五 死なば同じ浪枕とや

【本文】

 人間、定命の外、義理の死をする事、これ弓馬の家の習ひ。人皆{*1}、魂に変はる事なく、只その時に至りて覚悟極むるに、見苦しからず。
 その頃、摂州伊丹の城主荒木村重に仕へて、神崎式部といへる人、横目役を勤めて、年久しくこの御家を治められしは、筋目正しき故なり。
 或る時、主君の御次男村丸、東国蝦夷が千島の風景御一覧の思し召し立ち、式部も御供役仰せ付けられしに、一子の勝太郎も御供の願ひ叶ひて、父子共にその用意して東路に下りぬ。頃は卯月の末、日数重ねて、今日の旅泊まりは駿河なる嶋田の宿にかねて定めしに、折節の雨降り続き、殊にその日は佐夜の中々穏止みなく、菊川わづかの道橋も白浪越すかと見えて、しかも松吹く嵐に、末々の者は袖合羽の裾返されて、難儀の山坂越えて、金谷の宿に人数を揃へ、大井川の渡りを急がせられしに、式部は跡役改め来つて、川の気色を見渡し、水かさ次第につのれば、「今日はここに御一宿あれ。」と、様々留め参らしけれども、血気盛んにましまして、是非を考へ給はず、御心のままに、「越せよ。」との仰せ。いづれも大浪に分け入り、流れて死骸の見えぬもあまたにて、渡りかからせての御難儀。後へ帰らず、やうやう先の宿に上がらせ給ひぬ。
 式部は後より越えけるが、国元を出し時、同役の森岡丹後、一子に丹三郎、十六歳なるが、「『初めての旅立ち。諸事頼む。』との一言、ここの事なり。」と、我が子の勝太郎を先に立て、次に丹三郎を渡らせ、人馬共に吟味して、その身は後より続きしに、程なく暮れに及び、川越し瀬を踏み違へて、丹三郎、馬の鞍返りて、横浪に掛けられ、遥か流れて沈み、これを歎くに、はや行き方知れずなりにき。しかも岸根今少しになりて、殊に歎き深し。我が子の勝三郎は子細なく、汀に上がりぬ{*2}。
 式部、途方に暮れて、暫く思案し済まして、一子の勝三郎を近づけ言ひけるは、「丹三郎儀は、親より預かり来り、ここにて最期を見捨て、汝、世に残しては、丹後手前、武士の一分立ち難し。時刻移さず相果てよ。」と勇めければ、さすが、侍の心根。少しもたるむところなく、引き返して立浪に飛び入り、再びその面影は見えずなりぬ。
 式部は暫く世を観じ、「誠に人間の義理ほど悲しきものはなし。故郷を出し時、人も多きに、『我を頼む。』との一言、そのままには捨て難く、無事に大川を越えたる一子をわざと最期を見し事、さりとては恨めしの世や。丹後は外にも息子をあまた持ちぬれば、歎きの中にも忘るる事もありなん。某は一人の勝三郎に別れ、次第に寄る年の末に、何か願ひの楽しみなし。殊に母が歎きも常ならず。時節外なる憂き別れ、思へばひとしほ悲しく、この身もここに果てなん。」と思ひしが、「主命の道を背くの大事。」と面に世間を立てて、内意は無常の只中を観念して、若殿御機嫌よく御帰城を見届け、何となく病気にして取り籠り、その後、御暇を乞ひて、首尾よく伊丹を立ち退き、播州の清水に山深く分け入り、夫婦、形を変へて仏の道を願ひ、それまでは子細を人も知らざりしが、勝三郎最期の次第、丹後、伝へ聞きて、その心ざしを感じ、これも俄に御暇乞ひ請け、妻子も同じ墨衣。式部入道の後を慕ひて、その山に尋ね入り、憂世の夢を松風にさまし、涙を子供の手向水となし、不思議の縁に引かれて、菩提に入りし山の端の月、心の曇らぬ語らひ。
 類なき後世の友、行ひ澄まして年月を送りしに、その人も残らず。今又、世にある人も残らず。

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【輪講】

三田村 人間の定命といふものは、八十年と言ひ、六十年、五十年とも言ひ、色々に申しますが、ここでは定まつて死ぬる「天寿」とでも言ひますか、死ぬ時が来て死ぬ外に、義理のために死ななければならぬやうになるといふ事は、外の者にはない、武士の家の習ひである。その事も、この物語につけて幅広く言ふべき事で、義理は武士に限つた事ではない、町人にもある事ですが、命がけの義理立てといふものは、農工商の上にはなく、武士のみにある。それ故に、武士の義理が一番大きい。一番高い義理をする者は何かと言へば、武士である。さういふ義理に迫つて死ぬといふ事は、武士に限つた事だが、人の肝玉には、別に変はりはない。只、その場に臨んで、「己は武士である。」といふ覚悟があるから、見苦しくない最期を遂げる。
 その頃(戦国時代)、摂州伊丹の城主であつた荒木村重の家来に、神崎式部といふ人があつた。横目役(軍中警察)で、年久しく村重に仕へて、荒木の家を取り締まつてゐたのは、この人の筋目が正しいからである。
 或る時、村重の次男の村丸といふ人が、「東国から蝦夷千島のかけ離れた風景を見たい。」といふ思ひ立ちをされて、式部も御供を仰せ付けられた。式部の一子勝太郎も、やはり御供を願つてお許しを得たから、父子諸共に支度をして、東路に下つて来ました。時は四月の末で、日数を重ねて東路を下つて参ります内に、今日は嶋田の宿に泊まる予定なので、その時はもう五月雨の頃になりまして、雨はどんどん降つて居りますし、宵から中々雨が止まない。菊川のわづかな、ささやかな橋にまで、大きな波が立つ程に、水かさが増して居ります。その上に又、嵐模様で、御供の袖合羽は風に吹き煽られて、難儀千万な旅になりました。
 金谷で人数を整へ、人揃へをして大井川にかかる。跡役(しんがりをする役)の式部が見渡しますと、大井川は水かさが増して、渡りにくい。「危険であるから、もう一晩ここに御泊まりになつたらよろしうございませう。」と御留め申しましたけれども、何しろ年の若い、血気盛んな村丸の事ですから、この川を渡つて行く事がどうであらうが、そんな事は構はない。ただ一向に、「越してしまへ。」と言ひ切つて、大浪の立つてゐる大井川へ立ちかかられたので、忽ちの間に川流れが沢山できた。川を渡りかけて、中々渡れない。甚だ難しい事になつてきたが、元気任せで、後へは返されない。やつとの事で、先の宿へお上がりになつた。式部は、後を押さへて越して参ります。
 ところが、式部が国を出る時に、同役の森岡丹後の一子丹三郎、十六歳になる者が、「この度の御供で初めての旅立ちだから、何分よろしく頼む。」と言はれて来た。今、大井川を渡りがたい事になつて、「頼まれたのは、ここの事だ。」と思ひましたから、自分の倅の勝太郎を先に立て、その次に丹三郎を渡らせて、人馬共に十分に注意して、後からついて渡りました。何しろ後から行くのでありますから、もう暮方になつて参ります。どう間違へたか、深い方へ入つたので、丹三郎は馬の鞍が覆り、横波にさらはれて流れてしまひました。「これはしたり。」と思つて、その行方を悲しみましたけれど、どうにもならない。もう岸までいくらもない所へ来てゐただけに、殊に歎息に堪へない。一足か二足行けば助かつたかも知れないのですから、思ひ出は猶深いわけです。
 丹三郎は流れたが、自分の倅の勝三郎は、子細なく上り着いた。我が子が無事に着いたのを見て、式部は思ひ惑つて、暫く考へて居りましたが、覚悟がついたものと見え、勝三郎を呼びまして、「丹三郎は、親から預かつて来たのだ。ここで最期を見捨てて、自分の子が無事だとあつては、私に頼んだ丹後に対して、自分の武士の一分が立たない。もう一刻も猶予はならぬから、お前はここで死んでくれ。」と言つた。勝三郎は、さすがに武士の根性を持つてゐますから、少しも躊躇なく引き返して、大波の立つてゐる中へ飛び込みまして、二度と面影は見えないやうになつてしまひました。
 式部は、我が子が再び川へ飛び込んで、さうして姿も見えず流れて行くのを見て、暫時、世の有様を考へる。「誠に、人間の義理といふもの程、切なく苦しいものはない。大勢人があるのに、自分に「倅を頼む。」と言はれた。それがために、無事に大井川を越した一人の子を、わざと死なせなければならない。さりとは、世の中はうるさいもの、恨めしいものである。丹後には、まだ男の子もあるから、歎きは歎いても、外の子供に思ひ替へる事もできるだらう。自分は一人しかない勝三郎に別れたのだから、年を取つて行く末にも、子を老いの力とする事ができず、何の願ひ、何の楽しみもない。殊に勝三郎の母が歎きも並大抵ではあるまい。普通に死んで行く、所謂定命の死、決まりきつた、どうでもしなければならぬ悲しみと引き違へて、とんでもない時にかういふ悲しい別れをする事を思へば、それは更に悲しみが多い。かういふ悲しみを幾度か重ねる事を思へば、この身もここで果てようか。」と思つたが、「それでは、主君の息子に御供して遠方へ行く使命が果たせない。主命の重さに主従の道を捨てる事はできない。」腹の中はどうでも、表面は以前の通り武士を立てて、心の中には有為転変の事を忘れず、忍んで御供をする。
 若殿が御機嫌よく帰城されて、御用をすつかり果たした上、式部は「病気。」と称して引き籠り、それから御暇を願ひまして、都合よく伊丹を立ち退き、播州の清水といふ山へ入つて、夫婦共に髪を剃つて道心になつた。さういふふうに姿を変へて法体になるまでは、人にも洩らさなかつたけれども、発心してから世の無常を深く感じた訳を話したので、勝三郎の最期の次第も、森岡丹後の方に聞こえたものですから、丹後も式部の志に感心しまして、これも又、俄に御暇を乞ひ請けて、夫婦のみならず、子まで引き連れて、一同法体になつた。さうして、前に法体になつた式部の後を慕つて、清水へ尋ねて行つて、二組共に浮世を夢に、松風だけにしてしまつて、子を悲しむその涙を以て手向けの水とした。さうした逆の縁に引つ張られて、菩提の道に入る。山の端の月(真如)を入り口として、道心堅固に、この二人の人は、後の世を祈る道の友達として、行ひ澄まして山奥で暮らした。
 さうした両家の人々も、残りはしない。皆死んでしまつた。と言つてゐる人も又、誰も残るわけではない。
  「只、義理堅い物語だけが残る。」と言ふんでせうな。
三田村  さうです。義理話が残る。これなどは、義理としては、いい話で、一番初めのとこの話が一番いいと思ふ。
楽堂追記)「縁に引かれて、菩提に入りし山の端の月、心の曇らぬ」云々は、謡曲「夕顔」、又は「半蔀」の中より片々に取りて綴れり。
宵曲付記)この章、原本、初め「勝太郎」とあり。後は「勝三郎」とあり。作者の思ひ違ひなるべし。

校訂者註
 1:底本は、「人なみ魂(たましい)に」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「あかりぬ」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。