四 申し合はせし事も空しき刀
【本文】
悪心は、眼前にその身に報ふ事あり。
昔、丹後の国主、長岡幽斎藤孝の家中に市崎猪六郎とて、大酒を好み、作病を構へ、武士の道を背きて金銀を貯へ、五十余歳まで妻子も持たず、世を我がままに暮らしぬ。下人用捨も、常に変はりて使ひければ、この家を見限り、大方は欠け落ちして、朝暮、人に事を欠かれし{*1}。
手近う仕へる者に勝之介、番之介とて若年なるが、この二人、何事をも堪忍して勤めける内に、毎日主人、恨み重なり暇を乞へど、出しもせず。それより殊に厳しく使ひ給へば、とかくは身の続かざる道理に詰まり、両人内談極め、主人を今宵の内に討つて立ち退くに成り、勝之介言へるは、「二人ながら立ち退かずとも、この一人は何となく後に残りて、退きたる者の科にすべし。某、討つたる分に極め、詮議終はつて後、その方は何となく年内はここに暮らし、正月十八日に都の清水の子安堂にて出で合ひ、同道して西国に下り、名を替へ奉公を勤むべし。」と堅々申し合はせて、その夜半に子細なく主人を討ちて、勝之介は立ち退きける。
その明け方に、番之介、騒ぎて追つ掛けしが、早行き方知れず。いよいよ勝之介が仕業に極まるところにて、方々御改めあそばしけるに、知れ難し。常々悪人なれば、吟味の役人も大方にして事済み、後日の御沙汰になりぬ。
この猪六郎、家に持ち伝へて、平家侍越中次郎兵衛が差したる黄金作りの名剣ありしが、番之介、これを取り隠し、掃き庭の木蔭に埋み置きぬ。御吟味の時、「不断、勝之介が預かりゐたる」由、申し上ぐれば、「さてはこれ故、主人を討ちけるよ。」と、はつとこの沙汰ありける。
番之介が心入れには、「両人、浪人の内の頼りにも成りぬべき物。」と出来分別なりしが、この事、勝之介伝へ聞きて、「さりとは無念。盗人の名を取る事、末代の恥辱なり。ここは逃れぬところ。」と思ひ定め、京都より二度帰りて、番之介が親の元に昼忍び入りて、名乗り掛けて切り伏せ、その身も即座に相果てしが、書き置き残して、段々初めの所存顕はれけるとなり。
【輪講】
佐藤 悪い心といふものは、眼前にその身に報いが来る事がある。長岡(細川の本姓)幽斎藤孝の家中に、市崎猪六郎といふ者があつた。大酒を好んで、仮病を使つて、武士の道にあるまじき金銀を貯へまして、五十余歳まで妻子も持たず、世の中を我が儘に暮らして居りました。下人も、容赦なく酷使したものですから、下人どもの方でこの家を見限つて、大概逃げ出してしまひ、朝晩の事をする人にも不自由するやうになりました。それでもまだ、手近く仕へてゐる者に、勝之介、番之介といふ二人があつた。まだ若年でありましたが、何事も堪忍して勤めてゐる内に、毎日、主人に対する恨みが重なる。「暇を貰ひたい。」と言つても、くれないのみならず、それからといふものは、前よりも更に酷使される。「これでは結局、何としても身体が続かない。」といふ事になるので、二人とも内談をして、「主人を今夜の内に討つて立ち退かう。」といふ事になりました。その時、勝之介が言ふには、「二人とも立ち退かないでも、一人は何となく後に残つて、立ち退いた方の科にしよう。私が討つた事にして、詮議が済んでから、お前は何となく年内をここに暮らし、正月十八日に、清水の子安堂(泰産堂の俗称)で会ふ事にし、それから二人同道で西国に下つて、名を変へてどこかへ奉公しよう。」と堅く申し合はせまして、その夜半に、わけもなく主人を討つて、勝之介は立ち退いてしまつた。その明け方になつて、番之介が騒いで追ひ駆けましたが、もう行方不明である。いよいよこれは、勝之介の仕業に決まつたところで、方々改められたけれども、どこへ行つたか分かりません。不断から評判の悪い人ですから、吟味の役人も、いい加減にして事を済まし、「それ以上の吟味は、追つての事。」といふわけになりましたが、この猪六郎の家には、伝来の「平家侍、越中次郎兵衛が差した。」と言ふ、黄金作りの名剣があつた。これを番之介が取り隠して、掃き庭(囲つてある庭)の木蔭に埋めて置いた。それを、御吟味の時になつて、「あれは不断、勝之介が預かつて居りました。」と申し上げたので、「それでは、刀が欲しさに主人を討つたものだ。」といふ評判になりました。番之介の考へとしては、「両人とも、これから浪人するのだから、これでもあつたら便宜だらう。」といふ出来心で、刀を埋めて置いたのですが、勝之介はこれを聞き伝へて、「盗人の名を取るのは、末代までの恥辱である。勘弁できない。」といふ事で、京都から又帰つて来て、番之介親元へ昼間忍び込んで、名乗りかけて、番之介を斬り伏せて、自分も即座に自殺してしまつた。その次第を述べた書き置きがあつたので、段々、最初からの事の次第がわかつた、といふ事です。
木村 一粒取つても武士は武士だから、泥棒の嫌疑を受けては我慢できないんですな。
森 主殺しはいいが、盗人はいけないんでせう。
三田村 主殺しをするやうなやつでも、泥棒の名は厭ふのです。それから、番之介は譜代者だから、親仁のうちに居るのです。御暇を下さいと言つても出さない。かういふ事は、今の人には分からないが、昔の士ですと、暇を願つて出なければ、よそへ仕へる事はできない。万一、仕へたとしても、いつでも捕まへて返されてしまふ。これは、武家奉公一般の話ですが、中間、小者といふやうな者になりますと、身柄が軽いから、捨て置く事もある。が、士分では、さうはいきません。どこに居ても、連れ戻さうとすれば、戻されるのです。どうもこの話で見ると、この両人は譜代らしい。これは、今日の雇傭関係ぢや、とても分かりません。従つて、ここらのところは、語釈だけやつたんではいけない。かういふ事は、確か法度書があつたと思ひます。幽斎は、丹後のどこでしたかね。
野々村 例の古今伝授の一件の時は、田辺に居りましたから、今の舞鶴です。あれは、石田三成がやつたのですから、慶長五年です。
森 主家を無理に飛び出して、前主と現主との間が難しくなる話は、大分あります。
佐藤 「用捨」
三田村 「使ひ方」でせう。無理な使ひ方をする。
水谷 「斟酌せずに」でせう。
木村 「武士の道を背き、金銀を貯へ」。これも、当時の心持ちですな。今で言ふ「貯蓄」とは、意味が違ふ。
三田村 禄があるからです。
野々村 「越中次郎兵衛が差したる」といふのは、例の景清が頼朝を刺さうとした、あの刀でせう。
(鳶魚副書)金を溜める武士(岡野左内)の話が、「志士清談」にあります。同じ話が、「責而者草」にもあります。岡野左内のやうなのもある以上は又、本文の市崎猪六郎のやうな者も出て来る事にもならう。時世を考へて読まないと、この猪六郎の話でも、味がない。義理を立てない金溜めは、武士の事ではありません。それが、町人と違ふところでせう。
校訂者註
1:底本は、「かゞれし。」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
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