三 恨みの数読む永楽通宝
【本文】
「寅の年には必ず洪水。」と語り伝へり。
昔、駿河の国安部川の渡り絶えて、十日の雨宿りして、旅人の難儀せし事あり。その頃は、諸国の大名屋形建ち続きて、商売人は掴み取りありて、その時代、小判乏しからず、渡世をなしける。
ここに北国の城主の中屋敷、遥か府中を離れ、遥か西の方の野末にありしが、ここには一年替はりの国衆の長屋住まひ、千塚太郎右衛門と言へる方へ、雲馬茂介と言ふ人、降り続く五月雨の淋しさに頼りて、世の話も重なる雲間の{*1}入り日の影、わづかに木枯しの森移ろひ、「今日こそ気も晴れける。」と、遠山久しぶりにて眺め、「唐傘干せ。庭の溜り水替へ出せ。」など小者に申し付けしに、この水、竹縁の下に細く流れ込み、千丈の堤、蟻穴より崩るが如く、見し内に滅入りて、柱も歪み、壁も毀れ、「これは不思議の事ぞ。」と、この土中、心もとなく、鋤、鍬早め、上土のければ、死人、形も崩れず見えける。
二人、懇ろに見届け、「これは、年古りたる死骨にあらず。およそ四、五年の埋みものなり。いかさま子細あるべし。」と、まづ両人、心を合はせ内談して、「とかく御役人衆まで申し入るべし。折節参り合はされ、見え渡りたる通り、証人。」と申せば、茂介聞き届け、「いかにも一緒に上屋敷へ参るべし。私宅に帰れば時節移れば、いざ、これより同道申すべし。」と連れ立ち、御門に出れば、役人、錠締めける。
両人、断りを申し、「私の用ならず。老中まで申し上ぐる事ぞ。」と言へば、「何事にも致せ、今晩、御門は開け難し。各々は、初めてこの御屋敷入り。殊にこの程、御国より御越しなれば、かやうに厳しく仕る子細を御存知あるまじ。去々年の十二月二十三日に、銭売り、御門は入りしが、その後出ざれば、色々御詮議あそばしけるに、そのあり所知れ難し。親類これを御歎き申し上げ、世の取り沙汰もよろしからず。不憫や、縦縞の布子着て、毎日その男を見しに、金商人ゆゑ殺されけるや。その以後、かく改め申す。」と語れば、「いかにもいかにも、その儀ならば、明日の事に。」と又両人、長屋に立ち帰り、かの死人を見るに、縦縞の着物。これ、疑ひなし。
さて、その年、この長屋に住みける人を穿鑿すれば、谷淵長六とて、家中広き傍輩にも、別して両人語り合ひ、殊更、太郎右衛門とは縁類なれば、この事ひとしほ迷惑して、一思案の顔色。茂介、見届け、「この段は、御自分と拙者が心にて済む事。」と申せば、太郎右衛門、満足して、「然らば隠密に仕る。」と、下々の口を閉ぢ、茂介は夜更けて我が宿に帰りぬ。
その夜も明けて、五つ時分に、御上屋敷より横目衆参られ、「この前知れざりし銭売りの御穿鑿あるべき御事。」と、ひそかに沙汰ありしを、太郎右衛門聞き付け、そのまま茂介宅に駆け入り、「夜前申し合はせし甲斐もなく、さりとは卑怯なる心底。かくあるべき事にはあらず。全くそこを立たせじ。」と言ふ。茂介、騒がず、「この段に言ひ訳にはあらず。神以て某、他言申せしにはあらず。されども外より申すべき人なし。これ程分別にあたはざる事なし。是非もなき仕合せ。いざ、時刻移さじ。」と、茂介二十七歳、太郎右衛門二十三。互に声掛けて、相討ちにして、首尾残る所なく、浮世の限りを見せける。この事又、下々に御詮議あり。右の次第、委細に知れける。
この段、茂介申せしにはあらず。御上屋敷の小玄関へ男一人現れ、「私事、去々年絞め殺しにあへる銭屋なりしが、今宵、体を掘り出されて、嬉しや。十三両の小判を御取り返して。」と言ふかと聞きしが、忽ち見えずなりにき。これよりの御詮議なり。「さては、その銭売りが亡霊なるべし。」と、これ沙汰になりぬ。この事、国元に聞こえ、谷淵長六が下々の仕業には極まれども、太郎右衛門、茂介両人が心底を聞きて、その身も逃れず。今年二十五才の夏の夜の夢物語とはなりける。
【輪講】
木村 「寅の年には必ず洪水がある。」と、昔から言ひ伝へがあります。昔、駿河国安倍川に洪水が出まして、そこの渡りが絶えて、大変難儀した事があつた。その頃は、駿府に諸国の大名屋敷が建ち続いて、商売人は何でもかでも儲かつた時代でありましたので、小判も今のやうに少なくはなかつた。その中にも、北国の或る城主の中屋敷が、駿府の町を離れた、遥か西の方の端にありましたが、そこには、一年交代で国主の長屋へ住まふ事になつてゐる、千塚太郎右衛門と言ふ人があつた。その家へ、雲馬茂介と言ふ人が、この頃、五月雨の降り続く淋しさに、退屈凌ぎにやつて来て、話をして居りましたが、丁度雨が晴れて、雲間に入り日の影が見えて来た。久しぶりで晴れたものですから、見渡す木枯しの森に夕日が映つて、誠にさつぱりしてゐる。遠方の山も久しぶりで眺められる。主人は小者に言ひ付けて、「唐傘を干せ。」とか、「庭の溜り水を替へ出せ。」とか言つてゐる。さうすると、庭に溜つてゐた水が、竹縁の下へ細く流れ込みまして、そこには僅かな穴が開いて居りましたが、譬へにも、「千丈の堤も蟻の穴から崩れる。」といふやつで、見る見る内に柱が歪み、壁が崩れかかる。「これは不思議な事だ。」と思つて、その穴の所を、急に鋤鍬で土を除けて見ますと、掘り下げた中から、死人が形も崩れずに出て来た。そこで、この二人が注意して見届けたところが、余り古い死骸ぢやない。四、五年位のものらしい。「いかさま、これには訳があるだらう。」と言ふので、二人が心を合はせて内々相談した。「とにかく、御役人衆まで申し上げよう。丁度あなたもここへ来合はせられた事だから、証人になつて貰ひたい。」と言ふと、茂介も承知しまして、「一緒に上屋敷へ参らう。自分の家へ帰つたりしてゐては、時間が経つから、さあ、これからすぐ同道して参りませう。」と言ふので、連れ立つて出かけた。ところが、丁度上屋敷の門の所まで来ると、役人が錠を締めて通さない。二人は、訳を話して、「私の用ではない。或る事件で、老中まで申し上げたいのだ。」と言つたけれども、門番が言ふ事を聞かない。「今晩は、どうしても門を開ける事はできない。あなた方は、初めて御国から来られたので、この屋敷で門をやかましく言ふ子細は御存知あるまいが、実は、一昨年の十二月二十三日に、銭売りが御門を入つたきり出て来ない。いろいろ詮議穿鑿したけれども、そのありかが知れない。銭売りの親類は、これを御訴訟申し上げ、とかく世の中の評判がよろしくない。誠に可哀さうな事で、縦縞の布子を着たその男の姿を毎日見たのに、金商人のために、殺されたのであらうか。それ以来かうやつて、厳重に人を入れぬ事に改めたのである。」と話しました。訴へに参りました二人は、「さやうな事ならば、明日の事に致しませう。」と言つて、長屋へ帰りまして、例の死人を見ると、縦縞の着物を着て居りますから、殺された銭売りに疑ひない。さて、自分の前に、その年頃住んでゐた人は…。
山崎 「その年に」でせう。
木村 「自分の前に居つた人は誰か。」と調べて見ると、それは谷淵長六と言ふ者で、広い御家中でも、二人が特別に懇意な間柄である。殊に、太郎右衛門とは縁続きになつてゐますから、うつかりした事は言へない。
山崎 「別して両人語り合ひ」は、長六と太郎右衛門との間柄でせう。茂介は無関係なので…。
木村 又一思案する顔色を茂介が見届けて、「これは、あなたと私の心だけで済む事だから。」と言ふので、太郎右衛門も満足して、「それでは秘密にして置かう。」と、下々の者にも口止めをしまして、茂介は夜更けて、自宅へ帰つて来た。その夜も明けまして、午前四時頃になりますと、御上屋敷から横目衆が見えられて、「この前知れなかつた銭売りの御調べがある。」と、ひそかに御沙汰があつたのを、太郎右衛門が聞きつけて、そのまま茂介の所へ駆け込んで、「夜前、あれ程申し合はせたのに、何といふ心底であるか。かういふつもりではなかつた。その場を去らず、斬つて捨てる。」と言つた。茂介は騒がず、悠然として、「これは、言ひ訳ではないが、神かけて自分が他言したのではない。けれども、自分より外に口外すべき人はないのだから、どうして御上に知れたものか、全く考へがつかないが、私が言つたと思はれても仕方がない。さあ、すぐ立ち合はう。」と言ふので、茂介は二十七歳、太郎右衛門は二十三歳、互に声をかけて、相討ちになつて、両方空しくなつてしまひました。この事も又、下々に御穿鑿がありまして、右の次第がすつかりわかつた。銭売りの事がどうして知れたかと言ふと、それは、茂介が話したわけではない。御上屋敷の小玄関(内玄関)に、一人の男が現れて言ふには、「私は、一昨年の暮に絞め殺された銭屋でございますが、今夜、図らず掘り出されて、十三両といふ小判を御取り返し下されて。」と言つたかと思ふと、忽ち姿が見えなくなつてしまつた。それからの詮議なのですから、「さては、その銭売りの亡霊が現れたのであらう。」と言つて、評判になつた。その委細が国元に聞こえまして、「谷淵長六の奉公人の仕業。」といふ事に決まりましたが、太郎右衛門、茂介の両人が、自分を庇つてくれた心底を聞くと、「それでは自分の義理が立たない。おめおめ罪を逃れようとするのは、卑怯の至りだ。」といふので、二十五歳を一期として、切腹でもしたんでせう。これが、その土地でも一つ話になつた。――駿府の大名屋敷は、家康公が駿府に居られた時にも、方々の屋敷が府中にあつたやうです。私は一つしか知りませんが、津軽家では、永禄何年かに屋敷を建てたといふ事です。それから、慶長の寅年は七年です。「寅の年には必ず洪水。」こんな事を言ひますか。
三田村 さうと見えますね。
木村 これは、「銭売り」を言ひたいために、「恨みの数読む永楽通宝」と言つたんですな。この時分はまだ、寛永通宝ができてゐないから…。
野々村 大御所時代の話ですな。
三田村 金商人を、ここに「銭売り」と言つてゐるが、これは、その後にはない。ここにあるのが珍しい位です。
野々村 余り聞きませんな。
山崎 「烏帽子折」の謡に出て来るが…。
三田村 「全くそこを立たせじ。」「そこ動くな。」といふやつだ。すぐに成敗する。約束違ひした者だけを斬つて、平気で居ない。自分も死んでしまふ。これが義理です。その義理から、自分の下々の者がやつた事なんだけれど、自分も腹を切つてしまふ。
野々村 大分、この銭売りは、迷惑をかけてゐますな。
三田村 義理堅い武士を三人も殺してゐるんだから、大変な事です。
木村 銭売りが、天正時分にありましたらうか。
(鳶魚副書)「銭売り」「金商人」「銭屋」と三様に書いてありますが、同じものなのです。一体、この話がいつの頃の事なのだか、甚だ曖昧に書いてあるけれども、寛永度の話らしい。金商人は、「金売り吉次」によつて知られてゐるが、三井高維氏が言ふ、「元来、『両替』といふ文字の意義は、伝ふるところによれば、太閤の頃、色々の金を秤量して買ひ集めて、銀に取り替へるために、黒き石、即ち試金石に金を摺り付けて、その色を鑑別する事を『南鐐替』と名付けた事から、『両替』といふ唱へ方が始まつたもののやうである…。換言すれば、貨幣の『両目替へ(量目替へ)』の事であらうと考へられる。」金商人も、時代によつて模様が違つて来る。吉次など、金と銀との交換を主としたのではあるまい。銭売りとなると、貨幣と貨幣との交換ではあつても、銅貨と金銀貨との交換である。所謂「両替屋」の外になる。この銭売りは、「承応度に、室町、通町辺に数百人居た。」と言ふ。江戸ではさうであるが、他国では何とあらうか。
校訂者註
1:底本は、「雲間(くもま)に入日」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
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