一 発明は瓢箪より出る
【本文】
近代は、武士の身持ち、心の修めやう、格別に変はれり。
昔は、勇を専らにして、命を軽く、少しの鞘咎めなど言ひつのり、無用の喧嘩を取り結び、その場にて討ち果たし、或いは相手を切り伏せ、首尾よく立ち退くを侍の本意のやうに沙汰せしが、これ、一つと道ならず。子細は、その主人、自然の役に立てぬべきために{*1}、その身相応の知行を与へ置かれしに、この恩は外になし、自分の事に身を捨つるは、天理に背く大悪人。いか程の手柄すればとて、これを高名とは言ひ難し。
御代静かなる江戸詰めの西国大名の家中に、竹嶋氏の何がし、滝津氏の何がし、この両人、一緒に御役、首尾よく勤めて生国に帰る。道中申し合ひて、互に機嫌良く日を重ね、参州岡崎の泊まりの夕暮、水風呂を焚かせ、二人共に入り仕舞ひ、浴衣を着ながら、折節の暑さ。暫し端居して涼み、滝津氏の人、鼻紙食ひ裂きて灸の蓋を拵へ、「慮外ながら、これ一つ腰へ。」と頼む。竹嶋氏、その蓋をしてやる時、少しの疵を見付け、何心もなく、「これ、逃げ疵か。」と言ふ。
いかに心安くても、武士は言ふまじき事なり。滝津氏、これを気に掛けて、「この疵は、先年狩場の働きにて、かくは成りけれども、その証拠なければ是非なし。とかく国元に下り着き、その時分療治致させし{*2}外科を呼びて、一通り申し、その上にて討ち果たせば済む事なり。」と心中を極め、その色見せず。
道を急ぎ、伏見の浜に着きて、番所に断り申し、五十石舟を借り切り、荷物改めさせ、「舟を出せ。」と言ふところへ、六十ばかりの侍、十二、三の美児を連れて、「この舟に乗りたし。」と言ふ。船頭、「貸し切り。」と言へば、残念の顔つきして、かの子が手を引き帰る有様、いかにしても見かねて、「とても先の間は空いてあるなれば、乗せて進じませい。」と言ふ。船頭、酒手と喜び、座を拵へて乗せけるに、又三十ばかりの旅僧、油単包みを提げて、この舟見かけて走り来るを、これも情けにて乗せければ、出家、侍二人共に、数々の御礼を申し尽くし、広き所に自由に仮枕を喜ぶ。
やうやう淀の小橋を過ぎ、水車の夕浪面白く、これを肴にして吸筒取り出し、二人差し請けもせはしければ、後に乗せたる両人も呼び交ぜて、酒事可笑しくなりぬ。かの少人に小謡、出家も座興にはやり節の小歌、ひとしほ慰みとなり、その後、深く灯し火の影にして、なほ汲み交はし、いつとなく大盞になし、滝津氏の人に廻れば、「いかないかな。これではならぬ。」と立ち退かれしに、竹嶋氏、袖を控へ、「又逃げ給ふか。」と言はれければ、この言葉聞き咎め、「最前、岡崎にて逃げ疵と言ひ、今又。堪忍ならず。」と刀引つ提げ立ちかかる。竹嶋、「心得たり。」と傍に置きし刀を取るに、なかりき。
滝津、暫く待ちて、「刀見えぬとは、不思議なり。心静かに尋ね給へ。それまでは相待つ。」と言ふ。色々詮議するに、いよいよ見えぬに極まりければ、竹嶋、覚悟して、「これ、武運の尽き。一分の立たぬところなれば、相手取るまでもなし。」と自害を、まづ差し留め、後に乗りたる侍の申せしは、「この刀のあり所、某の推量、大方は違ふまじ。私の望みに、申すところ聞き入れ給はらば、その刀出させ申すべし。」と言へば、竹嶋は元より、滝津氏も、「御指図は洩れじ。」と誓言にて申しける。
「その刀、これなる出家が盗みたる。」と言へば、気色を変へて、「法師を侮りて言ふや。」と怒る。かの侍、騒がず、「その方が酒半ばに、腰より長緒の付きし瓢箪を取り出し、山椒をつみける。その瓢箪ありや。ないに於いては、おのれ。」と詮議詰められ、切なく{*3}川中に飛び込み、己と自滅致せり。
既にその夜も明けて、舟さし戻し、瀬々見渡し行くに、鵜野の枯れ蘆の中に、小さき瓢箪浮きて、流れもあへず見えけるを、「これぞ。」と取り上げしに、刀の浮けに付けて、酒盛半ばに沈め置きしと見えたり。「人の気の付かぬところを、さりとは面妖の{*4}勘者。」と、かの侍の事を感じける。かの侍、「最前、刀出たらば頼むと申す願ひは、両人の中事。」と、首尾よくして別れける。
【輪講】
間 この頃は、武士の身持ちとか、心の遣ひやうとかいふものが、昔とは格別に変はつてゐる。昔は、勇ある事を専らにして、命を軽んじ、少しの鞘咎めなどを言ひ募つて、無用の喧嘩をする。さうして相手を斬り伏せたりして、首尾よく立ち退くのを本意のやうに考へてゐたが、これ、一つとして士の道でない。大体が、主人が士を抱へるのは、まさかの時の役に立てようがためで、そのために身分相応の知行を与へ置かれたのであるのに、その恩を構はずに、自分一己の事で命を捨てるのは、天理に背く大悪人といふものである。それが、どれ程の手柄をしたからといつて、高名と言ふ事はできない。太平な世の江戸詰めをしてゐる西国大名の家来に、竹嶋某、滝津某といふ二人があつた。二人とも一緒に江戸詰めの御役が終はつたので、故郷の西国へ帰る事になつた。道中も機嫌よく日数を重ねて行く内に、三州岡崎に泊まつた夕暮の事。風呂を立てさせて二人とも入り、丁度暑い時分の事ですから、浴衣を着て縁側に涼んでゐる。滝津といふ人が、鼻紙を裂いて灸の蓋を拵へ、「慮外ながら、これを一つ腰へ貼つて貰ひたい。」と頼んだ。その蓋をした時に、小さい疵を発見したものですから、何の気もなく、「これは逃げ疵か。」と竹嶋が言つた。かういふ事は、いかに心安くても、武士には言ふまじき事である。滝津はこれを気にかけて、「この疵は、先年、狩場で働いた時、かうなつたのだけれども、別にその証拠がないから仕方がない。国元へ下つて、その時療治した外科医者に証明さして、その上で討ち果たせば済む事だ。」かう決心しましたが、そんな事は気振りにも見せない。道中を急いで、伏見の浜まで来た。ここの番所に御断りをして、五十石の舟を借り切りにして、荷物を改めさせて、「舟を出せ。」と言つてゐるところへ、六十ばかりの士が、十二、三の美少年を連れて来て、「この舟に乗りたい。」と言つた。船頭が、「この舟は貸切だ。」と言つたものだから、失望して帰らうとする。その様子がしをしをとして、気の毒でたまらないので、「どうせ先の間は空いてゐるんだから、乗せて上げたらよからう。」と言ふと、船頭は、その客人からも酒手が貰へるので、喜んで席を設けて乗せた。そこへ又、今度は三十ばかりの旅僧が、油単包みを提げて駈けて来て、やはり、「この舟に乗りたい。」と言ふ。これも、情けをかけて乗せる事にした。出家も侍も、大変礼を言つて、広い所へ自由に仮枕のできる事を喜んでゐた。舟はやうやう淀の小橋を過ぎて、例の水車の夕波も面白い。「これを肴に一杯飲まう。」といふ事になつたが、二人だけの差し請けでは、せはしないから、後から乗せた士や出家も呼び交ぜて、一緒に酒盛を始めた。座が賑やかになつて、士の連れてゐた美少年は、小謡を謡ふ。出家も座興に、はやり節の小歌を歌つたりして、一層面白くなつた。夜が更けてからも、灯火の下で、なほ酒を酌み交はしたが、段々盞も大きなのになつて、それが、前に灸の蓋をして貰つた滝津の方へ廻ると、「いや、とてもこれではいけません。」と言つて、立つて向うへ行かうとした。その時、竹嶋が袖を控へて、「又お逃げになるか。」と言つた。この一言を滝津が聞き咎めて、「前には岡崎で『逃げ疵』と言ひ、今又ここでそんな事を言ふ。士に向つて二度までそんな事を言はれては、もう堪忍する事はできない。」と、刀を提げて立ち上がつた。竹嶋の方も、「心得た。」と言つて、側に置いた刀を取らうとすると、それがない。滝津の方では猶予して、「刀が見えないといふのは不思議だ。心静かにお尋ねなさい。刀が出て来るまでは待たう。」と言つたので、それから色々捜したけれども、どうしても見つからない。そこで竹嶋は覚悟して、「刀がなくなつたのは、武運の尽きである。士の一分が立たぬから、私は自害する。」と言ひ出した。それを押し止めて、後から乗つた士が言ふには、「その刀の在り所は、私の推量するところに大方違ひあるまい。もし私の望むところを聞き入れて下さるなら、その刀は出させませう。」と言ふ事だつたので、竹嶋は勿論、滝津も誓言を立てて言つた。「それでは申す。その刀は、この出家が盗んだ。」と言ふと、その坊主は気色を変へて、「自分を坊主だと侮つて、そんな事を言ふのか。」と怒つたが、士は少しも騒がない。「お前は先刻、酒の半ばに瓢箪を出して、山椒をつまんでゐたぢやないか。あの瓢箪があるか。なければ、お前が盗んだに相違ない。」と段々問ひ詰められて、逃れる事ができなくなつたものだから、川の中へ飛び込んで、自分で死んでしまつた。その内に夜も明けたので、舟を戻して瀬々を注意して来ると、鵜野の枯れ蘆の中に、小さい瓢箪がぷかぷか浮いて、流れずにゐる。「これだ。」と言つて、取り上げて見ると、果たして刀があつた。この瓢箪を目印の泛子にして、酒宴半ばに刀につけて沈めたものらしい。「人の気のつかぬところを、よく気がつかれたものだ。」と言つて、二人とも、士の考へ深い事を感じた。さうすると、その士が、「先刻、刀が出たら、私の言ふ事を聞いてくれと頼んだ。それは、ご両人の仲の事である。」と言つたので、二人とも仲を直して、首尾よく別れました。
木村 根付のやうに、緒のついた瓢箪の中へ、山椒の実を入れてゐる。それを出しては、つまんで食べてゐたんでせう。泛子にしたところを見ると、さう大きな瓢箪ではなささうですな。
間 この義理は、どこにあるんですか。
三田村 武士が辱められたら、許す事はできない。それを取り鎮めるのに、義理を以てした。只の仲人でなしに、義理を作つて止めたといふところにあるんでせう。中々よく使つてある。この泥棒坊主を掴み込まないと、この筋にならない。
木村 坊主はすぐ死んでしまつたわけですね。
三田村 舟に居れば、斬られるからね。
木村 この坊主は、護摩の灰みたいなものでせう。舟の出ようとするところへ、「待つてくれ。」と言つて来るなんぞは、今の箱師だな。
間 小さい瓢箪だつたら、刀の重みで沈んでしまやしませんか。
三田村 浮いてゐるだらう。
木村 悪い事をする用意の道具なんだから……かなり小さくても、浮いてゐるでせう。
校訂者註
1:底本は、「立てぬべしために、」。『新編日本古典文学全集69』(2000)に従い改めた。
2:底本は、「いたせし」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
3:底本は、「折なく」。『武家義理物語』(1993)語釈に従い改めた。
4:底本は、「名誉の」。『武家義理物語』(1993)語釈に従い改めた。
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