一 筋目を作り髭の男
【本文】
山城の宇治の里に、身を隠して住める浪人あり。当分の世渡りに、壷の入れ日記など書きて、あなたこなたの気に入り、年月ここに重ねけるに、「昔はいかなる人ぞ。」とゆかしかりき。
久しく先祖の事を語らざりしが、或る時、所の人の集まりて、「紫野の一休は名僧なりける。」と話のついでに、「蜷川新右衛門は、文武の人。」と聞き伝へて誉めぬれば、かの浪人、少し歌学ありて、その身、華奢に育ちければ、ふと出来心にて筋なき事を申し出し、「某は蜷川新九郎とて、新右衛門が孫なる。」と語りぬ。かねて「新九郎。」と名を呼べば、自然の道理にかなひ、各々疑ひ晴れて、「さては、蜷川の流れ程ありて、万事しをらしく見えける。」と。それより後は、世間にこの人をおろかにせずして、「新右衛門孫。」と言ひふらしければ、いよいよ新九郎、子細を作りて、蜷川代々の系図を拵へ見せける。
この事、世に沙汰して、岐阜中納言秀信公に身代済みて、武芸は外になし、歌道専らに心掛けしが、これも誠少なく、「蜷川の末。」と言へる名聞ばかりに表向きを見せ掛け、内証は色に迷ひ、元より悪心の侍なり。
その頃、蜷川次郎丸とて、新右衛門筋目に紛れなき人、我が身一つを浮世と捨てて、十八歳より出家して、津の国金竜寺の山蔭、古曽部村といふ所に、南を見晴らし草庵を結び、笹の細道分けかねて、木末の夏と成りにけり。能因法師の眺め残されし生駒の山も、雲の峰重なつて、「北は桜の盛りか{*1}。」と景色を疑ふ入相の鐘、涼しき風に無常を観じ、あながち仏の道も願はず。朝暮、和歌に心を寄せ、折節は笙の音を楽しみ、無我にして山居の行ひ。殊勝さ、この人の心ぞかし。
その頃、都白河のほとりに、これも、身を歓楽に取り置き、明日の事を知らず今日まで暮らされける、星合主膳といふ人、入道して星薄坊と申せしが、「この法師の男盛りに、我、若道の結び、世にある{*2}より深かりき。そのよしみ。」とて、今も忘れずここに尋ねて、過ぎにし事を語り慰み、落ち葉は煙の種となり、釣り釜に白湯たぎらして、咽の渇きをやめて、「貧家の気散じ、これぞ。」と宵の間もなく、明け方に別れ、京都に帰りさまに、宇治に住みたる浪人の噂。「蜷川氏の筋なき事を言ひ立てにして、岐阜秀信公に仕へて、高知を下し給はり、我が世と心に任す」由を語り、「いかにしても、憎き仕方。」と言ひ聞かせけるに、次郎丸入道、何となくうち笑ひて、「世の中には、かかる紛れ者多し。我らの先祖の名を借りて武家を立つるも、口惜しき所存なれども、その者が身を助かる頼りにならば、改むる事なかれ。」と大様に言ひ捨て、その通りに済みける。
その後、かの新九郎、身を作り者なれば、諸事に武家の作法違ひて、一家中、これをうとむ折から、天命尽きて、大寄合の座の惣立ちの時、岩田外記之進刀と差し替へて、屋形に帰りぬ。外記之進は跡役にて、心静かに立ち出、刀掛けを見しに、我が刀にはあらず。「これは、誰の腰の物ぞ。」と茶の番の坊主に尋ね給ひしに、革柄に蟹の目貫、無地の鉄鍔に栗色の刻み鞘。不断これを見馴れて、「確かに蜷川新九郎殿の刀。」と言ふ。「然らば汝、ひそかに行きて、その断りを申し、替へて参れ。」と言ひ付けられ、既に新九郎屋敷に立ち越え、このあらましを通じけるに、謝つて何の子細もなき事を、「この刀、差し当たつての無分別。某が腰の物にあらず。近頃卒爾なる事を申しける。」と存知の外なる返事に、使ひの坊主迷惑して、この段、外記之進に申せば、堪忍ならず。吟味役人に言ひ届けて、詮議に成りぬ。然も外記之進刀は、来国光が作なり。新九郎刀は、平安城義国と銘はありながら、正しからず。かれこれ不首尾に極まり、新九郎儀、切腹仰せ付けられ、皆、指を指し、籠乗り物に押し入れらるる面影を笑ひぬ。
かかる時、この乗り物の向うより、出家一人駆け付けけるを、各々怪しく思ひ、「中々、命乞ひは叶はざる事なるに、無用の法師の出所。」と先を払へば、案の外なる訴訟人。「私は、蜷川新右衛門が子孫次郎丸と言へる者の入道なり。然るにこの新九郎、筋目跡形もなき事を申し上げ、御家に済む事、心外ながら、この身なれば許し置くところに、この度の悪事。先祖の名を下す事、末代、家の恥辱なれば、堪忍ならず。これぞ、我が家の系図。」と、新右衛門自筆の物を差し上ぐれば、又この儀、御穿鑿あるに、これも新九郎悪名に紛れなく、御仕置変はつて打首にあひけるとなり。
【輪講】
三田村 この見出しは、系図をまたいで本物と偽物とある。そこの、筋目といふ事を主として、ここに置いたんだらうと思ひます。山城の宇治といへば、例の茶所ですが、そこに住んでゐる浪人が、その時の稼業に、御茶壺の入り日記などを書いて、茶の荷を出す荷主達に取り入つて、何年かの年月を送つてゐた。入り日記といふものは、荷造りをした中に、在中の目録を書いて入れる。それを入り日記と言ふので、壺の入り日記といふのは、御茶壺の事です。さういふ帳付けみたいな事をして居ります浪人は、昔はどんな人であつたか。程のいい者のやうに見ても居りましたが、その人は長い事、家筋の事については何も申しません。或る時、そこの人達が集まつて雑談を致します時に、一休の噂が出た。それから続いて、例の蜷川新右衛門の話が出て来た。ところがその浪人は、少々文学にも通じてゐて、骨柄もどことなく見よげに出来てゐるものですから、別にどうといふ企みがあつたわけではないが、「自分は、蜷川新九郎と言つて、新右衛門の孫になる。」といふ、とんでもない事を言ひ出した。なる程、前から新九郎と称してゐたから、話が追つ付いて、誰も彼も、「さうであつたか。」といふわけで、疑ひもなく皆がそれを聞き取りまして、「それでは新右衛門の末であつたか。さすがに雅びな、しをらしい男に見える。」と言つて、それから後は、宇治ではその人の事を丁寧に取り扱ふやうになり、「新右衛門の孫だ。」と言ひふらして居ります。さうされるにつれて、新九郎の方も、最初はちよつとした出来心だつたのだけれども、段々気持ちが変はつて来て、ありもせぬ系図を拵へて、いよいよ「新右衛門の後胤」といふ事を、人に知らせもし、気取り込んでも居る。この事が世間の評判になつて、「岐阜中納言秀信公」。これは、「三法師」と言つた、織田信長の御孫さんで、岐阜に居た人です。「身体」は、「進退」と言ふところへ嵌め込んで来たので、どつちにしても、「身柄が決まつた。」といふ程の事であらうと思ひます。召し抱へられた事を言つたのです。けれどもこの男は、武芸は格別無い。歌の道に専ら志してゐたが、これも作り物が多くて、誠が少ない。只、「有名な蜷川の子孫である。」といふ名聞ばかりで、表向きはうまく見せかけてゐるが、内輪に入つて見ると、色狂ひはする、心の清々しい士ではない。丁度その時分に、蜷川次郎丸と言つて、本当の新右衛門の子孫が居りましたが、自分の身体を「浮世と捨て」といふのは、可笑しな言ひ方ですが、自分の身体を我が身とせず、泡沫夢幻の世と同じものにして、かなぐり捨てる。中々味のある言葉です。十八歳のまだ若い盛りを出家しまして、法体になつて、「津の国金龍寺の山蔭、古曽部村」といふのは、どこだか知りませんが、さういふ御寺の片ほとりに、南を見晴らした草庵を拵へて、本当の道心者ですから、住職にもなりません。寂しく暮らしてゐる。「木末の夏」は、木の茂つて来た模様を言つたので、この辺のところは、この人の道徳の具合を形容したやうにも見えます。「能因法師の詠み残されし」は、何か歌がありませう。涼風の立つのを見て、無常観の足し前にする。「あながち仏の道も願はず」。単に念仏流に仏にすがるばかりではない。明け暮れ歌道に心を寄せ、時折は笙を取つて、ものの音色にも耽るらしい。本当に無我の姿で山住みをしてゐる。殊勝といふのは、何事でもない、この人の心である。丁度この時分、都の白河の近辺に、「身を歓楽に取り置き」といふのは、「自分を歓楽から取り除けて置く」と言ふんでせう。寂滅為楽とでも言ふか、明日の事を知らずに、今日まで暮らしてゐる。これは、実に面白い言葉だと思ひます。この人も坊主姿で、星薄坊といふ名になつて居りますが、元来は星合左膳といふ人で、「男盛り」と言ひますから、まだ若い時分に、次郎丸と念契がありました。そこで、法体した後も、そのよしみを捨てずに往来をしてゐる。次郎丸の庵室を訪ねて来て、色々過去の物語をする。「落葉は煙の種と成り、釣り釜に白湯沸らして」といふのは、閑居の枯淡な模様を表す文句です。貧乏住居ではあるが、普通の人家を離れてゐるから、「気散じ」と言つたんでせう。明け方になるまで語り続けて、別れて京都へ帰らうとする。その時に星薄坊が、「宇治に住んでゐた浪人が、『蜷川の子孫だ。』と言つて、いい加減な事で岐阜の秀信公に仕へた。さうして高知を賜はつて、我は顔に振舞つてゐる。実に憎むべき嘘つき武士である。」と憤慨して言つた。次郎丸は、別に気にした様もなく笑つて、「世の中には、さうした紛れ者が多いものだ。何もその浪人だけぢやない。私の先祖の名前を騙つて召し抱へられるといふのは、さもしい根性であるけれども、その者が嘘をついてでも、身過ぎ世過ぎになる便宜があるなら、穿鑿しないでもいい。」と広らかな心で、只それだけを言つて、一向頓着しない。然るに、その話があつた後、一方、新九郎は、元々嘘で拵へた身柄でありますから、武家のちやんと決まつた行き方とは違つてゐる。家中でも相手にされなくなつて来た時に、天命が尽きたとでも申すのでせう。大集会があつて、皆が立ち帰る時に、新九郎が岩田外記之進といふ人の刀と差し替へて帰つた。差し替へられた外記之進は、月番か何か、後始末をする役だつたと見えて、後に残つて点検してゐると、刀掛けにかかつてゐるのが、違つた刀だ。「これは、誰の刀か。」と茶坊主に聞いて見ると、革柄に蟹の目貫、無地の鉄鍔に栗色の刻み鞘。「これは、私もよく存じて居ります。蜷川新九郎殿の刀に相違ございません。」と言ふ。「これを、表立つて話に行けば、武士の魂を取り違へたのですから、事が面倒になる。お前、ひそかに行つて、取り替へて来い。」と言はれたので、茶坊主は、新九郎の屋敷へ行つて、外記之進に言はれた通り、話をした。「とんだ粗相をして、相済まぬ。」とでも言へば、何の事もないのに、「どうして、自分の刀にそんな事はない。近頃、粗忽千万な申し條である。」と言つて、返さない。確かに間違へたものを、かう言ふのですから、使に行つた茶坊主は困つてしまつて、外記之進にさう言ひますと、外記之進も承知しない。「新九郎に恥をかかせまいと思つて、内密に言つてやつたのに、先方の出方がさういふ事ならば、表向きにする。」と言つて、吟味役人に届けた。段々御詮議があつて、調べて見ると、外記之進の刀といふのは、来国光の作である。新九郎の方は、平安城義国といふ銘はあるけれども、確かでない、怪しい品である。「横着で差し替へたんぢやないか。」といふ事になつて、新九郎は切腹を申し付けられた。寺へ行つて切腹をするのでせう、籠乗り物に乗せられた。「籠乗り物」は、窓のない駕籠があつたやうです。囚人を入れるのにも、唐丸駕籠は、町人以下の場合に使ふので、これはとにかく、士が乗るために特別に作られたものなのです。その様子を見て、皆があざ笑ふといふ程で、処分されたのを、「不憫だ。」と思ふ者がない。さうして刑場へ赴く途中、この籠乗り物の向うから、坊さんが一人、飛び出して来た。皆は早合点をして、「これは、命乞ひをしに来たんだらう。人の刀をごまかしたといふ罪科があるんだから、とても叶ふ願ひではない。何もならないところへ坊さんが出て、無駄な事をする。」と言つて、追ひ払はうとすると、これは又、案外な話で、命乞ひぢやない。御訴へ申しに出て来たのである。「私は、本当の蜷川新右衛門の子孫で、次郎丸といふ者が出家したのである。然るに、この新九郎なる者は、ちつとも筋目を引いた者ではない。それが、御家へ御奉公申すのに、蜷川新右衛門の末と申し立てて勤めてゐる事は、けしからん話で、咎むべきではあるが、法体の身であるからそのままに差し置いた。けれども今、盗人といふ事になつて見れば、末代までも先祖の名を辱めるものであるから、法体でも何でも、もう辛抱できない。新九郎は新右衛門の筋目でない事を御訴へするために、ここに罷り出たのである。その証拠は、これが私の家の系図でございます。」と言つて、新右衛門自筆の系図を添へて差し出した。そこで、今度は贋系図の御穿鑿があり、「これも、新九郎の悪巧みである。」といふ事で、罪が二つになつた。どつちも甚だしい破廉恥の所行であるから、切腹から打首になつた。切腹までは士の罪ですが、打首は士の刑罰ではない。士として取り扱はるべきものでない。この話の義理は、一度許した次郎丸も、自分の家名を汚す事は許されないといふところにある。子孫として、祖先に対する義理ですね。
佐藤 「身を歓楽に取り置き」は、「歓楽に暮らす」んぢやないですか。
三田村 普通、「取り置く」と言へば、埋葬の事になる。
佐藤 この前にも、「身の取り置き」といふ事がありましたね。ここはどうも、「歓楽に生活する事」らしい。
三田村 男盛りには、浮世めかしい事もあつた。その続きになりますね。
野々村 「今までは、さういふ暮らしをしてゐた。」と言ふんでせう
三田村 ここでは、星薄坊になつた事を言ふんでせう。男盛りには、色々たはけた事もしたが、今は星薄坊になつた。
野々村 星薄坊になるまでの暮らし方でせう。
三田村 さうです。白河は寂しい所らしいから、楽しみにいい所ぢやない。
間 坊主になる前の話ですか。
三田村 さうでないと、「明日の事を知らず」がつまらない事になる。「歓楽から自分を取り置く」といふのは、大分味があつて面白い。私は、この二句を逆に見るのです。
間 坊主になつてから、「明日の事を知らず」でも、よくはありませんか。
野々村 私のは、「訪ねて来た日まで」でなく、「最近まで」といふ程の意味です。
三田村 私のは、「訪ねて来た日まで」です。
野々村 三田村さんのは、「歓楽に対して身を取り除けて置く。」と言ふんですね。
三田村 さうです
佐藤 どうも、この「古曽部村」の前後は、文字が遊んでゐる。謡曲にでもなりさうですな。
森 蜷川新左衛門が皆、「新右衛門」になつてゐますが、これは、うつかり間違へたんでせう。わざと一字違へる程の遠慮も要るまいと思ふのですが。
三田村 筆の紛れでせう。
森 しかし、こんな話は、いくらもありましたらう。
野々村 贋系図の多かつたのは、貞享、元禄です。
木村 この話も、何かに当ててゐますかな。
森 尤も、徳川氏の清和源氏からして、怪しいもので、よその系図など、深く咎められるわけではなかつた。
三田村 利家だつたか、道春に頼んだ話が、「三河物語」に出てゐたと思ふ。家来の方では、先祖の事は知らない。只、先祖だから貴ぶんですがね。
野々村 ここに「京都」と書いてある。「京都」といふ言葉は、古いものには余り見かけません。大概、「京」とある。
柴田 この本の巻三「約束は雪の朝食」の中にも、「形を変へて京都に上り」とありました。
校訂者註
1:底本は、「盛(さかり)と」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
2:底本は、「世におるより」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
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