二 せめては振袖着てなりとも
【本文】
伏見の城山は、桃林に牛馬の捨て置きとはなりぬ。
昔、この所の繁昌、諸国の大名屋敷建ち続きし時、和州の内の城主に召し使はれし室田猪之介と言へるは、その頃の美児にして、形弱々として心ざし強く、さながら女かと疑はれ、秀吉公の御女臈の花か、おちよぼか、この二人の艶なる風俗にも見紛ふ程なり。主人もひとしほ不憫掛かりて、外の前髪よりは、御寝間近う召され、出頭、時を得て、人も羨む仕合せなるに、いかなる者かこれをそねみて、恋に寄せての落書、猪之介身の上の事、顕はに記し、御目通りに張り付け置きしを、横目の役人見付け、善悪、事包まず申し上ぐべき神文なれば、この段、言上申せば、御詮議も遂げられず、一筋に御腹立あそばし、猪之介には何の子細も仰せ渡されず、御国元へ遣はされ、母親に御預けあそばされ、「屋敷は閉門申し付くべし。」と、岡沢三之進と言へる留守居役人に、きつと仰せ付けられ、御意の通りに門を閉ぢ、厳しく番を付け、親類限つて出入り堅く改めける。
猪之介親子、何とも御科の程弁へ難く、切腹すべきやうもなく、是非もなき仕合せにて取り籠りしが、下々は渡り奉公の者なれば、かかる時節を見捨て、身の大事を思ひやりて、一人も残らず立ち退きぬれば、世の憂き時にひとしほ悲しく、朝夕の煙も絶え絶えに、母は子の事痛ましく、手馴れぬ米を炊き給へば、猪之介は見るも悲しく、せめては井の水を釣り上げ、摺鉢の音さへ忍びて、切なき今日を暮らし、明日の事をも命ある故、情けなく日を重ね、夜を数へ、月も覚えず、年も忘れ、軒端の梅を暦に、「さては春にもなりけるか。」と驚き、只うつつに動き、夢に物言ふ心地して過ごしぬ。
今は貯へも尽きて、おのづから限りの身と迫るを覚悟して、親子最期の暇乞ひ、これらは武運の尽きぞかし。「我は女の身、自害の見苦しきも、死後にても人も許すべし。汝は後悔ある身なれば、母より先に死に顔を見るべし。さあ、今ぞ思ひ残すな。」と勇められしに、猪之介、御意に従ひ、そそけし鬢を撫でつけて、随分豊かに畏まり、諸肌脱ぎて、小脇差の鞘抜き放つところへ、人の手飼ひと見えて、まだら犬に紫の首玉入れて、紙袋二つ、左右へ分けて結び付けられ、物言はぬばかり尾を振りて、近く寄りける程に、不思議に思ひ、母、これを開けて見られしに、一つの袋には白米入れて、「命は軽し。」と書き付け、又一つには種々の菓子を入れ、「義は重し。」と書き記して、主は誰とも知らず送られける。
これに親子の人、思案して、「この志に、相果つべきは、いつとても成る事なり。これは定めて、諸親類の誰が憐れみと知られたり。この犬は、見知りもなき。」と、背筋を撫でさすれば、嬉しげに立ち帰る。その行方を見るに、藪畳の破れよりくぐりぬ。その後は、曙、夕暮に、人の気を付けぬ折節、よろづの食物を運ぶ事、早二年にも余りぬ。
光陰矢の如し。弓馬の家すたりて、五年に今少しの程こそ足らね、長々の閉門、退屈して、病気もさし起こり、やみやみとこのままに果てなん事を歎きしに、諸神御恵みにや、殿御心ざしの或る時、猪之介事思し召し出され、御咎め御赦免あそばされしに、「有り難き次第。」と御請けを申し上げ、ついでながら御訴訟申し上ぐる。
「とてもの御事に、只今まで閉門仰せ付けられし御科の段々、仰せ渡され、御許しに預かり申したき」願ひ。大殿、この儀、至極に思し召され、最前の落書、ひそかに遣はされしに、暫く思案を巡らし、かねて不合ひの仲間、豊浦浪之丞、そねみにてあるべき事を詮議仕出し、則ち筆者は、町家に身を隠し、兵法の指南をせし浪人、岩坂金八に極まつて、両人共に切腹、打首に仰せ付けられ、猪之介、長々の難儀、不憫に思し召され、元服仰せ付けられ、二百石の御加増あつて、御判役承り、出頭、昔よりは今ぞかし。世の聞こえ、面目すすぎて、再び国元に帰宅して、一門残らず参会の上にて、犬を通はせられし心ばせの方を尋ねける。この人、更に知れ難し。何とも合点行かず、様々気を尽くしぬ。
或る時、屋形町の末々まで見巡りしに、日頃通ひし犬の居眠りて、さる屋敷の門前に見えける。「これは。」と嬉しく立ち寄り、「いかなる御方の宅ぞ。」と尋ねけるに、岡崎四平と言へる大番頭の人なり。「思へばこの人は、我に執心掛けられし事、御前を勤めし内にも、少しは忘れもやらず。殊更この度の心遣ひ、一命に替へてもこの恩は報じ難し。今でもこの人の身の上、大事の出来ば、神以て我引かじ。」と心底に偽りなし。
その夜、ひそかに人遣はし、四平を手前に申し請け、親子共に涙を結び、嬉しき数々の礼儀を述べ、母は勝手に入らせ給へば、その後はしめやかに語り、まづ以て、犬の通ひの事を尋ねけるに、「殿御国入りの時分は、こなたに憧れ、夜々屋形の裏まで立ち忍び、叶はぬ胸を晴らして帰るに、いつとなくその犬、宿よりつきて、恋の道を弁へける。」と語れば、猪之介赤面して、「是非もなや。姿の花の枝を折られ、今の古木見せけるも口惜しけれど、もは帰らぬ昔なり。心は変はらぬ我なれば、言ふも恥づかしけれど、見捨てさせ給ふな。」と、常の居間に入りて、着古したる脇開け小袖に身を替へ、枕一つに二人の夢を結びぬ。その年は猪之介二十二歳なるに、戯れの余りに「二十一歳。」と、年の程一つ隠されしは、武士には無き事ながら、恋路なれば憎まれず。これぞ衆道の誠なる心ざしぞかし。
【輪講】
森 「伏見の城山は、桃林に牛馬の捨て置きとはなりぬ」。昔、ここが繁昌して、諸大名の屋敷が建ち続いた時分、大和の国の或る城主に召し使はれた、室田猪之介といふ人は、評判の美少年で、形は弱々としてゐるけれども、志は堅い。外貌は女性的で、「秀吉公の御女臈の、花か、おちよぼか。」と見紛ふ位だつたので、城主の殿の不憫が掛かり、外の若衆より御寝間近く召され、出頭人として人も羨む程の仕合せでありましたのに、何者かこれをそねんで、恋に事を寄せた落書をする。猪之介の一身上の事をあからさまに書いて、御目通りに貼り付けて置きました。目付役がそれを見出しましたが、目付役は、「善悪共に、包まず申し上げる。」といふ誓文を、かねがね立ててありますから、この次第を申し上げますと、殿は、御詮議も遂げられず、一随に御立腹になつて、猪之介には、「どういふ子細」といふ事も仰せ渡されずに、「国元へ遣はして、母親に預けて、屋敷は閉門申し付けよ。」と、岡沢三之進といふ留守居役に、きつと仰せ付けられた。そこで、御意の通りに門を閉じて、厳しく番をつけ、只親類だけが出入りを許される。猪之介母子は、どういふわけの御咎めか、理由がわからない。切腹したくてもできない。是非もない仕合せで、閉じ籠つて居りましたが、家に召し使ふ下々の者は、渡り奉公でありますから、閉塞の時節を見捨てて、自分だけを大事なものとして、一人残らず立ち退いてしまつた。それでなくても世の中の憂い時に、召し使ひが居なくなつては、朝晩の煙も上らない。母親は、子供の事を不憫に思つて、下部が居ませんから、手慣れないけれども、自分で米を炊いて飯を焚く。猪之介は、さういふ事を見るのも悲しく、「せめては。」と母親に手伝つて、井戸の水を釣り上げ、味噌を摺つたりするが、それも、擂り鉢の音を立てるさへ、近所隣に遠慮して、そつと摺る。切ない今日を暮らすと、「又、明日はどう暮らすか。」と情けなくなる。一日一日と日を送つて、月が何月か、年が何年か、軒端の梅が咲くのを見て、「春が来た。」と気がつく位の有様である。只ぼんやり動作し、夢中で物言ふやうな心持ちで過ぎてゐたが、今は貯へもなくなつて、「もう命も限りだ。」と覚悟しまして、親子が最期の挨拶をする。武運も尽き果てた事である。母親が言ふには、「私は女の身だから、自害の様が見苦しくつても、人は許してくれるであらう。お前は武士で、みつともない死に方をしては、恥づかしい身だから、私が死に顔を見ませう。さあ、今だ。思ひ残すな。」と諌められたので、猪之介は、切腹しようとして、そそけた鬢を撫でつける。みつともなくないやうに注意して、十分に用意をして諸肌を脱ぎ、小脇差の鞘を抜き放つたところへ、どこかの飼ひ犬と見えて、紫の首玉をした斑犬が、紙袋を二つ左右に結んで、入つて来ました。さうして、物を言はぬばかりに、尾を振つて近寄つて来るので、不思議に思つて、母親がそれを開けて見ると、一つの袋には白米を入れて、「命は軽し。」と書きつけてある。又一つの袋には、色々な菓子が入つてゐて、「義は重し。」と書いてある。一体、誰からこんな物を贈られたのか分かりませんが、親子の者がそれを見て思案して、「死なうと思へば、いつでもできる事である。これは、親類の誰かが哀れんで、恵んでくれるものと見える。それにしてもこの犬は、見覚えがないやうだ。」と犬の背筋を撫でてやると、嬉しさうに帰つて行きます。その行方を見送ると、犬は藪畳の破れから、くぐつて出て行つた。それからといふものは、明け方とか夕暮とか、外の人達の気のつかぬ折節に、色々な食物を運んでくれる事が、既に二年余りにもなりました。月日はずんずん経つて行きまして、今少しで五年にならうとする。室田は、武士の身がすたりものとなつて、そんなに長く閉門してゐる事ですから、病気も起こつて、「おめおめと、このまま終はつてしまふ事か。」と歎いてゐたところ、神々が御恵みになつたものか、或る時、殿様が猪之介の事を思ひ出されて、御咎めを許される事になりました。「誠に有り難い仕合せでございます。」と御請けを申し上げ、「ついでながら、御訴訟を申し上げまする。とてもの事に、只今まで閉門を仰せ付けられた理由を仰せ渡され、その上で御許しが願ひたい。」と申しますと、「その儀は、至極尤も」に思し召され、以前、御目通りに貼つてあつた落書を、そつと遣はされました。猪之介は、暫く考へて、「かねて『不合ひ』――豊浦浪之丞が、嫉んでした事であらう。」といふ事になつて、浪之丞を詮議して調べて見ると、その落書を書いた者は、町家に身を隠して剣術の指南をしてゐる岩坂金八に極まつた。「両人共に切腹、打首(浪之丞が切腹で、金八が打首)」。猪之介は、罪のない事が明らかになり、長々難儀した事を不憫に思はれまして、元服を仰せ付けられ、二百石の御加増があつて、「御判役」。昔に超えて、殿の御覚えがめでたく、再び国元へ帰つて、一門残らず集まりまして、例の犬を通はせて、食物を贈つてくれた人を尋ねましたが、少しもこの人が知れません。何とも判断がつかず、色々心を尽くして、或る時、屋形町の端々まで見巡りますと、毎日通つた犬が、或る屋敷の門前に眠つてゐました。嬉しく思つて立ち寄りまして、「どういふ方の家か。」と尋ねますと、岡崎四平といふ大番頭の人である。「さう言へば、この人は、自分に恋心を持ち、執心をかけられた事は、御前を勤めた内にもよく覚えてゐる。只、殿の寵愛を受けてゐる身であるから、これに応じなかつたのであるが、この度、ああやつて食物を贈つてくれた事は、命に代へてもこの恩返しはできない。今にもこの人の上に大事ができたら、神かけて後へは引くまい。」と決心しました。その晩、内証で人を遣はして、四平を自宅に招き、親子共に涙を流して、嬉しかつた礼を述べた。母親は、気を利かして勝手に入る。その後で、猪之介が第一に犬の事を尋ねますと、四平が言ふには、「殿の御国入りの時分に、あなたを見初めて、それから毎晩、屋形の裏へ忍び、叶はぬ胸の思ひを静めたのに、いつとなく犬が後をついて来て、恋の道を弁へるやうになつたのでござる。」といふ話である。猪之介は、これを聞いて赤面して、「是非もない事である。元服をしてしまつて、もう以前の姿ではない。古木のやうな姿を御目にかけるのは残念ですが、姿の方は、もはや返らぬ昔である。心の方は、以前に変はりませんから、御恥づかしいが、御見捨て下さるな。」と言つて、常の居間に入りまして、着古した脇開け小袖に着替へて、契りを交はしました。猪之介は、その時二十二歳だつたのですが、戯れの余りに「二十一歳。」と、年を一つ隠して告げた。これは、武士には無い事であるけれども、恋路であるから、かへつて憎まれない。年まで隠して喜ばれようとしたのも、衆道の誠なる志であらう、といふやうな事でせう。
野々村 閉門中には、禄なんていふものは、支給されませんか。
三田村 来る筈です。これは、扶持をとめたので、まだ御若衆ですから、禄のない人なんでせう。けれども、さういふ場合は、預かつた御留守居が世話をしなければならんので、これは少し可笑しい。
野々村 小説だから、穿鑿はどうでもいいかも知れませんが、これを普通と思ふと間違ひますな。
三田村 さうです。「横目」は、幕府にない。諸藩にはある。
野々村 私の藩には、小藩だつたから、御目付だけしかありませんでしたが、大藩には、いづれ色々あつたのでせう。つまり、横目付は、御目付の助役みたいな事になつてゐるのではないでせうか。
三田村 小人目付、徒士目付、そんなところに相当するんでせう。「御判役」も、幕府にないが、諸藩にはありましたが。
野々村 請け合ひはできませんが、かうぢやないかと思ふのです。元来、書判は、本人が自分で書いたものです。これは、確かです。それが、後に判になつて、墨を埋めたもののやうです。そこで、それをやる役目ができてゐたものぢやありませんかな。
三田村 殿様の御判ですな。
山崎 秘書みたいなものだ。
木村 最も信任されてゐるわけでせう。
三田村 「大番頭」は、幕府には役がある。大坂、京都の番を勤めるのです。
野々村 あれは、ある所とない所とありますな。幕府のは、大分いい役だ。千石以上でせう。
三田村 布衣以上です。
野々村 今なら勅任官ですな。
三田村 ここにある「大番頭」も、いい身柄の役人に違ひない。
野々村 「留守居役人」。これは、江戸では外交官、大坂では財務官兼外交官ですが、これは、さうぢやないでせうな。
三田村 諸侯のは知りませんが、幕府のは、大分閑職です。これは、国元の話でせう。
野々村 留守を預かる位の意味ですかな。
三田村 諸侯とすれば、参観の御留守居がある。
森 「兵法の指南」は、撃剣でせうな。
三田村 さうでせう。
野々村 柔術は入りますまいな。あれは、御徒士以下が、専らやつたやうですが…。
三田村 切腹と打首では、大変違ふ。切腹までが、士の待遇なのです。
野々村 これは、浪人の方が罪が重いんぢやありませんか。
木村 やはり、士の扱ひにしない方でせう。
三田村 「御訴訟」は、「願ひ上ぐる」程の事です。町奉行などでも、訴へるだけが訴訟なので、それが受理されると「公事」になるのです。「かなはぬ胸晴らして帰る」は、家の周りをうそうそ歩いて帰るんだね。
木村 それだけでも、気が晴れるんでせう。
三田村 「姿の花の枝を折られ」は、御説の通り、元服をしてしまつた事だが、「もは」といふのは?
山崎 「もはや」といふ意味です。東北地方では、今でも言ふ。
(佐藤追記)「もは」の例。好色二代男一ノ四に「太夫、出行く袖を控へ、もは別れでござるか。」
森 衆道の方は、十七、八位までですか。
山崎 十七位まででせう。十八ぢやあ、もう遅い。…この「一つ年を隠した」ところは、いいな。
三田村 恋愛を、一層義理で行くんだよ、といふところだ。
森 「おちよぼ」は、給女の事を、かう言ひませんか。
山崎 現在では普通名詞になつてゐるが、元来「おちよぼ」は、小さい意味でせう。だから、これも普通名詞を固有名詞に使つたのかも知れない。
(銑三付記)「おちよぼ」といふ名前の事、「上臈名之事」といふ写本に、「…一、御いと、御ちよぼ、御あね」などとあり。室町時代には、かやうの名、行はれしと見ゆ。
山崎 和州に、大きい殿様がありましたか。
野々村 郡山が、後には十五万石ですがね。その外は皆、小藩です。
山崎 とにかく、十万石以上の大名でないと、こんな事で二百石の御加増はできますまい。
木村 さうですな。五年の閉門の代はりに、二百石は出せない。
野々村 閉門の時は、門に青竹を打ち違ひにして、外の口から出入りするんですな。俗に「青竹の閉門」と言つてゐました。
三田村 この猪之介は、扶持だけの人ぢやありませんか。
木村 さうすると、御加増の方が大きいわけですな。
三田村 扶持には随分高いのがあります。百人扶持位まである。一人五合として、一日五石、一箇月百五十石になるから、大変なものです。
森 「命は軽し」「義は重し」。これは、例の「命は鴻毛より軽く、義は山嶽より重し」といふわけでせうが、古くは何にありますか。
柴田 「文選」に、次のやうな事があります。「但命軽鴻毛。責重山岳。」(任彦升)。
森 挿画で見ると、衆道の方も、やはり祝言みたいな事をやるらしいですな。
三田村 盃を取り交はすんでせう。若衆が前髪を落とすと、念約した人の所へ届けてやるもののやうです。
(楽堂追記)「ふあひ」――「不合」なり。不和の義。
(佐藤追記)「親類限つて」といふ言ひ方は、「親類だけ」出入りを許すではなく、「親類をも制限して」出入りを許さぬと下へ続くではないでせうか。近松の「天網島」上巻で、孫右衛門の詞、「女房限つてこの文見せず」といふのも、「女房にもこの文は見せない」意でせう。
(鳶魚副書)伏見の城山、今日は桃山と言ふ。太閤の建造物は、慶長五年、破毀してしまつた。貞享の度までも、桃山といふ地名はない。桃林になつたのは、いづれにも、慶長五年堕城後の事でなければなりません。林若樹氏からかつて、「桃山時代」といふ称呼の不当を詳しく聞いたが、今、思ひ当たつた。それから、「桃林に牛馬の捨て置き」といふのは、周本紀の、「縦馬於華山之陽、放牛於桃林之虚、偃干戈振兵釈旅、示天下不復用也。」とある。武王が殷に勝つて、天下太平になつた景象を利かせたらしい。「渡り奉公」。家についた下人は「譜代」と言ふ。一季、半季の雇ひ人は、次々に主人を替へて奉公する。これが「渡り奉公」。「ふあひの中間」は、「不合」で、「仲の悪い同僚」。
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