見及び、息女持ちたる人、乞ひ婿の望み、かれこれ内証を言ひ入れけるに、妻は、近江の国沢山、何がしに美なる娘の兄弟ありて、いづれか花、紅葉、色比べのすぐれて姉の見よげなれば、十一の年より言ひ交はして、身代極まりてこれを迎へる約束。それよりは七年余りも過ぎぬれば、世の{*1}哀れ、人の情けも知るべき程なり。「近々に呼び迎へん。」と妻女の親の元へ状通致せしに、世には移り変はれる歎きあり。兄弟の娘、一度に痘瘡の山をあげしに、美なる姿の姉娘、顔卑しげに、さりとは昔と変はりぬ。妹娘は、以前に少しも変はらず、面影美しく育ちぬ。
 十兵衛に約束せし姉が形の格別になれば、「これを人中に送りて、醜き形を恥ぢさせ、我が娘と沙汰せらるるも由なし。」と夫婦内談して、「いまだ妹は、いづ方へも契約なければ、何となくこれを遣はし申すべし。」とこの事を語れば、更に身の事を歎かず。「自らこの姿にて十兵衛殿にまみゆる事は、思ひも寄らず。まして、この形を堪忍すべき者あればとて、外に男を持つべき心底にあらず。妹は、我らが昔に風俗も変はらず。よろづに賢く、心ざしもしをらしく生まれ付きぬれば、いづくに行きても二親の御名は下さじ{*2}。これを十兵衛殿へ送らせ給へ。我らはかねて出家の願ひ。諸仏を掛けて偽りなし。」と、手馴れし唐の鏡を打ち砕きて、浮世を捨てる誓文を立てしを聞きて、父も母も感涙袖に余りて、暫く思案せしが、「かく言ひ出して、返らぬ事ぞ。」と、妹に何の子細もなく、亀山に送る縁付の事を申し渡せば、「何とも合点参らず。姉君より先立ちて、道の違へる所なり。姉の御身片付きて後は、ともかくも。」と申し上げける。
 「尤も至極。それは、世間の順義ながら、姉は常々出家の心ざし深く、思ひ込めしゆゑ、とかくは望みに任せ、近々に南都の法華寺に遣はしける。その方は、亀山に送るなり。女に生まれても、その身の仕合せあり。明智十兵衛といへる人は、まづ武芸すぐれて、ことさら理に暗からねば、諸事に埒明けにして、一生連れ添ふ夫妻の楽しみ深し。しかも、次第に出世の侍なれば、我々老後の頼りともなりぬべき人ぞ。」と様々言ひ聞かせけるに、女心に嬉しく、親達の仰せに任せ、吉祥日を選び、相応よりは美々しく仕立て、亀山に送られける。
 十兵衛も、縁の初めを祝ひ、松竹の台の物を調へ、数々の盃事までも、振分髪に見し姉娘と思ひしが、その後、寝間の灯し火近く、互に面を見合はせし時、十兵衛、昔の脇顔に気を付けて、「その時はこの女に、咎むる程にはあらぬほくろ一つありしが、大人しくなりて、それも恥ぢて取り失せけるか。」と、言はずして耳のほとりを見しに、娘も、はや心を付けて、「これにほくろのましますは、私の姉君なり。麗しき御姿、疱瘡にて変はらせ給ひ、さりとは女の身にしては、御いとほしき事なり。『さし置きて自らの縁組は、逆なる。』と断り申せど、二親の命を背くなれば、これに送られけるも、心懸かりの止む事なし。今思ひ合はせば、こなた様の御約束は、姉君に疑ひなし。いかにしても道の立たざる事なれば、何事も許し給はれ。私は、今日より出家。」と守刀にて黒髪切るを留めて、「その方、形を変へても、世間済むまじ。人知れず内証にて、某が分別あり。五日に帰るまで待ち給へ。」
 「武士の息女の心底。」と深く感じて、それより再び顔をも見ずに隔たりて、里帰りの時、段々状通に記し、「右貰ひしは姉なれば。難病は世にある習ひ。たとヘ昔の形はなくとも、是非に送らせ給へ。一命に懸けても夫妻願ひの所存。殊にこの度、妹の心入れ、女ながら道理に詰まりける。」と、心中のほど言ひ遣りしに、親里にもこの事満足して、十兵衛願ひに任せ、また姉娘を遣はしけるに、打ち解けて不憫を掛け、「この仲、長くもがな。」と祈りける。女はひとしほ男の情けを忘れもやらず、よろづ心に従ひぬ。
 この妻、美女ならば、心の引かるるところもあるに、義理ばかりの女房なれば、ただ武を励む一つに身を固めぬ。この女、形に引き替へて心猛く、わりなき仲にも外を語らず、明け暮れ軍の沙汰して、広庭に真砂を集め、城取りせしが、自然と理にかなひて、十兵衛が心の外なる事もありて、そもそもこの女、武道の油断をさせずして、世にその名を上げしとなり。

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【輪講】

  明智光秀は、以前は呼び名を十兵衛と言つて、丹州亀山の城主に仕へて、やうやう広間の番組に入り、朝晩その勤めに対する志が、他の士達と格段に違つて、私がない。それが自然と天理に叶つて、程なく主人に認められ、抜擢されて弓大将になりました。同心を二十五人預かつて、武家としても大変な名誉であります。この時、具足金を十両持つて居りましたが、そんな身分で居ながら、もう「一国の大名にならう。」といふ願ひを持つてゐる。生まれつきの大気で、これはその人の徳であります。
 十兵衛は、まだ妻がないのを、他の人が見まして、娘を持つてゐる人は、婿に取りたいといふ望みを、かれこれ自分の心持ちを言ひやりましたところが、その妻になるべき者は、近江国沢山の何がしといふ者の娘に、美しい姉妹があつた。この姉妹は、いづれを花、いづれを紅葉とも申し難い、大変二人とも美しい中に、姉の方が殊に容が見よげなので、その姉の十一歳の時から言ひ交はして、「身分が決まつたら妻に迎へる。」と約束をしました。
 それから七年余りも経つて、もう二十歳近くなりましたから、一通りの人情を弁へるやうになつた。いよいよ「近々呼び入れよう。」といふので、親元へ手紙を出しましたところが、世間には思ひがけない事があるもので、姉妹の娘が一度に疱瘡に罹つたのに、美しかつた姉娘の方が醜くなつて、昔とはすつかり様子が変はつてしまひました。妹娘の方は、以前と少しも変はらず美しく育ちましたので、「約束した姉の方が格別に様子が変はつてしまつたから、これを人中に出して、醜い容を恥ぢ入らせ、『あれは、何がしの娘だ。』といふふうに評判されるのも、由なき事である。」
 夫婦が内談の結果、「妹の方は、まだどこへも約束がないから、それと言はずにこの方を十兵衛に遣はす事にしよう。」と言ひますと、姉娘は一向自分の不運を歎かず、「こんな姿になつて、十兵衛殿にまみえる事は、思ひも寄りません。又、十兵衛殿以外に、『こんな姿でも我慢して妻に持たう。』と言ふ人があつても、その人を夫に持つ料簡はない。妹は、以前の自分の様子に変はらないし、心も賢く、しをらしい生まれつきですから、どこへ片付いても、両親の名を傷つけるやうな事はありますまい。どうか十兵衛殿へお遣はし下さい。私は、かねてから出家の願ひで、私の言ふ事は、仏様にかけて偽りはありません。」と言つて、手馴れた唐渡りの鏡を打ち砕いて、浮世を捨てる誓文を立てました。
 これを聞いて、両親は感涙袖に余り、健気な志に感じ入つて、暫く思案しましたが、「かやうに姉娘が言ひ出した上は、何と言つても返らぬ事だ。」といふので、何の子細も言はず、妹の方に亀山の明智への縁付の事を申しますと、妹は、「一向、合点が参りません。姉君より先に嫁ぐといふ事は、人の道に違つて居ります。姉君がお片付きになつてからならば、どうなりとも致しませう。」と、若くつても中々義理堅い事を言ふ。
 「誠に道理千万な事で、それは世間の順序であるけれども、姉は平生から出家したい志で、深く思ひ込んでゐる事だから、追つて奈良の法華寺に遣はすつもりである。お前は、明智の居る亀山へ送る。女に生まれても、お前は仕合せな事で、明智十兵衛といふ人は、まづ武芸に優れてゐる上に、頭の働きもいいから、何事も始末がよく、一生連れ添ふ夫婦の楽しみも深い事である。しかも段々出世する、将来の頼もしい士であるから、吾々も老後の頼りになる人だ。」と様々に言ひ聞かせましたので、女心にも嬉しく、親達の言ふ事に従つて、吉日を選びまして、身分よりは美々しく仕立て、亀山に送られて行きました。
 十兵衛も、かねて約束の縁の初めを祝ひまして、松竹の台の物を調へ、三々九度の盃事をするまでも、幼少の時見た姉娘だ。」と思つて居ましたが、寝間の灯し火近く、互に顔を見合はせた時、十兵衛が気をつけて見ると、昔見た脇顔にはほくろがあつたが、今来た娘にはそれがない。「そのほくろは、問題になる程のものではなかつたが、大人になつてわざと取らせたか。」と、何も言はずにぢつと妻の耳の辺を見て居りますと、妹娘も利発で気がついて、「ここにほくろのありますのは、私の姉です。美しい姿でありましたが、疱瘡のために様子が変はつてしまつて、さりとは女の身としてお気の毒な事です。『その姉を差し措いて、私が縁組するのは、逆な事だ。』と言つて、お断り申しましたが、親の命令を背くわけには参りませんから、この方へ送られて参りました。
 「けれども、姉の事は心にかかつて止む時がありません。今思ひ合はすと、こなた様のお約束なされたのは姉の方である事は、疑ひありません。これではどうしても女の道の欠ける事ですから、何事もお許し下さい。私は今日から出家致します。」と言つて、守刀を取り出して黒髪を切らうとするのを、十兵衛は押し留めまして、「そなたが姿を変へても、世間はそのままで済むまい。これは、内証で済ます分別が自分にある。五日に里に帰るまで待つがいい。」「さすがに武士の息女の心底である。」と、明智の方で深く感じ入りまして、それから二度と顔も見なかつた。
 里帰りの時に、委細を手紙に認めまして、「私の貰つたのは姉の方である。難病は世にある習ひだから、よし昔の美しい姿はなくなつても、是非姉娘の方を送つて下さい。一命にかけても添ひ遂げたい所存である。殊に、今度代はつて来た妹の心入れは、女ながらも正しい道理にはまつてゐて、誠に感心しました。」と心の中を言つてやつた。親里の方でも喜びまして、願ひの通り姉を遣はしましたが、十兵衛はこれに憐れみをかけ、夫婦の仲が長く続くやうに祈りました。女の方は猶の事、さうした男の情けを忘れず、万事につけて明智の言ふ事に従ひました。
 この妻が美女でありましたら、心惹かれるところがあるわけですが、義理で貰つた女房なので、ただ武を励む事に身を固めて、女色に迷ふやうな事はなかつた。この女も心猛々しく、夫婦仲の睦まじい中にも、外の話はしない。明け暮れ戦の話ばかりで、庭の砂を集めては、城の形でも作つて、戦の真似をする。城を取る手順をして見せる。それが兵法の理にかなつてゐるので、十兵衛が思ひも寄らぬいい考へを出す事もある。この女は、武道の油断をさせず、「世に名を上げる事ができた。」といふのは、十兵衛の事でせう。
佐藤  「疱瘡の山」は、発熱後十日目から三日間を貫膿(やまあげ)と言ふ、それでせう。
三田村  具足櫃の中に金を入れるといふ事は、「雨窓閑話」に出てゐる。
佐藤  軍資金ですか
三田村  準備金です。だから、金を入れて置きながら、飢死をした話がある。一般の習はしだつたのです。
  「近江国沢山」で切つてありますね。これは地名でせうか。沢山といふ姓でせうか。
木村  地名でせう。佐和山は石田三成の居た所だ。それから、奈良の法華寺は尼寺だから、ここに持つて来たのでせう。
三田村  「身代極まりて」。これは、大名になつた時でせう。
  明智は、江戸時代には割合に評判が良かつたやうですな。太閤様をよく言はぬ時代ですから。
三田村  本願寺でも、よく言ふ。「あれは、信長があまりいぢめたからだ。」と言ふのです。「唐の鏡」は、日本でできたのでも、かう言ふ。今でも漢鏡と言つて貴むが、これは外国品を貴むので、日本でできたのも、さう言つて居た。「唐の鏡」は、女の宝だつたので、狂言にもあるでせう。「埒明け」は、分かりがいい事だらうと思ふ。「右貰ひし姉」。「以前」と言ふ時に「右」と言ふ。この話は、全部義理ですね。
  「十兵衛が心の外なる」は、どういふ意味ですか。
三田村  「思つての外の」でせう。武道へ励むから、さういふ事もあつた。
  予想外のいい考へを出すんでせうな。
  「十兵衛の心が外に移つても」と言ふんぢやありませんか。
佐藤  私も間さんの方です。「そんな事があつても、それよりは城取りの方に重きを置く」と言ふんぢやないかと思ふ。
佐藤追考  やはり森氏の説、可ならん。)
  「広間の番組」は、どういふ役ですか。
三田村  遠侍ぢやありませんか。「乞ひ婿」は、双六の「乞ひ目」などと同じで、「求めて婿にしたい。」といふ事です。今は「恋」の字を書くけれども、元来は「乞ひ」の方です。光秀の事は、最初の戦国の習ひとして、問題にならなかつたのだが、後に学問詮議が強くなつてから、いかん事になつたのです。それ以前は、「君臣」なんていふ事はわからない。段々学問をして、倫理が分かつて来たから、光秀が悪くなつて来たのです。これは皆、宋学のおかげだ。

校訂者註
 1:底本は、「世に哀(あは)れ」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「くださし。」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。