一 大工が拾ふ曙のかね
【本文】
石田治部少輔、世盛りに花園と言へる艶女を都より招き寄せ、「寝間の友。」と定めて不憫を掛けさせられし内に、籠城近づきぬれば、身の果つべき事をいたはらせ給ひ、何となく京の親元へ送り返させ給へり。その後、「主君、討死あそばしける。」と世の沙汰を聞きながら、元町人の娘なれば、御跡を慕ひて命を捨てもやらず、身を墨衣に{*1}なして、その御方弔ふべき心ざしを極めしに、これも母の親歎きて、無理に世を立てさせける。
父の仕馴れし商売、わづかなる米屋を一条堀川のほとりにて、親子諸共に今日を暮らし、末々はいかなる人にても、入縁を取るべき願ひなるに、世間のさがなく、この宿を「治部米屋。」と言ひける程に、家主、聞くを憚りて、この宿を替へさせける。その先も又、聞き伝へて追ひ出し、広き都に身を狭めて、早二十五所替はりて、さりとは難儀に遭ひぬ。
せん方なく、伏見の片蔭に草葺を才覚して、その所を又人に知らるるうたてく、京街道を朝疾く諸道具を運ばせけるに、高家にありし時、下し賜はりし金銀、大分貯へしを、荷物の数々に分け入れ置きしに、銀三貫目、寝道具の内へ人知れず置きけるに、雇ひ人、肩を揃へて道を急ぎしに、松原通り因幡薬師の前にて暫く休みしが、この銀、夜着の袖より抜け落ちて、堀のはたにあるとも知らず、皆々伏見に行きける。
その朝、大宮の九左衛門とて家大工ありしが、この男、昔は筑後にて歴々の武士なりけるが、義理に詰まりて浪人して、思ひの外なる職人と、身は習はしにて渡世は賢く、今朝の初霜厭はず、上京長者町へ毎日通ひしに、自然とこの銀を拾ひ、ひそかに宿に帰り、我が女房に初めを語り、「これ、仕合せの天理なり。親類限つて、この沙汰する事なかれ。」とよくよく言ひ含めて、その身は常に変はらず細工所に行きぬ。
その後にて女、連れ合ひを疑ひ出し、「大分の銀、落としあるべき子細なし。いかなる難儀に遭ふべきも定め難し。我が身の外、一門の迷惑。」と女心のはかなく、この事を家主に内証語れば、その女の言ふ事なれば、驚く理ぞかし。宿老に通じて一町の沙汰となり、「九左衛門隠し置くところ、曲者なり。とかく我々の愚痴には及び難し。近道に御公儀へ申し上ぐる。」に極め、九左衛門に詮議をするに、幾度も変はらず、「拾うたる」由申せば、いよいよ後日を恐れ、この段、言上申せば、七口に高札立てさせられ、「この落とし手出ぬ時は、九左衛門に詮議あり。それまでは、一町へ御預け」なされける。
その二、三日過ぎて、治部米屋の親子、御訴訟に罷り出、落としたる袋の中の品々を申し上げ、「この銀主出ざれば、拾ひ手迷惑致さるるの由。この難助けたき願ひに申し上ぐる。その銀は、一度落とし候物なれば、拾はれたる人に取らせ申したき」望み。「前代なき事。」と、女気に欲の離れ、感ぜさせられ、初めをたんだへさせ給ひ、「さすが、石田の家に召し使はれし程こそあれ。」と御褒美あそばし、その後、かの九左衛門召し寄せられ、「まづ、銀主出て、その方が仕合せなり。もし又、知れざる時は、思ひ寄らざる難に遭ふべし。元、この危ふき事は、その方が女房、身の上ばかり思ひ、夫婦よしみ、かつて無し。この上にも以前の如く連れ添ふか。」と御尋ねありし時、九左衛門、この御意有り難く、涙にくれて、「かかる不心中の女、何とて末々、頼み難し。御前よりすぐに、暇取らす」由、申し上ぐる。「さもこそあるべけれ。夫の身の上を歎かざる悪人に極まる者なり。」又、治部米屋の母親に仰せ出されしは、「その方ども、女ばかりにて流浪をするなれば、あの九左衛門を婿として、これに万事を頼むべし。拾ひし三貫目は、則ち敷銀なるべし。」と御意。親子共に御請けを申せば、一町の衆中、これを取り持ち、大工は米屋に替はつた入り婿。互に昔を語れば、女は武士の家育ち、男は武士に紛れなく、さもしき心ざしなくて、この母に孝を尽くし、家栄えて住みけるとなり。
【輪講】
野々村 石田治部少輔の盛んな時分に、花園といふ美人を都から呼び寄せて、寝間の伽をさせ、可愛がつて居られる内に、関ヶ原の戦争が起こつて、籠城をしなければならなくなつた。どうせ果つべき身であるから、それとなく京の親元へ帰してしまつた。その後、「三成が討死した。」といふ評判を聞いたけれども、元町人の娘であるから、もちろん殉死をするやうな事もせず、「尼になつて主人の跡を弔はう。」といふ志を決めて居つたが、これも母親が歎くものですから、無理に世を捨てずに、身過ぎをして行くやうになつた。父親の長年仕馴れた商売といふのは米屋で、それを一条堀川のほとりで始めて、母子二人で暮らして居つた。「いづれは、然るべき人に縁組でもしよう。」といふ考へを持つてゐたところが、世間は口さがなく、その家の事を「治部米屋。」といふ評判をしたので、家主も、これは少し困るわけですから、外聞を憚つて、家を出て貰つた。その先の家も同様な事で、広い都を狭く住むやうになつて、引越をする事二十五回。さりとは難儀な目にあつた事である。仕方がないので、伏見の片蔭に草葺家を才覚したが、又そこに住む事を知られるのが嫌なので、京街道を朝早く諸道具を運ばせたところが、高家に仕へてゐた時頂戴した金銀を大分持つてゐる。それを色々な荷物の中に入れて置いたが、銀三貫目をひそかに寝道具の中に入れて置いたのを、雇ひ人が肩を揃へて道を急ぎ、松原通り因幡薬師の前で休んだ。その時に、夜着の袖からその銀が堀端に落ちてしまつた。皆それを知らずに、そのまま伏見へ行つた。然るにその朝、大宮の九左衛門といふ大工――この男は元、筑後で歴々の武士だつたのが、義理に詰まつて浪人して、思ひがけない職人に身を落として、しかも渡世は賢くやつて居つた。その朝の初霜も厭はず、毎日通ふ上京の長者町へ行くところだつたのですが、自然、その銀を拾つて、宿へ帰つた。さうして女房にこの始末を話して、「これは、授かつた仕合せであるから、親類以外に沙汰をしてはいけない。」と言つて、自分は相変はらず仕事に出て行つた。ところがその後で、女房が夫を疑ひ出した。「三貫目といふ大きな銀が、道に落ちてゐる筈はない。かうやつて置いては、どんな難儀に遭ふかもわからない。さうすると、自分ばかりではない、一門の迷惑にもなる。」といふので、とりとめもない女心から、それを家主に密告した。女房がさう言ふのですから、家主が聞いてびつくりしたのは尤もである。宿老を通じて、それが町内の評判になり、「九左衛門がそれを隠して置いたのは、曲者である。吾々のやうな愚かな者には、始末ができないから、一つ近道に、公儀へ申し出よう。」といふ事になつた。九左衛門は、何度調べても、「拾つたに相違ない。」と言ふ。いよいよ後日の祟りを恐れて、訴へ出る。京都の入り口七箇所へ高札を立てて、「どうしても落とし手が出なければ、九左衛門を詮議する。それまでは町内御預け。」といふ事になつた。二、三日経つと、例の治部米屋の母子が、御訴訟に出た。落とした袋の中の品物を申し上げて、「この銀主が出ないと、拾つた人が迷惑されるといふ事であるから、この難を助けたい願ひから申し上げます。しかしその銀は、一遍落とした物ですから、拾つた方に差し上げたい。」と言ふ。前代未聞の話である。「女気としては、極めて無欲な話だ。」と大いに感心して、どういふ身分の者かといふ事を考へ調べた。「さすがに石田の家に仕へた者だけある。」と御褒美があつて、それから九左衛門を呼び出された。「銀主が出たのは、その方の仕合せである。もし知れなかつたら、思ひがけない難に遭つたであらう。それにつけても、この危険な事は、元、その方の女房が、自分の事ばかり考へて、夫婦の情愛のない事から起こつてゐる。今後も以前通り連れ添ふつもりか。」と尋ねられた。九左衛門は、その御意を有り難く、感涙に咽んで、「かういふ情けなしは、末々も頼み難い。御前よりすぐに暇を取らす決心でございます。」と言ふと、役人の方では、「さもあるべき事である。夫の身の上を考へない女房といふものは、悪人に極まつてゐる。」と九左衛門に言はれた。又、治部米屋の母親に対しては、「その方どもは、女ばかりで流浪するのであるから、あの九左衛門を婿にして、万事頼むやうにしたらよからう。拾つた三貫目の銀は、婿引出といつたやうな銀にしたらよからう。」と言はれた。その御意を親子共に御請けをして、一町の衆中が、これを取り持つた。大工が米屋へ入り婿をするのは、変はつた話であるが、お互に昔を語れば、女は武士の家育ち、男は正真正銘の武士ですから、けちな根性が無く、母親に孝を尽くし、家が栄えて住んだといふ事である。――「七口」といふのは、どこか分かりません。
三田村 五條口、三條口、今出川口、出雲路口、蓮台野口、七條口、東寺口です。「町人」と書いてマチニンと読ませてあります。マチニンは、仮名草子の語で、天和、貞享の言葉ではないが、西鶴は、話の時代によつて、相応な古い言葉を遣ふだけの用意があつた。勿論、この語に限つた事ではない。その例は多いと思ひます。
野々村 「夜着の袖から銀が落ちた」といふと、袖があつたやうです。今、京阪では、余り袖のあるやつは着ません。布団の方が多いやうです。
山崎 夜着といへば、袖がありませう。布団は角なのを言ひます。私の国(和歌山)でも、昨今はごちやごちやになつてますが、元は、夜着と布団の区別がちやんとついてゐました。
三田村 東京では「夜具」ですな。「夜具布団」と言ふ。
野々村 夜着は、士がよく使つたもののやうですな。
三田村 初めはさうだつたんでせう。
(鳶魚副書)「三河後風土記」の、「『三成、風気なれば、御許し有るべし。』とて、広袖の大夜着に着し、綿帽子をも取らず。」といふのは、慶長三年の記事だから、三成の妾が夜着を持つてゐるのも、不審はないが、夜具が一般に使用されたものでないのは明白だ。いづれにも、大変贅沢な品として見られたに違ひない。
野々村 これは士分だから、丁度いいわけですな。
山崎 この話は、今日の倫理観から言ふと、大分違ひますな。この話では、拾つたのが権利らしいが、今日だと、女房の届出の方が正しく、亭主の態度は個人の人格に関するものとされる。
野々村 盗んだと疑つたからでせう。
三田村 今日でも拾得は罪になる。その点は同じ事です。
山崎 しかし今日は、社会公徳に重きを置くんぢやありませんか。
三田村 同心一体から言ふと、これは面白くない。
野々村 亭主に勧めて届けさせればいいんですか。
森 この頃は、拾得物の規則がないんでせう。
山崎 今日だと、所有者の権利を認めてゐるから、大分わけが違ふ。
森 落とした時に、所有権が離れるんですな。
野々村 「たんだへさせ給ひ」。これは、「土蜘蛛」の謡に、「この血をたんだへ、化生の者を退治仕うずるにて候。」とあります。
(鳶魚副書)「たんだへ」は、「俚言集覧」に、「尋ぬるを言ふ。尋ねるの転語なるべし。」とある。それでいいと思ひます。「世を立てさせる」の「立てる」は、「後家を立てる」の「立てる」と同じで、出家せずに渡世して行くのです。「京街道」は、ここでは「大路」「往還」の心持ちで良いと思ひます。「高家」は、「大名高家」と言ひ続ける。「大名」は、領土の多い方から、「高家」は、族性の貴い方から言ふのだが、この区別はつけずに、「著名な家」といふやうな心持ちに遣つたやうだ。徳川氏にあつて、高家は高家、大名は大名と、判然と復旧した。「家大工」は、「宮大工」と言ひ分けた言葉で、それはすぐに、工事の大小を意味する。名古屋の伊藤平左衛門などが宮大工の名残で、寺社の大工事ばかりを引き受ける。大々棟梁だ。家大工は家作だけ。だから、小さな大工。後の言葉にすると、棟梁と叩き大工との違ひだと思ふ。今日は、「家大工」といふ言葉は全く言はれないから、ちよつと分かりにくいかも知れない。「家主」も、江戸の大家さんではないやうだ。唱へは同じでも、町法が違つてゐる。「宿老」といふのは、江戸なら「名主」だ。この御裁き、西鶴作とされてゐる「本朝桜陰比事」にもあるが、一体、江戸時代には「判決」とは言はない。「裁許」と言ふ。その時、その事件の是非曲直を裁くだけでなく、葛藤を残さないやうに取り極める行き方なのだから、元文以前の裁判は、後々のとは違つてゐます。江戸の法制を考へる時に、この変革は甚だ大切なのです。本文の御裁きも、訴へない事柄にも及んで、遂に裁判官が取り持つて、夫婦を拵へてゐるのは、よく「裁許」の意味に叶つた事なのです。元文以後のは、訴へただけ、取り上げただけを裁く。全く「裁許」の意味を失ひ切つてもゐませんけれども、それでも差し当たつた方が主になり、まして物質上の利害得喪が専らになつてゐます。「古いところの裁判は、法が不備であるから、御奉行様が勝手に裁いた。」と思つては、違ひます。それには一定の規模があつたのです。この意味を差し措いては、本文も読めますまい。「桜陰比事」も扱へまいと思ひますが、いかがなものでせう。
校訂者註
1:底本は、「墨(すみ)ころもにもなして。」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
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