大節季にない袖の雨
【本文】
桃は必ず貧家に植ゑて、花の盛り。山城の伏見の里、墨染といふ所に、昔は桜咲きて、都の人をもここに招きて入り日を惜しませ、上戸は殊更、下戸の目にさへ、行く春の名残酒。毎日、見る人こそ替はれ、この一木の蔭にて呑み懸け、間も無きしたみ、露より軽き事なれども、積もれば真砂の下行く川と成り、この根ざしに流れ込み、あたら桜は枯れて、名のみ残りて、墨染の水と言ふは、その庭にありて、秀吉公の御茶の水とも成れり。今はその時に変はりて、京街道の辻井戸と成り、町作りも次第に淋しく成りぬ。
この辺り、荒れたる宿に住みなして、火桶の文助と言へる男、世を渡る業とて竹箒の細工騒がしく、風の朝夕も身を凌ぐ衣もなく、霜夜を埋み火に命を繋げば、彼が有る名は呼ばず、「火桶、火桶。」と呼びぬ。悲しや、年の暮も餅搗かず、松立てず。箒で掃きたるやうに薪棚絶えて、米櫃にいかな事、何にもなく、世に有る人の絹配り、丹後鰤の肴掛を羨み、夫婦こそは老いの浪、かかる憂き事も是非なし。せめて子どもが正月に太箸取らぬも、情けなし。身過ぎの常に定めなきこそうたてけれ。
数年、この里に早桃と言ふを作りなし、梢の春より初秋を待ち兼ね、色もつかぬを枝に見て、京なる日暮らしの八百屋に遣はし、売り銭、大分に徳を得て、この幾年か、大晦日心安く越ししに、八月二十三日の大風。「諸木、根をうち返し、殊に年切れして世間並。」とは言ひながら、すぐれて我ばかり悲しく、板庇も榑止めのみ残りて、その後の時雨には、不思議に売り残せし長持の蓋開けて、親子五人、これに蹲りて、片隅に木枕をかい詰めにして、息出しの不自由さ。浮世の闇に迷ひ、「可笑しからぬ命。」と悔やむに甲斐ぞなき。我が家ながら、売るに買ひ手なく、さながら四間口、人に只も遣られず。「樽代に五十目か三十目おこせば、遣るに。この家も、京橋の舟の乗り場なれば、捨てても六貫目がものはあるに。十八町の違ひ格別。」と所を悔やみ、身を恨み過ぎにして、行く末を思ひ巡らし、「御上洛の有る事もがな。松は永代、この家退くまじき。」と我を出しける。
この者、三人の子を持つ。惣領は文太左衛門とて、今年二十七になりぬ。しかも、すまた切れ上がりて大男。生まれ付きての頬髭、眼光りて、不断笑へる顔つき、余の人の喧嘩の時より怖ろし。しかも逞しければ、肩の上の働きしても、二親過ぐし兼ぬべきにあらず。形に人恐れければ、博奕の場ににじり込みて、にぢを言うても、口過ぎなるまじき身体にあらず。
この男、大悪人。十六の夏の夜、妹にあふがせしに、いまだ七歳なれば、手先に力なくて、「団扇の風も、まだるき。」とて、首筋、逆手に取つて投げしに、庭なる石臼の上にあらけなく当たりて、息絶え、脈に頼みなく、当座に露と消えしを、母親歎くに限りなく、その死骸に取りつき、「身も果てん。」と思ひ極めしに、その妹、五つになりしが、童心にも袖にすがり泣き出すに、不憫まさり、前後を見合はす内に、近所の人、「いかに。」と間ひ寄るにぞ、気を取り直し、「時節の怪我なれば、是非なし。」と野辺の送りを急ぎ、その後は隠し済ましぬ。
又、二十七の年、主ある人を横に、車道竹田の里に毎夜通ひしを、母聞き付けて、「命の程も。」と異見するに、或る暁方に帰りて、蹴立てけるに、母はそれより腰抜け、立居も心に任せず、空しく年ふりしに、妹娘、大人しくなり、湯茶をも汲みて孝を尽くしぬ。父親に世を稼がせ、己は楽寝して、朝顔の花、遂に見た事なく、「親仁、世は露の命。」とねめ廻して、「天命知らず。」と人皆、指を指せど、深く憎めど、ままならず。因果は親子の仲、これにも同じ家に置きて、「ない物食はう。」と言ひたい儘に月日を重ね、今といふ今さし詰まりて、一日を暮らし兼ね、水を湯になす生柴もなかりき。同じ枕に最後を極めぬ。
かかる時にも、母親、娘を悲しみ、人置の嚊を招き、内証を語り、「これが命を助け、問屋町のよろしき方へ奉公に」頼みければ、人置も袖を絞り、「十分一は取らずに済まし申すべき。」と連れ行くに、足立たずして、やうやう負うて行くにぞ涙なる。智恵はあれども小さくして、銀貸す旦那なければ、「我ばかり身を助かりて、詮なし。」と又、親元へ帰り、かの嚊にささやきしは、「みづから賤しき形ながら、それぞれの勤めもあれば、傾城屋に身を売る事は。」と言ふにぞ、心ざし優しく、「いづれの道にも親達のためなれば。」とて、嶋原の一文字屋とかやへ連れ行きしに、子細を聞きて、情けをかけ、「女は、さもなけれど、その心根、末々頼もし。」と金子二十両、定めの年季にして貸しける。
伏見に帰り、この金、親に渡せば、「世は類はあれども、子に身を売らせ、その金にて年とる事は。」と歎くを、人置、色々諌めて戻りし。後にて、子ながら思ひ入れを嬉しく、明くれば十二月二十九日、よろづの買ひ物、心当てしけるに、この事を聞き付け、商人の習ひなれば、米屋よりは一俵、庭に運ぶ。味噌、塩、酒屋より持ちかけ、久しく音信不通の肴屋も、「御用はなきか。」と尋ね来り、少しの内に、「銀ほど自由なる物は無し。」と喜びしその夜、惣領の文太左衛門、二十両の金子を盗み出し、行き方知れずなりにき。程なく明けて大年なれど、この仕合せなれば、買ひ懸かり済ますべきやうもなく、皆々取り返されて、又、夢の間の昔になりぬ。
今は是非なく、夫婦、宿を忍び出、又の世の道しるべ、六地蔵のほとりに行きて、高泉和尚の寺近き野原に座を占めて、「遠くは過去慳貪の果なる事を思ひ、近くは求不得苦を観じ、当来を祈らんには。」と仏名繰り返し、舌喰ひ切りて、骸は山犬の物とぞなりける。諸人、文太左衛門を憎み、「この行方、東の方なるべし。逢坂の関を赦すな。」と追つかけしに、粟津の松原より空しく帰りぬ。
知らぬ事とて是非もなし。文太左衛門は、手近なる撞木町に忍び入りて、正月買ひと浮かれ出し、あまた女郎を集め、七草の日まで一歩残らず蒔き散らして、不首尾顕はれ渡り、宇治の里に立ち退きしが、かの二人の親の最後所になりて、足すくみ、様々身を悶えしに、眼眩みて倒れしに、二親の亡骸を喰ひし狼、又出て、夜もすがら嬲り喰ひ、大方ならぬ憂き目を見せて、その骨の節々までを、あまたの狼くはへて、狼谷の街道ばたに又、人形を並べ置きて、文太左衛門が恥を晒させける。
世にかかる不孝の者、例なき物語。恐ろしや、忽ちに天、これを罰し給ふ。慎むべし、慎むべし。
世にかかる不孝の者、例なき物語。恐ろしや、忽ちに天、これを罰し給ふ。慎むべし、慎むべし。
【訳】
桃といふ木は、決まつて貧乏な人のうちに植ゑて、春にはその花の盛りを見せるものである。山城の国の伏見といふ里の墨染といふ所に、昔から墨染桜といふ木があつた。昔は、この桜の花時になると、都の人がここまで来て、花を見て楽しみ、日の暮るるを惜しむのであつた。上戸は言ふまでもなく、下戸の目にさへ、行く春の名残りは惜しまれ、この花の下に来て酒を酌む人が、顔は替はつても毎日沢山集まるのであつた。この一本の桜の木蔭にこぼす酒のしみは、一杯一杯の量は露の雫より少量であつても、積もれば砂の下には酒の川をなして、その根元に流れ込むので、惜しや、桜の木は終にそのために枯れてしまひ、その名のみを残す墨染の水といふのがある。その水は、そこの庭内にあつて、豊臣秀吉公の御茶の湯の水となつた。今は、その水も秀吉公の時代と変はつて、京街道の辻井戸となつてしまひ、そこらの町の様子も次第に寂れてしまつた。
この辺の荒れ果てた家に住んで、世間からは、「火桶の文助」と言はれてゐる男があつた。この男、糊口の業として竹箒を作つて、忙しく日を送つてゐた。風の寒い朝夕にも、その寒さを凌ぐべき衣類も持たず、寒い霜夜を火鉢の火に漸く凌いで、命を繋いでゐたので、付いた名は呼ばれないで、「火桶」「火桶」と世間から呼ばれてゐた。哀れにも、年の暮れになつても、年とりの餅を搗く事もできず、門松立てる事もできず、箒で掃き清めたやうに、薪棚には薪が絶え、まして米櫃には一粒の米もない。世に時めく金持ちの家では、「衣配り」と言つて、多くの衣類を親類などに分配する。丹後の上等の鰤を肴掛に掛けるのを、「羨ましい。」と思つた。夫婦は、もはや年もとつてゐる事だから、かういふ貧乏の辛さを見るのも、「やむを得ない。」と我慢するにしても、せめて子供等に正月の雑煮食べさせる事のできないのは、実に情けない事である。暮らしの安定しないのは、全く厭な事である。
数年来、この里には「早桃」といふ桃の木を植ゑる事が流行して、春の頃、梢に花を持ち、初秋に至つて実の熟するのを待ち兼ねて、まだ紅く色のつかない実の枝にある時分に、京都のその日暮らしの小さな八百屋に売却して、その売価で大分の利を得て、この幾年間か、大晦日を楽に越す事ができたのに、今年は八月二十三日に大風が吹いて、多くの樹木が根から吹き倒された上に、丁度年切れがして、ちつとも実がつかなかつた。これは、世間一体に受けた不幸ではあつたが、早桃を生活の当てにしてゐた彼にとつては、人一倍に悲しかつた。板葺の庇も榑止めの木材ばかり残つて、板は朽ちてしまつたので、その後、時雨の降る日には、不思議にそれまで売り残してあつた長持の蓋を開けて、親子五人、その中に入つて蹲つて居り、蓋の片隅の所には、枕を突つかひにして、息出しにして置いた。その不自由さ、世の中が真つ暗になつたやうに思はれ、「面白くもない命だ。」と悔やむ心も出たが、悔やんだとて何の甲斐もない。
我が家だけれど、「売らう。」と思つても、買ひ手無くて自由にならず、四間間口の家を、いかに何でも、「只で人にくれてやる。」といふわけにはいかない。誰か酒代として、五十匁か三十匁よこしたら遣らうのに、それもない。「もし、この家が京橋の舟乗り場にあつたら、捨て売りにしても六貫目の値打ちはあるのに。あそことここと、十八町隔たつてゐるばかりに、大変の相違だ。」と言つて、場所の良くない事を今更悔やみ、我が身の不運を恨み恨みして日を過ごし、又、行く末の事をも思ひ巡らしては、「万一、将軍様が江戸から京都に上つて来られて、再びこの伏見を居城にでもされる事にでもなれば良い。そしたらこの家も、再び値打ちが出て来るであらう。永久にここは去るまい。」と意地になつた。
この人は、三人の子を持つてゐた。惣領の子は文太左衛門と言つて、今年二十七歳になつた。(年頃も若盛りなる上に、)しかも股から下の長い大男で、生まれついて頬髭があり、眼は光つてゐて、平常の笑つた顔つきも、他の人の喧嘩面よりも恐ろしい。しかも体が逞しいので、天秤棒担いで労働しても、両親を養ふ事のできない男ではない。又、その容貌には人が恐れるので、博奕の場ににじり込んで、ねだり言言つても、商売にならない体つきでない。
ところがこの男、大悪人で、十六歳の夏の或る夜、妹に団扇で煽がせてゐたが、まだ七歳の年若の事ではあり、その手先に力がなくて、「団扇の風がのろい。」といふので、妹の首筋を逆手に掴んで放り投げた。不幸にも、土間の石臼の上に手荒くぶつかつたので、息は絶え、脈もおぼつかなくなり、その場に儚く死んでしまつた。母親の歎きは限りなく、死骸に取り付いて、「自分も死なう。」と思ひ詰めたところに、その妹娘の五歳になるのが、童心にも察したか、母親の袂に取りすがつて泣き出すので、不憫さまさつて暫し躊躇してゐる内に、近所の人達が、「どうした事か。」と尋ね集まつて来たので、気持ちを取り直して、「物の拍子の間違ひから起こつた事であるから、仕方がない。」といふ事にして、葬式を取り急ぎ、その後は隠して、それきりにした。
又、二十七歳の年の事である。亭主持ちの女と非道の契りを結んで、車道竹田の里へ毎夜通うてゐるのを、母親が嗅ぎつけて、「命にかかる危険な悪行だ。やめろ。」と異見をされた。それを怒つて、或る暁方に家に帰つて、母親を蹴つた。母親は、それが元で腰抜けになつてしまはれ、起居も不自由の身になつて、何事もせず年を経過して居つた。妹娘が年にませて、湯茶も汲んでやつて、孝行をしてゐた。父親に働かせて、自分は朝寝して、朝顔の花も終に見た事なく、「親父さん。人の命は朝顔の露のやうに儚いものですよ。働いたところで、何の用にも立ちませぬ。」と睨み廻してゐるので、世間の人達は、「天命知らずの極道め。」と指さしして笑へど、又、深く憎めども、思ふやうにはならない。因果な事には、親子の仲であるから、かういふ不孝者でも、同じ家に置いてやらねばならず、しかも倅は、「ないものまで食はう。」と、言ひたいままの我が儘を言つて、月日を重ねてゐる内に、今といふ今は、いよいよ切羽詰まつて、一日をも暮らしかねるやうな貧乏に陥つて、湯を沸かす生な薪すら無い有様であつた。それで夫婦は、「枕を並べて死なう。」と覚悟を決めてゐた。
かういふ時には、母親は娘の身の上を悲しんで、雇ひ人周旋の嬶を呼んで、家の内情を語り、「どうか、この娘の命を助けて、どこか問屋町の良い家へ、奉公に世話して下さい。」と頼んだところが、嬶も涙に袂を絞つて、「周旋料は頂かずに御世話しませう。」と言つて、娘を連れて行かうとしたが、足が立たないので、漸く肩に担いで行つた。誠に涙ぐましい事である。
この娘は、随分智恵づいては居れども、なりが小さいので、どこの家でも、「前借りを貸して雇はう。」とは言つてくれないので、「前借りができなければ、自分だけが助かる事になる。それでは仕方がない。」と、再び家に帰つてから、娘は嬶にささやいて言ふには、「私は、かういふ賤しい、みつともない器量ではございますが、遊女の勤めにも、色々の勤めがありますから、どうか遊女屋に、この身を売る事はできますまいか。」と言ふので、心根の優しさに感心して、「どちらにしても、親御達への孝行のためですから、それがよからう。」と言つて、嬶は島原の廓の一文字屋といふ遊女屋へ連れて行つた。遊女屋では、詳しい事情を聞いて同情して、「器量は、さして良くはないが、心根には、行く末頼もしいところがある。」と言つて、金子二十両、定めの年季十年として、前借りさしてくれた。嬶が伏見に帰つて、この二十両を両親に渡すと、両親は、「世間にかういふ例はあるけれども、我が子に身を売らせて、その金で年を送る事は厭だ。」と言つて歎くのを、嬶は色々に諌めて、その金を受け取らせた。
その後で両親は、我が子ながら、その孝行の心を嬉しく思ひ、一夜明くれば十二月二十九日の事であるから、あれこれと多くの買ひ物の心当てをして居つた。この噂を聞きつけて、商人の常として、米屋から一俵、土間に運んで来る。味噌や塩を酒屋から送り届ける。久しく疎遠になつてゐた魚屋も、「御用はないか。」と御用聞きに来た。「少しの間に、金のあるとないとで、このやうに違ふ。世間に金ほど自由のきくものはない。」と喜んでゐたその晩、惣領の文太左衛門が、この二十両の金子を盗み出して、どこへ行つたか、行方をくらましてしまつた。程なく夜が明けて大晦日となつたが、この有様で、掛売の支払ひする方法もないので、折角持つて来た品物も、取り返されてしまつて、喜びも只一夜の夢となつてしまつた。
今は何とも仕方がないので、夫婦はひそかに我が家を忍び出て、「死んでから、先の世の道しるべをして下さる。」といふ地蔵菩薩の名にちなむ、六地蔵の辺に行つて、高泉和尚の建てられた仏国寺の近くの野原に坐つて、かかる不幸を見るのも、遠くは過去世に於ける邪慳貪欲の心の応報である事を思ひ、又近くは、この世に於ける求めて得ざる貧の苦を観じて、「未来の救ひを祈るに如くは無い。」と、念仏を繰り返し唱へて、終に舌を食ひ切つて自殺し、死骸は山犬の餌食となつてしまつた。これを見て人々は、文太左衛門の不孝を憎み、「その行方は、きつと東の方に相違ない。逢坂の関を越えさすな。」と、後追つかけたが、とうとう追ひつかず、粟津の松原から引き返して来た。
知らぬ事とて是非もないが、文太左衛門は、伏見の遊廓、撞木町に忍び込んで、遊女の正月買ひをして浮かれ、多くの遊女を揚げて、七草の日までに一分残さず、二十両を綺麗に撒き散らしてしまつた。ここにも、彼の不都合は顕はれて知られたので、宇治に立ち退いたが、彼の両親の最期を遂げられた所に来かかると、足がすくみて歩かれず、色々に身悶えして、とうとう眼も眩みて、倒れてしまつた。そこに、両親の死骸を食つた狼が出て来て、終夜、文太左衛門を嬲り食ひにして、ひどい苦しい目を見せた後で、その骨々を沢山の狼が口にくはえて、大亀谷の道端に、丁度、人間の形の通りに置き並べて、文太左衛門が恥を晒した。
かういふ親不孝者の、例のない不孝物語。恐ろしや、天罰はたちどころに至つたのである。慎むべし、慎むべし。
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