二 御堂の太鼓打つたり敵
【本文】
悪事四十里を走り舟。大坂の様子、阿波に聞こえて、鳴門の浪風もなく、磯貝藤介が方より人を仕立て、東武にありし兵右衛門方へ文通せしに、この状、貞享四の年五月十四日に着きて、兵右衛門内見して、その夜身拵へせしに、舟越九兵衛といへる浪人聞きつけて、「かねて語りしは、かかる時の事なり。」と、助太刀の事頼もしく申すを、色々辞退申せど、「是非同道。」と言ひ掛かつて引かざれば、喜び、両人上りしが、九兵衛、「存知入りのある。」とて、脇差一つになつて、家来分にて道を急ぎ、二十四日に京都に入りて、右の段を御郡代衆へ御断り申し上げ、二十五日の朝大坂へ下り着き、なるほどひそかに尋ね見廻り、六月朔日に藤介、阿州を発足して、同二日に難波の船着に上がり、兵右衛門、藤介に出で合ひ、「これは。」と勇みをなし、両人、敵討の御帳に付いて、首尾よく御屋敷罷り立ちて、早その日より、「もしも人立ちの所にあるべきか。」と、道頓堀の芝居の果てを心掛け、一人は嵐三右衛門が木戸につき、又一人は大和屋甚兵衛が表に立ち、一人は荒木与次兵衛が追ひ出し太鼓の鳴りしまふまで、田舎らしき人に気を付け、或いは笠の内に心を配り、出羽、義太夫が浄瑠璃の果て口、又太夫が舞を聞く人、竹田がからくりの見物、甫水が太平記を読める所、その外、浜芝居の小見世物、水茶屋の客までを吟味して、それより寺社の遊山所を見巡り、町筋の縦横、人家の末々までも見渡しけるに、この津の広き果てしなく、いつ会ふべきも定め難く、猶又、浜辺浜辺を探し、御堂の前を通りけるに、物には天理あり。
嶋川本立、その日国元に下り舟、幸ひの日和。夕暮の風待つ人もありて、又舟より上がり、同道三人に立ち帰りぬ。この舟、そのままに出で行き、国里に帰り居ば、時節を待つとも知れ難し。とかくは道理にせめられ、立ち戻りしを、兵右衛門、藤介、ほのかに見付けしが、しかとはいまだ極め難く、殊更連れたる人々の迷惑を顧み、足場見合はせけるに、借り宿の花屋がうちに入りぬ。
いよいよ見定めて付け込み、躍り上がりて喜び、「今日こそ恨みの晴らしどころなれ。少しもせく事なかれ。ここは往来の繁し。外の人に過ちなきやうに。」と申し合ひ、出るを待つに、久しければ、「旅宿に踏ん込み討つべき。」と言ふ。これも病人を憐れみ、「今暫く待ち請け、大道にして討つべき。」と、あなたこなたに立ち隠れ、とやかく内談をするを、近所の町人、不思議立つるもあり。
さる小家に入りて、「我々は、待つ人ある」由言ひて、水など貰ひ、今日の暑さを凌ぎ、三人共に立ち替はり立ち替はり、様子見せなる草花に心を寄する風情して、「敵は、やがてしをるる罌粟の如し。我らは盛りの菖蒲太刀。風に花を散らすべし。」と思ふ心の色、外に見えて、後には亭主も、「異な事。」と思ひ、目をつけぬれば、少し又、南の方へよげて待つに、日影も西に傾き、お八つの知らせ太鼓打ちぬれば、浮世を盗みたる男、頭は夏の夜の霜を戴き、もじの肩衣掛けて行くもあり。嫁の嫌がる婆も一連れに七、八人づつ、置綿、手拭、扇に珠数を持ち添へ、後世の庭にも座を争ひ、「我遅れじ。」と急ぐ足音可笑し。これらは皆、行く先近く、仏を頼むも理なり。若盛りの男の、暇ならば遊び所もあるに、無用の御堂参り。子細らしくは見えてから、偽りのやうに思はれける。
世は様々と見し内に、大勢の中に紛れて本立も参りける。三人、気をつけて、御讃談半ばにあまたの人を見分けしに、仏前の恐れもなく、柿の夏頭巾置きたる頭、来迎柱の順にちろりと見えけるを、北の縁側に廻りて、よくよく見届けしに、嶋川太兵衛に紛れなし。各々喜び、客殿に廻り、御寺預かりの人に右の内通して、「騒ぎ給はぬ心得のため。」を申せば、「神妙なる付け届け。」を感じける。「さりながら、御仏前にての事は、御用捨。」と頼まれければ、その段は請け合ひ、「然らば、裏御門はさし固められ、門一つの出入り。」と申しけるに、その段は又請け合ひて、早、裏の門は固め置かれぬ。
三人は御門前の町に出、三方へ手分けをせし。まづ兵右衛門は、東への道筋あれば、その角に控へたり。藤介は北の方の門を固め、九兵衛は南の門に付きて、「ここぞ。」と待ち請けし有様、天を翔ける鳥も、逃るべきやうなし。「さあ、今果つると心得べきものなり。あなかしこ。」の声聞けば、惣立ちに人の山見ゆる中に、本立、編笠かぶり出るを、兵右衛門、駆け付け、「その方は、嶋川太兵衛と見請けたり。伯父の敵、やらぬぞ。」と言葉を掛くれば、本立も、聞きもあへず、「心得たり。」と笠脱ぎかけ、手ばしかく刀抜き合はせて、渡し合ひぬ。本立、身軽く、あつぱれ働きけれども、兵右衛門、利の剣以て開いて切り込み、両方共に早業、手を尽くして戦ふ。時に本立、編笠の緒、首筋に掛かりて、少しは働きの邪魔にもなりぬ。されども宙を飛ぶ如く、甲斐甲斐しく切り結ぶところへ、藤介駆け寄り、切りつけ、これに大方利を得て、畳みかけて切り立てける。
時に所の町人、驚き、商売の店、戸をさし、騒ぐ。九兵衛、これに下知して、「騒ぎ給ふな。敵討なるぞ。只今首尾よく討ち留めたるを、各々見物し給へ。」と、さても落ち付きたる男なり。その内に太兵衛を切り伏せ、心静かに止めを刺し、その身を見れば、深手、浅手二十一ケ所、さりとはこれまで働き。「六月三日の入相の鐘に、御堂の前の花は散りける。」とながめし。
兵右衛門は今年二十六歳、血気盛んの時を得たり。藤介は十八歳、前髪盛りの美児。薄手の血潮を自ら拭ひ、太刀を杖に突きながら腰掛に休らひ、三人、顔を見合はせ、息をつぎて礼儀述べ、「諸事の詰め開き見るさへ、武士の本意。」と勇めば、その身の嬉しさ限りもなく、まづは町に入りて養生致しぬ。藤介一か所、兵右衛門は五ケ所の疵平癒して、当分何の子細もなく、高野の方へ立ちける。
【輪講】
間 悪事は、四十里を走り舟のやうに早く伝はつて、大坂の様子が阿波に聞こえた。鳴門に浪風の立たないやうな中を、磯貝藤介の所から人を仕立てて、江戸に居る兵右衛門に文通して知らせた。その手紙が貞享四年の五月十四日に着きまして、兵右衛門はこれを見ると、その晩すぐ身拵へをした。それを船越九兵衛といふ浪人が聞きつけて、「かねて語り合つたのは、かういふ時の事である。」と助太刀の事を頼もしく言ひ出した。兵右衛門は、色々辞退したけれども、「ぜひ同道する。」と言つて、承知しない。そこで、喜んで二人で発足しましたが、九兵衛は、「考へた事がある。」と言つて、自分は脇差一つで家来のやうな形になり、道中を急いで、二十四日に京都に着いた。右の段(敵討)を御郡代衆に御断り申し上げ、二十五日の朝大坂へ着いて、できるだけひそかに尋ね廻つた。一方、藤介は六月朔日に阿波を発足して、二日に大坂へ船で着いた。兵右衛門は、藤介に出会つて大いに勇気を起こしまして、「両人、敵討の御帳に付いて」、「人の沢山出る所に居やしないか。」と言ふので、道頓堀の芝居のハネを注意する。丁度三人居りますから、一人は嵐三右衛門の木戸に立ち、一人は大和屋甚兵衛の表に立ち、又一人は荒木与次兵衛の追ひ出し太鼓が鳴つてしまふまで、田舎臭い人に気をつけて、かぶつてゐる笠の内を注意する。出羽、義太夫の浄瑠璃の果て口、又太夫の舞の聞き手、竹田のからくりの見物、甫水の太平記を読む所、或いは浜芝居の小見世物、水茶屋の客に至るまで吟味し、神社仏閣を見巡り、町筋の縦横、人家の末々まで見渡したけれども、何しろ大坂は広い所で、いつ逢へる事かわからない。猶浜辺浜辺を捜して、御堂の前を通つたところが、道理も通るべき世の中である。嶋川本立は、その日国元へ船で下る事になつて、「幸ひの日和、夕暮の風待つ人もありて」、又船から上がつて、三人連れ立つて帰つて来た。船はそのまま出て行つてしまふ。もし国へ帰つてしまつたら、時節を待つたところで、知れるものではない。その戻つて来るのを、兵右衛門と藤介がちらりと見かけたけれども、まだはつきり見極める事はできない。殊に、連れの人があるから、「その人に迷惑をかけてはいかん。」といふので、「いい場所を見つけよう。」と思つてゐる内に、例の花屋の借り座敷へ入つて行つた。いよいよ「ここ。」と見定めたので、皆躍り上がつて喜び、「今日こそ恨みの晴らしどころだ。」「少しもせいてはいけない。」「ここは往来が頻繁だから、外の人に怪我をさせてはいけない。」と申し合はせて、本立の出て来るのを待つてゐたが、中々出て来ない。「いつそ、宿屋へ踏み込んで討たうか。」とも言つたが、「それでは病人が気の毒だ。」といふので、あなたこなたに隠れて、何かと内談をしてゐる。近所の町人で、その様子を不審に思ふ者があるので、或る小家に入りまして、「吾々は、ここで待つてゐる人があるんだから。」と言つて、水などを貰ひ、今日の暑さを凌ぎながら、三人とも交はる交はるに、そこにある草花に心を寄せるやうな様子をして、「敵は、やがて萎れる罌粟のやうなものだ。我らは盛りの菖蒲太刀。風に花を散らさう。」といふやうな事を言つてゐる。その考へてゐる事が、おのづから顔に現れるので、そこの亭主も「変だ。」と思つて、この三人に目をつける。そこで、もう少し南の方へよけて待つてゐると、段々日影も西に傾いて、「お八つの知らせ太鼓」といふのは、御堂で打つんでせう。「浮世を盗みたる男」といふのは、何ですか。
木村 「生き過ぎてゐる」と言ふんぢやありませんか。
間 嫁の嫌がる婆さんが、一連に七、八人づつ御法談を聞きに行くのにも、その席を争つて、一足も先に行かうとする。その足元が可笑しい。これらはもう前途が短いので、仏を頼むのも尤もであるが、若盛りの男が、暇なら遊ぶ所もあらうのに、無用の御堂参りをするのは、子細らしくは見えるけれども、何だか本気でないやうに見える。「世は様々のものだ。」と見てゐる内に、大勢に紛れて本立もやつて来た。三人が気をつけて、御讃談半ばに大勢の人を見分けると、仏前も憚らず、柿色の夏頭巾を着た頭が、来迎柱の順に、北の縁側に廻つてよく見届けたが、それは嶋川太兵衛に紛れもない。各々喜んで、客殿に廻り、寺預かりの人に右の事情を話して、騒がないやうに頼んだ。寺預かりの人も、神妙な付け届けに感じたけれども、「仏前での敵討は、容赦して貰ひたい。」と言つた。それは承知したが、「それでは裏門を固めて、門からだけ出入するやうにしたい。」と言ふと、先方もこれは承知しまして、早くも裏門は固めてしまつた。三人は、門前の町へ出て、三方へ手分けをした。兵右衛門は、東の道筋の角に控へた。藤介は北の方の門、九兵衛は南の門について待ち受ける。その有様といふものは、空を飛ぶ鳥でも逃れやうがない。「さあ、今果てると心得べきである。あなかしこ(御法談の終はり)」、山のやうになつて人が帰つて来る中に、本立は編笠をかぶつて出て来た。兵右衛門は駆けつけて、「その方は、嶋川太兵衛と見受けた。伯父の敵、やらぬ。」と声をかけると、本立は、すぐに笠を脱ぎかけ、手早く刀を抜いて切り結んだ。本立は、身軽く見事に働いたけれども、兵右衛門は、天理にかなふ刀を以て、両方早わざの手を尽くして戦ふ。その時に、本立の編笠の緒が首にかかつて、少し働きの邪魔にもなる。けれども、まだ宙を飛ぶやうに甲斐甲斐しく切り合つてゐるところへ、藤介が駆け寄つて切りつけた。これによつて大いに利を得て、畳み掛けて切り立てる。この様子を見て、その辺の町人は驚いて、商売店は戸を閉めて騒いでゐる。九兵衛はそれに注意して、「お騒ぎなさるな。敵討だ。只今首尾よく討ち留めるところを見物し給へ。」と言つたのは、さても落ち着いた男である。その内に、太兵衛を切り伏せて、心静かにとどめを刺して、九兵衛が自分の身体を見ると、深手浅手二十一箇所もある。「さりとては、これまで働き。」兵右衛門は当年二十六歳、血気盛んの時である。藤介は十八歳、前髪盛りの美少年であつたが、薄手の血潮を自ら拭ひ、太刀を杖につきながら腰掛に休んで、三人顔を見合はせ、息をついで礼儀を述べた。「かういふ諸事の詰め開きを見るのも、武士の本意である。」と勇んだので、当人たちも嬉しさ限りがなく、まづ町に入つて養生した。藤介の疵は一箇所、兵右衛門の疵は五箇所であつたが、平癒して何の子細もなく、高野の方へ立つて行きました。
間 「来迎柱のじゆん」といふのは?
三田村 太い柱です。「じゆん」は、今の列です。
(楽堂付記)「来迎柱」――仏堂に於いて、仏像を安置する位置の付近にある円柱。須弥壇の四隅にあり。(中村工学博士著『日本建築辞彙』)
佐藤 「鳴門の浪風もなく」は、兼好の歌がありませう。「世の中を渡り比べて今ぞ知る阿波の鳴門に浪風もなし。」でしたか。「今果つると心得べきものなり。あなかしこ。」といふのは、御文様の文句でせう。
間 「御郡代衆」。
三田村 京都は町奉行のわけです。郡代が来てゐる筈はない。どこで敵を討つかわからないから、そこそこで届けるんでせう。大坂も町奉行です。敵討に出るといふ事については、国元で書付を出してくれるわけだが、これは、又者分だから、阿波で貰へないのです。一体、兵右衛門は会津の家来で、士分なんだから、その方から言へばできるわけだけれども、阿波へ来ては、安留次左衛門の居候で、資格がない。本来は資格があるが、証文は持つてゐないわけだ。そこで、この届をどうしたか。届が出してなければ、一応取り押さへて、町奉行が調べた上、それに相違なければ許される。この場合は、届ができないのだから、敵を討ちおほせて、「何の子細もなく、高野の方へ立ちける。」といつたわけには行かない筈です。実際問題として一応言へば、そんな事になる。
森 「その身を見れば、深手浅手二十一ケ所」といふのは、太兵衛の事でせう。「さりとは、これまで働き。」「敵ながらも、よく働いた。あつぱれな奴だ。」と言つたんだらうと思ひます。
三田村 もしこれで本懐が遂げられなければ、国へは帰れない。浪人でぶらぶらしてしまふ。相手が死んでしまつても、やつぱり帰れない。
木村 「夕暮の風待つ人」は、必ずしも国元から出て来た人とは言ひ切れない。前から居た人かも知れない。
三田村 夕涼みの人ぢやないか。
(楽堂付記)別に、風航を主とする夜船も出るため、それに乗るべく一便後らせたりとならん。
木村 とにかく、一旦船に乗つたが、思ひ返して上がつて来た。一旦乗つたが思ひ返して来るといふのは、よくせき道理にせめられたんでせう。
三田村 自然の道理ですね。仏教の因果応報から言へば、人を討つたんだから、自分も討たれなけれやならない。
佐藤 「浮世を盗みたる男」は、仏心ある人ぢやありませんか。
三田村 「人間五十年」を過ぎた人でせう。
佐藤 「お八つ」は、御讃談の始まる時ですか。
三田村 朝と昼と昼過ぎとあります。
佐藤 「来迎柱のじゆんに」は、順列ですか。
三田村 さうです。柱並ですね。
森 この敵討は、瓦版でもありますか。
三田村 あります。
佐藤 「利の剣」。
木村 門跡様だから、弥陀の利剣を持ち出したんでせう。南の御堂とは、西本願寺の別院で、津村御坊と言ふのがそれです。
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