三 人の言葉の末見たがよい

【本文】

 物には類の集まる道理あり。
 昔、讃州の城主に仕へて細田梅丸とて、南枝若衆の美花。物腰は、初音鳥も奪はれ、ちうの声も出ず。誠に梅の風、大袖に洩れて、行き違へるさへ、人に魂なかりき。さるによつて、主君、殊更の御寵愛深く、春にはあヘど、この梅の匂ひ利く事もならず。見る事、猶絶えたり。されども、人に盛りの限りあつて、片手の指を四度折れる年の名残に、元服仰せ付けられ、前髪の跡を見しに、美男、京細工の物言はざる業平に同じ。
 又、岡尾新六と言へる人の娘に小吟とて、十四歳に成れり。いかなる生まれ替はりにや、かくも又、美形なる女の世にある事ぞかし。いにしへの美人揃へは、見ぬ世の伝へ。よもや、これ程あるべからず。一つ一つ言ふに足らず、いづれか身の内に毛頭不足はなかりき。この男女を、牛若丸、浄瑠璃御前の如く世上より言ひなして、「夫婦の語らひせし。」と取り沙汰致しぬ。娘の年も縁付き頃なれば、あなたこなたより言ひ入れけるは、麗しき姿なる徳ぞかし。
 この息女、見もせぬ梅丸思ひ焦がれ、「男を持たば、この人ぞ。」と一筋に極めて、外への縁組、中々親たる人の心を背き、何ともこれにあぐみて、この事、うち捨て置かれぬ。又、梅丸も、小吟を見ぬ恋して、外よりの縁は取りあへず、年月過ぎしを、或る人聞き付け、「これは、似合ひたる事。」と取り持ち、娘の親、岡尾新六に内証申せば、早速同心すべき事なるに、「存じ寄る子細あれば、重ねてこの方より御返事申し上ぐべし。」と、合点せざる様子に見えければ、「私、挨拶仕る上は、御前も首尾よく申し上げ、世間共によろしくすべし。婿にあそばしても、苦しかるまじき侍。」と申せば、「私の婿には過ぎ者なり。辞退申すは余の儀にあらず。梅丸事は、大殿御恩深き人なれば、今にも御死去あれば御供申さるる心底、かねての覚悟と見請けたり。然れば、いつと定めず又一人身となる事を、親の不憫にて、愚かに行く末の事を案じける。」と。
 「武士の心には、少し手ぬるき申し分。」とは思ひながら、人の親の身となりては、世の誹りを構はず迷ふも理ぞかし。「その事は、無常の世なれば、無事の身にも愁ひはあるなり。この嫁、是非に。」と勧めければ、その人に任せ、約束して姫を送らせけるに、互ひに焦がれし仲なれば、深く契りを込めし内に、大殿、御病気にならせられ、次第に頼み少なく見えさせ給へば、今更驚く事もなく、追腹の覚悟して、妻にもこの事語りて、道理を詰め、今生の暇乞ひしけるに、深く歎きぬべき事を思ひやりて、ひとしほ不憫なりしに、少しもその気色なく、「人間、一生は夢の如し。殊に武の家に生まれさせ給ひ、主君のために一命惜しませ給ふ御事にあらず。女の申すは愚かなれども、御最期潔くあそばされ、名を末の世に残させ給へ。」と、常よりは物静かに、献々の盃事して、梅丸に満足致させて後、「私事は、女心の定め難し。御最期の後にては、又、縁に任せ、後夫を求むる心ざし。」と言へば、梅丸聞きて、「思ひの外なる心底。女程つれなきものはなし。」と、少しは恨み含み、眼色変はりてその座を立つ時、「御気色、俄に迫り、只今。」と告げ来れば、御城内に駆け付け、物静かに拝顔して御言葉を交はし、限りの別れを悲しみ、御骸を御墓に送りて、一時の煙となし奉り、物の見事に切腹の首尾、残る所はなかりき。
 「さすが、日頃の身の取り置き、世を短う見しに、とてもの事に、女房持たれずは、よき事なるに。残りし女の思ひ、深かるべし。」と、この沙汰せしに、「梅丸、首尾よく切腹」の事、聞くと否や、腹かき切り、夫の供を致しぬ。書き置き、段々見し人、感涙して、「最前名残の時、つれなき言葉に、夫、気をもつて、妻の事を思ひ切らするためならん。」と、かれこれ、この人の心中を感じける。

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【輪講】

水谷  物には類の集まる道理で、昔、讃州の城主に仕へた細田梅丸といふ美少年があつた。行き違つた人でも、魂を奪はれる位であつたから、主君は殊更、御寵愛深く、他の者は、この梅の匂ひを利く事もできない。況んや見る事は猶更できない。けれども、人の盛りは自ら限りのあるもので、二十歳の頃に元服を仰せ付けられ、前髪を落としたところを見ると、その美男である事は、京細工の物言はぬ業平のやうである。それから、岡尾新六といふ人の娘に、小吟といふ十四歳になる人があつた。これが又、何人の生まれ替はりであるか、こんなに美しい女も、あればあるものである。古にも「美人揃へ」といふ事はあつたが、それは見ない事であるから、何ともわからない。が、よもやこれ程ではあるまい。身体の内に、毛頭不足の所がない。世の取り沙汰に、この二人を牛若丸、浄瑠璃御前のやうに見立てて、「もう夫婦になる約束がある。」といふふうに言はれてゐる。娘も縁付き頃だから、方々から色々申し込みがあるのも、美しい姿の徳である。小吟は、見た事もない梅丸に、噂によつて恋ひ焦がれて、外からの縁組に対しては、親の心に背いても聞き入れないから、何ともこの事にあぐんで、打ち捨てて置いた。梅丸の方でも又、小吟を見ないのに恋しく思つて、外からの縁談は取り合はない。さうやつて何年も経つてゐるのを、或る人が聞きつけて、小吟の親の岡尾新六に、「これは、似合はしい縁だから。」と話したところが、早速同意しさうな事であるのに、「存じ寄る子細があるから、その内にこの方から御返事しよう。」と言つて、承知しないやうに見える。そこで、中に立つた人が、「私が挨拶する上は、御前も首尾よく申し上げるし、世間の方も、よく取り計らふ。あの人ならば、婿になさつても恥づかしくない士でせう。」と言ふと、「私の婿には、むしろ過ぎてゐる。只、御辞退申すのは、余の儀ではない。梅丸は、大殿の御恩を深く受けてゐる人だから、今にも御死去があれば、殉死をする覚悟と見てゐる。だから、娘を遣はしても、いつ一人になつてしまふかわからない。親としては又、それが不憫で、愚かにも、行く末の事を案じて御断りをするのだ。」と答へた。武士としては、生ぬるい申し分ではあるが、人の親としては、世間の誹りも構はず、かういふふうに迷ふのも、尤もである。けれども、さういふ死ぬとか生きるとかいふ事は、無常な世の中であるから、無事の身でも愁ひはある。是非この縁をまとめたらよからう。」と勧めたので、遂にその人に任せて、娘を遣る事にした。元々、互に恋ひ焦がれてゐた中だから、深く契りを込めましたが、その内に、大殿が病気になられて、次第に頼み少なくなつて来た。梅丸は、今更驚く事もなく、追ひ腹の覚悟を決めて、妻にもその話をして、今生の別れを告げた。しかし、「妻は、後でさぞ歎く事だらう。」といふ事を思ひ遣つて、ひとしほ不憫であつたが、小吟は一向、そんな様子がない。「誠に、人間の一生は夢のやうなものだ。殊に、武士の家に御生まれになつて、主君のために一命を惜しむべき事ではない。女の口から言ふのも愚かな話であるが、潔く御最期を御遂げになつて、後世まで名を御残しなさるやうに。」と言つて、常よりも静かに盃事をした。さうして梅丸に満足させてから、「私は、女心で定め難い。申しにくい事ではあるが、御最期の後は、後夫を求めるつもりだ。」と言つた。梅丸は、これを聞いて、「これは、思ひの外なる心底である。女ほどつれないものはない。」と恨みを含み、眼の色を変へて座を立つた時、「大殿様の御様子が、俄に変はつた。」といふ事を告げて来た。梅丸は、すぐに城内へ駆けつけ、最後の御顔を拝して、御亡骸を墓所まで送つて後、見事に追ひ腹を切つた。「さすが、平生の身の取り置きが違ふ。とてもの事に、女房を持たなければよかつたらう。残つた女房が可哀さうだ。」と噂をする者があつた。然るに女房は、「梅丸が首尾よく切腹した。」と聞くや否や、自分も腹を切つて、夫の後を追つた。その書き置きを見た人は、いづれも感涙を流して、「別れの時に、つれない事を言つたのは、夫に自分の事を思ひ切らせるためだつたのだらう。」と、深くこの人の心中を感じた。
木村  梅丸は、御小姓なんでせう。この「何丸」といふのは、古いことぢやありませんか。
  「翁丸」なんていふのがあります。
三田村  「人丸」だつて、さうでせう。
野々村  元服は普通、何歳位ですか。
三田村  決まつてはゐませんが、二十歳といふのは、遅い方です。普通は十六、七でせう。大名は、十五になるのを「御乗り出し」と言ふ。小笠原の礼式には、「十六」となつてゐるが、そんなに決まつたものでもない。一体、成年式なんですからね。「南枝若衆」は、「南枝北枝」とあるべきところを、音を借りて、もぢつたんでせう。「京細工」は、人形でせうね。
水谷  「美人揃へ」は、仮名草子にもありました。
野々村  謡曲にもあります。「舞車」とも言ひます。
  絵姿ですか。
野々村  絵姿ぢやありません。
三田村  その謡は、誰の作ですか。
野々村  わかりませんが、足利の末のものでせう。
水谷  仮名草子にも、確かにあります。絵詞か、何かがありませう。
野々村  或いは、その前に何かあつて、両方に影響してゐるのかも知れませんな。
三田村  「何揃へ」といふのは、後の「何尽くし」だが、いつ頃がその境界になつてゐるか知らん。
野々村  謡は皆、「揃へ」ですな。「尽くし」はありません。
三田村  延宝の「義経追善舞」に、「傾城名誉の紋尽くし」といふ事がある。
水谷  万治あたりの金平本にも、「馬揃へ」とあつたやうに思ふ。
三田村  西鶴は、多く「揃へ」のやうですね。
木村追記)「十二段草子」の三段目に、「草子は何々ぞ。古今、万葉、伊勢物語、源氏、狭衣、恋尽くし。和歌の心を初めとして、情けの道を知る事は、当国内に聞こえけり。」とあります。
鳶魚副書)小吟は十四歳といふのに、「娘の年も縁付き頃」とあります。この頃は、これが一般の風習であつたらしい。江戸時代――しかも極々、末になつても、十六、七歳が、御嫁さんの年齢でありました。私の知つた老輩でも、十四歳で嫁入りをした人があります。二十歳を越して縁付く者が多くなつたのは、明治の中頃からです。
楽堂追記)この章の初め部分には、「梅」の縁より、謡曲「老松」の文句を借りたる所多し。「誠に梅の風」「この梅の匂ひ」その他。
木村  女の腹切りですな。
水谷  この辺は大分、作り話ですね。
野々村  前に切腹の事があるから、筆の拍子で、ついかうなつたものでせう。
佐藤  「こんこん盃事して」は、一献二献の「献」ですか。
水谷  さうでせう。それに、「懇」の意味を加へれば、今の御解釈のやうになるかも知れない。
鳶魚副書)女の腹切りについて。南方熊楠翁から到来した抄記に、「近松が、その戯曲『長町女腹切り』を出したのは元禄十三年で、腹切りを以て海外までも鳴つた日本国にも、女の切腹は至つて珍しく、『狂歌や落首、絵双紙にまでもして喧伝された。』と見える。しかし、これが女腹切りの嚆矢で無く、足利時代、既に歴々大名の奥方で、腹を切つた例がある。『両武田系図』に、『甲斐、安芸、二州の守護、武田安芸守信満は、鎌倉の前執事上杉禅秀の舅だつたところ、禅秀敗死に及び、信満、甲州で切腹した。その女、俗名右衛門も、夫と禅秀の死を聞いて、本国藤渡の河辺で守り刀を抜き、腹十文字に切つて水中に沈み死す。辞世、さなきだに五つの障りありと聞く親さへ報ふ罪いかにせん。女腹切る事、古今、不思議に聞こえし。』と出づ。」とあります。私も一つ、「北国太平記」の中で見つけました。「義景(朝倉)の母儀広徳院殿、義景の自害し給へる一間所へ来たり給ひ、空しく成り給へるを見給ひて、『妾も、いつまでか長らふべき。』とて、袷の肩を押し脱ぎ給ひ、守り刀を抜きて、既に腹に突き立てんとし給ひけるを、女房達、すがりつき…」無理に止めたとある。女も、自殺の時に腹を切る風のあつた事は、これらを見ても知れよう。「奥羽永慶軍記」の中にも、上杉景勝の妾が自殺したところに、「暦もどきに書き置きつつ、白綾を以て鉢巻し、白き練の小袖に、去年出仕の時に着たりし袴肩衣(この妾は男装してゐた)を着て、押し肌脱ぎ、腹を一文字に切つて臥しける。」とあります。