一 身代破る風の唐傘

【本文】

 幾春か身を祝ひ、若松の城主加藤肥後守殿に勤めて、本部兵右衛門とて、武の道けなげなる人なりしが、侍は住居定め難し。奉公盛りの花の時、俄に落花の如く会津を惣並に立ち退き、浪人ほど悲しきはなし。妻子は、かかる節の難儀。又、身代を稼ぐ内に、兵右衛門病死を歎き、惣領は{*1}、思ふ子細ありて、一子兵右衛門と申せしを、三番目の弟、武州にて磯貝何がしの家を継いで、磯貝藤兵衛と言へり。この方へ養子に遣はし、その身は高野に隠し、二尊院の門前に幽かなる草の庵。浮世の月をよそに見なし、いつとなく胸も晴れて、廟前の杉叢、心の針の尖りをやめて、今は千本槙の露を払ひ、観念の朝勤め。夕べは岩上にたたずみ、後の世を願へるの外なし。さて、名を岡本雲益と改めける。
 雲益差し次の弟、本部喜介と申せしは、蜂須賀の家にありしが、眼病気にて暇申し請け、阿州の片里に引き籠り、世を暇にして暮らしぬ。一子は磯貝藤介と言ひて、これも浪人分なり。喜介弟は出家して、同国真言寺源久寺に座りぬ。又、源久寺弟は、本部実右衛門と申して、これも阿州に安留次左衛門と言へるは、親兵右衛門と古傍輩なる故、そのよしみにて、これに掛かり人となりて、年月ここに暮らしぬ。
 実右衛門、或る時、新橋を渡り行くに、折節雨風激しく、前後も見えざりし時に、向うより嶋川太兵衛と申す人、これも渡りかかりぬ。両方共に、差し傘傾けて行き違ひしに、橋の中程にて実右衛門、唐傘を太兵衛差し傘に振り当てしに、太兵衛、「これは慮外。」と突きのけしに、実右衛門、「慮外と言はれては、断りも申されず。その方、何者にて推参なる言葉。」と言ふ。「推参とはいかに。見れば、安留次左衛門が家来の分として、詫びて通るべき事、本意なるに、かへつて雑言申す段、ここは堪忍なり難し。」と、抜けば抜き合はせて、暫く切り結びし。実右衛門、運命尽きて、終に討たれける。
 その時節、磯貝兵右衛門、同名藤介、この両人、太兵衛を狙ひしに、又者分の御沙汰に極まり、討つ事成り難く、是非に及ばず。所を立ち退き、武州に下り、同名藤兵衛方に居て、国元の様子聞き合はせけるに、太兵衛事、少し手を負ひ御奉公成り難く、御断り申し上げ、弟惣八に家を継がせ、その身は遠所の山里に逼塞して、名を本立と変へて、頭も散切になり、医道を心掛け、昔の如く栄花の望み絶えて、世の交じはりをもやめられける。
 兵右衛門は、江戸に罷りある内に、世間の事どもうち捨て、只一念に伯父の敵討ちたき願ひばかりに、朝暮武芸励み、毎日兵法の師の元に相勤めけるが、何とぞ武運にかなひ、嶋川太兵衛に巡り会ひたき諸願を掛け、忍び忍びに阿州の内証を聞くに、国を出でざれば、何ともせん方尽きて、気を悩みしに、その里の人、年頃別して語り、殊更内縁のよしみなりけるが、長病にて、所の療治尽きて、次第に退屈の身となり、上方の名医に会ひて相談ありたき願ひ。
 一門同心して、養生のため大坂に上れば、本立もこれを見捨て難く、気遣ひ絶えざる身なれども、常々懇ろの義理を思ひて、病人は斟酌すれども、「船中の気分、心もとなし。」と付き添ひ、大坂に着船して、南の御堂の前に借り座敷を調へ、主は四季折々の草花商へる店にして、「これも心の慰みなれる所。」とて、よろづに気を付け、本立も随分ひそかに町ありきして、人知れず逗留致せしに、右の子細を知る人は、無用の沙汰しける。

前頁  目次  次頁

【輪講】

佐藤  幾春か身を祝つて、若松の城主加藤肥後守に奉公して勤めてゐた、本部兵右衛門といふ人がありました。武の道に殊勝な、優れた人でありましたが、士といふ者は、住居が定め難い。奉公の景気のいい、盛りの花のやうな時に、その花が俄に散るが如く、会津を一緒に立ち退き、誠に浪人ほど悲しい者はない。「妻子は、かかる時の難儀。」
三田村  邪魔者でせう。
佐藤  又、奉公の口を探してゐる内に、兵右衛門が病死したのを歎いて、総領は、思ふ子細あつて、一子兵右衛門と言つてゐたのを、三番目の弟が武州で磯貝何がしの家を継いで、磯貝藤兵衛と言つて居りましたが、そこへ養子にやつて、その身を荒野に隠しまして、幽かな草庵を結んで、浮世の月をよそに見なし、いつとなく心も澄み渡つて、廟前の杉の木立の中にすつかり落ち着いて、千本槙の露を払ひ、信心から朝毎の勤めをし、夕は岩上に佇んで、後世を願ふより外の事はない。そこで、名も岡本雲益と改めました。この雲益のすぐ次の弟に、本部喜介といふ人があつて、蜂須賀家に仕へて居つた。これが眼病に罹つて、御暇を願ひまして、阿波の片田舎へ引つ込んで、世の中を暇に暮らしてゐる。喜介の一子磯貝藤介といふのも浪人してゐる。それから、喜介の弟は出家して、阿波の国の真言宗の寺「源久寺に座りぬ。」
三田村  住職になつたのです。
佐藤  又、その源久寺の弟に、本部実右衛門といふ人がある。同国の安留次左衛門といふ人は、親の兵右衛門と元傍輩でありましたから、そのよしみで、ここのかかり人になつてゐる。ここで年月を送つてゐる内に、或る時、実右衛門が「新橋」を渡つて行つたところが、丁度、雨風が烈しく、前後もわからないのに、向うから嶋川太兵衛といふ人が渡つて参りました。両方共に傘を差し傾けて、行き違ひに橋の中程で、実右衛門の差してゐる傘を、太兵衛の傘に振り当てたものですから、「これは無礼である。」と言つて、太兵衛が突きのけた。実右衛門も、「慮外と言はれては、断りもできない。その方は何者で、推参なる言葉を申すぞ。」と言ふと、相手の太兵衛は承知しない。「推参とは何事だ。見れば、安留次左衛門の家来の分際として、詫びて通るのが本意であるのに、かへつて雑言を申すに於いては、堪忍できない。」かう言つて刀を抜くと、実右衛門も抜き合はせて、暫く切り結びましたが、実右衛門は運命尽きて、遂に討たれてしまひました。その当時、磯貝兵右衛門、同藤介の両人が、太兵衛を狙ひましたが、「又者分の御沙汰に極まり」。
  居候であるのみならず、身分が又者だからでせう。
三田村  士でなくては、敵討ちは許されない。討たれた人が士分でないから、敵討ちが許可にならないのです。
佐藤  さういふ次第ですから、是非に及ばない。所を立ち退きまして、武州の藤兵衛の所に来て、国元の様子を聞き合はせますと、太兵衛は、実右衛門との斬り合ひの時に、少し負傷して、奉公ができなくなつたので、その旨を主君に御断り申し上げて、家は弟の宗八に継がせ、自分は遠い山里に逼塞して、名も本立と改め、頭も散切になつてしまつた。さうして医道を心がけて、昔のやうな栄華の望みもなくなり、世間との交じはりをもやめたのであつた。兵右衛門は、江戸に居る内に、世間の事などはうち捨てて、只一途に、「伯父の敵を討ちたい。」といふ念願ばかりに、明け暮れ武芸を励み、毎日剣術の師匠の所へ勤めて居りましたが、「どうか武運にかなつて、敵の嶋川太兵衛に巡り逢ひたい。」といふ願をかけまして、忍び忍びに阿波の様子を聞くと、一向、国を出て来ないので、何とも仕方がなくて、気に悩んでゐたところが、その国の或る人が、年頃特別に嶋川と懇意にして語り、殊更内縁のよしみもあつたが、その人が長いこと病気をして、その国での療治の仕様も尽きて、次第に退屈で持て余すやうな身となり、「上方の名医に相談してみたい。」と言ふので、一門の人々も同心しまして、養生のために大坂まで上る事になつた。本立も、これを見捨てるわけにいかない。さういふ敵があつて、心遣ひの絶えない身だけれども、年頃懇意にしてゐる義理を考へて、病人の方は遠慮するのを、嶋川の方から、「船中の気分なども心配だ。」と言つて、付き添つて大坂に船で着いた。そして、南の御堂の前へ――これは、間借りしたんでせうか。
三田村  貸し座敷といふものがあつたのです。
佐藤  とにかく、そこの「主は、四季折々の草花商へる店」とあるから、無商売の家ではないやうです。
木村  「これも心の慰みなれる所」といふのは、うちが花屋だからでせう。
佐藤  万事に注意して、本立も随分ひそかに町歩きをして、人知れず逗留してゐたのでしたが、右の事情を知つてゐる人は、いりもしない評判を立てました。
三田村  「無用の沙汰」は、「よしたらよからう。」と言つたんでせう。この話は、最初、橋の上で突つかけられた時分に、実右衛門が、「その方は、どういふ者で、さういふ事を言ふか。」と言つた。かういふ場合は、身分の低い方から挨拶すべきなのです。「推参」は、昔の人のよく言つた言葉で、出しやばる事だ。「散切」は、髪を切つて撫で付けにするのです。「御堂」は本願寺ですね。
木村  芭蕉が亡くなつたのも、御堂前の花屋の裏座敷でした。これも、御堂の花売りと見たらよからうと思ふ。
三田村  阿波は、船に乗らなければならないので、ちよつと入る事が困難なのです。
佐藤  「慮外」。
三田村  法外な事をする。挨拶をすべき時に、「慮外」なんて言つたものだから、「何者なれば、かういふ事を言つたか。」といふ事になつた。もしさう言つた方が、上の人だつたら、そのままで済んだかも知れない。上士と下士といふ事が問題になつてゐるのです。「慮外と言はれては、断りも申されず。」といふのは、「咎められては…。」といふ意味だ。そこで、「その方は、どういふ身分の者なれば、大きな事を言ふか。」と言つた。『摂陽奇観』に貞享四年の事として出てゐる。
仙秀追記)一子兵右衛門の事で大分問題になつたが、本文に「伯父の敵」と呼んでゐるのと、『摂陽奇観』に「討人 紀州慈尊院村岡本雲益三男阿州侯家士本辺実右衛門甥 左手疵五ケ所 磯貝兵右衛門 左足疵一ケ所 同藤介」とあつた。そこで系図にすると、左の通り。

040c

佐藤追記)正にこの系図の通りと思はれるが、「喜介」の子が「磯貝」を氏とする事由が未詳。又、「三番目弟」を「親兵右衛門」から三番目とすれば、「藤兵衛」の前に、何がしが一人入るわけである。

校訂者註
 1:底本は、「惣領(そうりやう)をおもふ」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。