三 後にぞ知るる恋の闇討

【本文】

 「何事も、差し当たつての分別は、必ず後悔。」或る人の言へり。今日を明日の沙汰に延べ、その道理至極の時、是非を正すを誠の武士と言へり。それも、事によるべし。
 その頃、加賀の国大聖寺の城主山口玄蕃頭家来に、千塚藤五郎と言へる男、十六歳の時、父藤五左衛門を闇討に遭ひて、その時分、色々御穿鑿あそばしけるに、相手知れ難く、その通りにこの沙汰終はつて後、藤五郎に仰せ渡されしは、「随分思案を巡らし、父を討つたる者、相知るる節、この本望を達すべし。汝が身にしても、是非なき仕合せなり。少しも引けたるところなし。敵住居見定め次第に暇を取らすべし。まづそれまでは、藤五左衛門名跡相違なく、大番組に入りて相勤め申せ。」との上意。有り難く、その通りに人も許して、「若年にして大役勤めかぬる武士にあらず。さすが、千塚の家を継ぐべき心ざし見えける。」と各々、末頼もしく思ひぬ。
 程なく六、七ケ年過ぎて、血気盛んになつて、親討ちたる者の行方を、朝暮心掛かりに過ぎし。「これを討たでは、武士の一分立たざるところ。」と諸神に宿願を掛けて、この事ばかりを祈りて、今に定まる妻子も極めず。うつつにも夢心にも、親の面影を見る事、千度なり。或る時、思ひも寄らぬ事に、闇討の相手知れける。
 我が母人相果てられし後、父藤五左衛門、いまだ流年盛んなれば、後婦は求めずして、美形の手掛け者を置きて、老い楽の寝屋の友として、面白酒も折節は乱に及び、日頃は武道の男なれども、女には弱き心ざしを見られ、いづれ智愚の分かちもなく、色道に惑はぬはなかりき。
 そもそもこの女は、京育ちなりしが、丹波の篠山に縁組して、尾瀬伝七と言へる浪人と語らひしに、次第に尾羽うち枯らして、渡世成り難く、この女の手道具まで代なして、今は了簡尽きて、むごき仕方は、暇乞ひなしに文書き捨てて、その身はいづくに行きしも知れず成りにき。女心に悲しく、これを歎くに甲斐もなし。道を立てて一人暮らせば渇命に及び、身を墨染になす事も、一心より起こらぬ出家も嫌なれば、世渡りの頼りばかりに、又奉公勤めける。
 伝七、再び丹州に帰り、女の成り行く物語を聞きて、なほ執心やむ事なく、「何とぞ主人の手前を出て帰り、縁は尽きせねば、この事早く。」と便りを求め、忍びて文遣はしけるに、この女、見るまでもなくかい遣りて、年頃の恨み、殊更別れさまの難儀、思ひ出すさへ身震ひして、「さりとはその男、恨めしや。」と胸を痛めけるも、道理に詰まれり。さるによつて、返事せざる事を恨み、「さては、今勤めける主人、寵愛の余り、外を堰きて、その身を自由させぬと見えたり。」と一筋に思ひ極め、段々ありか尋ね、加州に立ち越え、思ひも寄らざる藤五左衛門恨みて、討つて退きけるが、この女、主人、是非も浮世の別れに、その歎き止む事なく、年月の御厚恩忘れず、せめては御菩提弔はんため、都の下賀茂に柴の戸をさしこめ、姿の飾りを切つて捨て、後の世を願ひしに、伝七、又ここに尋ね入りて、「かく仏の形の衣を汚し、昔を今以て歎く。思ひ寄らずや。」と荒く言へるを、取つて押さへ刺し殺し、そのまま草庵出て行く。
 この女の弟大蔵と言へる者、前髪盛りの小草履取り、東山南禅寺の末寺に奉公せしが、これを聞き付け、深く歎きぬ。暫く思案して、「この程、『浪人の伝七、ここに無理入りせし。』と姉の語られけるが、正しくこの者の仕業、疑ひなし。さては、藤五左衛門殿討ちけるも、伝七に極まれり。命を取る事、小腕に叶はざれば、これより行きて、藤五郎殿に申し合はせて、敵を討つべし。」と加賀の国に尋ね行き、初めの子細を語り、「尾瀬伝七、生国は播州竜野の者なれば、必ず国元に住居定まつたる事なれば、急ぎ播磨に御下向あそばし、伝七討ち取り、御本望達し給へ。その男、たとへ身に墨を塗ればとて、某、日頃に目印あり。」と勇めければ、藤五郎、喜び限りもなく、「今宵の内に用意して、明日は御暇願ひ、罷り下るべし。旅用意仕れ。」とひそかに跡の儀申し付くるところへ、家老中、「御用あり。」との御使。早速登城仕れば、備中の福山へ御使者に仰せ付けられ、初めての役目。「有難き仕合せ。」と御請けを申す内にも、敵の事を、飛び立つ程に思ひ入れ深し。
 主命なれば是非もなく、「まづこの度相勤めて、後日の沙汰。」と、かの大蔵も同道して備中に下りしが、津の国西の宮の宿に着けば、所の人立ち重なり、「落馬して、旅人の危ふかり。」とて、「気付けよ。水よ。」といふ声騒ぎぬ。大蔵、これを見て、「あれは、敵の伝七なり。」と身を震はして申し上ぐる。藤五郎も、「これは。」と差し当たつて分別し、「主命の御用の時、たとへ無事の身なりとも、討つべきところにあらず。殊更かかる難病、猶以て。」と大蔵に義理を言ひ聞かせ、所の人に妙薬を教へ、「この打ち身には、鹿の袋角{*1}を紺屋の糊にて摺り混ぜて付くと、そのまま痛み去るもの。」と懇ろに病人の事をいたはり、「正気付くに、子細はあらじ。その時分、これを見せよ。」と頼み、文書き残し、「難病は討たずに、命を助け置く。」と右の段々、うち付け書きに言ひ置かれける。
 その後、病人験気の時、かの文を相渡しければ、伝七、この心底を感じ、「誠ある武は格別なり。世界に長らへて詮なし。元、某が悪心」身に覚えて、加賀に立ち越え、「その身の悪事、西の宮の首尾、さりとは有り難し。それ故、御親父様を討つたる所に罷りて、自害仕るなり。止めを刺して給はれ。」と心中の通り、札に書き記して、思ひ切つたる最期。
 「藤五郎が討たざるは、討つにまさりし武道。」と理をせめて、「あつぱれ神妙なる心入れ。」と国中にこれを誉めける。

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【輪講】

鈴木  何事も、差し当たつて後先考へずにやつて行くといふ事は、後悔する事の多いものである。当座の分別は、誤りが多い。今日しようといふ事を明日に延べ、いよいよ考へが決まつてからその是非を糺すといふのが、誠の武士である。それも、事によるものではあるが。ここに、加賀国大聖寺の城主山口玄蕃頭の家来に、千塚藤五郎といふ者があつた。十六歳の時に、父藤五左衛門が闇討に遭つて、色々御穿鑿があつたけれども、遂に相手が知れない。人の噂も七十五日で、この沙汰が終はつて後、殿様から藤五郎に仰せ渡しがあつた。「随分思案を巡らして、父を討つた者が分かつたら、その時に本望を達すればいい。汝の身としては、是非もない仕合せである。少しも不面目な事はない。敵の居る所が分かり次第、暇を取らすから、それまでは藤五左衛門の名跡を継いで、大番組に入つて勤めろ。」といふ上意であつた。藤五郎も有り難く御受け致し、人もそれを許したのは、若年ではあるが、さういふ大役を勤めかねる人間ではないからである。「さすがに千塚の家を継ぐべき志は見える。」と言つて、家中の人達も末頼もしく思つた。それから間もなく五、六年経つて、藤五郎も血気盛んの男になつた。親の敵の事が朝晩気にかかつて、「これを討たなければ、武士の一分が立たない。」と言つて、八百よろづの神々に祈りまして、二十三、四になるのに、まだ妻も持たない。夢にもうつつにも、幾度といふ事なく親の面影を見たが、或る時、思ひも寄らぬ事から、闇討の相手が知れました。それは、どういふのかと言ふと、自分の母親が亡くなられた時、父親の藤五左衛門は、二度目の家内を貰はずに、美しい女を妾にした。酒といふものは、礼に始まつて乱に終はるもので、藤五左衛門も、やはりさういふ傾きがあつた。日頃は武士らしい男であるが、女に弱い志を見られ、賢愚の別なく、色道に迷はぬ者はない。この女の履歴を尋ねて見ると、元来、京育ちでありましたが、丹波篠山の尾瀬伝七といふ浪人の家内になつた。段々落ちぶれて、世渡りができなくなり、この女の手道具まで売るやうな始末になつたので、どうする分別もつかず、遂に手紙を置いたなり、どこかへ行方不明になつてしまつた。残された女房の心としては、深くその無情を悲しんだけれども、どうにも仕方がない。女の道を立てて一人暮らさうとしても、生活の道がない。尼にならうとしても、発心したわけでもない出家も厭だから、渡世のためばかりに、妾奉公に出る事になつた。これが、この女の履歴です。尾瀬伝七の方は、再び女の故郷の丹波へ帰つて来て、人の話に女の様子を聞いて、今更ながら執心がやまない。「どうか今の主人の方を暇を取つて、又自分の女房になつて貰ひたい。」と、便宜を求めてひそかに文を遣はしましたところが、女の方では、自分を捨てて行つた位の人であるから、その手紙を見るまでもない。捨てて行かれた時の難儀を思ひ出すだけでも身震ひして、「さりとはその男が恨めしい。」と胸を痛めたのも、道理千万である。そこで、返事を出さなかつたのだが、伝七の方では、「かういふふうに自分を厭がるといふのは、今の主人が可愛がるために、妨害するものと見えた。」と一筋に思ひ極め、主人のありかを尋ねて、丹波から加賀に立ち越え、思ひも寄らぬ藤五左衛門を恨んで、討つて退いたのである。この女は、主人の闇討されたのを深く歎き、年頃の御恩を忘れず、今度は本当に出家しまして、その菩提を弔ふために、都の下賀茂に庵室を作り、後世を願つて居つた。伝七は、これを聞いてやつて来て、復縁を迫つたが、「そんな事は思ひも寄らぬ。」と言はれて、遂にこれを刺し殺してしまつた。この女の弟に当たる大蔵といふ者が、前髪盛りの小草履取で、南禅寺の末寺に奉公して居りましたが、これを聞いて深く歎いた。暫く思案して見るのに、「『伝七が無理にやつて来て困る。』と姉が言つて居つたから、伝七の仕業に相違ない。藤五左衛門殿を闇討にしたのも、やはり伝七に決まつてゐる。しかし、彼の命を取る事は、とても自分の痩せ腕では覚束ないから、藤五郎殿に御話して、一緒に敵を討たう。」と決心しました。それから加賀の国まで尋ねて行つて、「伝七の生国は、播州の龍野でありますから、必ず国元に住んでゐるに違ひありません。急いで播磨へ御下りになつて、伝七を討ち取つて、本望を御遂げ下さい。その男が仮に身に墨を塗つたとても、私には日頃の目印がついてゐるから、すぐわかります。」と言つたので、藤五郎は非常に喜んだ。「それでは、今夜中に支度を整へて、明日は御暇を願つて出立しよう。」といふ事になつて、後の事などを申し付けてゐるところへ、家老から、「御用がある。」といふ使が来た。早速登城して承ると、「備中の福山まで御使者に参れ。」といふ事である。藤五郎にとつては初めての御役目ですから、「有り難い仕合せ。」と御請けを申しながらも、敵の事は気にかかつて堪らない。けれども御主人の言ひ付けですから、何とも仕方がない。「まづこの御役を務めて、後日の沙汰にしよう。」といふので、大蔵も連れて備中に下りましたが、その途中、摂津の西宮へ着くと、宿の人が、何だか大勢で騒いでゐる。旅人の落馬したのが、命が危ふい。気付け薬だの、水だのと言つてゐる。大蔵が、その旅人を見ると、敵の尾瀬伝七に紛れもない。身を震はして、藤五郎にその由を申しますと、「これは。」と思つたが、差し当たり分別して、「今は、主命で御使者に行く途中だから、相手が無事で居たところで、ここで敵を討つわけには行かない。ましてかういふ難病では、猶更の事である。」といふので、大蔵にもよく義理を言ひ聞かせまして、土地の人に妙薬を教へた。「かういふ打ち身には、鹿の袋角を擂つて粉にして、紺屋の糊に混ぜて痛む所へつければ、痛みは去る。」と懇ろに病人をいたはつて、「正気がついたら、これを見せろ。」と言つて、一封の書を残して行つた。「難病であるから、敵は討たずに命を助けて置く。」といふ段々を書いて、主命を果たしに行つてしまつた。伝七は、快方に向かつてから、藤五郎の文を見て、深くその心底に感じまして、「誠に義理堅い武士である。この世に長らへても仕方がない。元々、自分の悪心からやつた事は、自分に覚えがある。」といふので、加賀へ参りまして、「自分の悪事があるのに、西宮の事は、誠に有り難い。それ故、御親父様を討つた所へ参つて、自害を仕ります。どうか止めを刺して下さい。」といふ心中を札に書き記して、思ひ切つた最期を遂げた。「この藤五郎が敵を討たなかつたのは、討つた以上に武士道としてまさつた事である。あつぱれ神妙な心入れである。」と言つて、国中の人が、これを褒めました。
三田村  「大番組」。
鈴木  政治を行ふのも武士なら、算盤を弾くのも武士、代筆をするのも武士だけれども、戦争の時には、旗下で働く本当の武士の事です。「大番組御小姓」などと言つた。戦争の時には、主君の周りを固めてゐる役です。
木村  戦闘員ですな。
三田村  この女は、前には厭だつたが、今度は本当の菩提心が起こつた。「後の世を願ひしに」。主人の菩提を弔ふのでもあるが、自分の後世も願ふのです。
鈴木  両方と思へば、穏やかですな。
野々村  前に、「せめては御菩提とはんため」とあるから、「後の世」は、自分の後世の方でせう。ここの気持ちに両方ある事は確かですが…。
宵曲付記)「流年」は、「去り行く年月」の由。「鬱々流年度」(杜甫)。

校訂者註
 1:底本は、「袋鹿(ふくろづの)」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。