我と身を焦がす釜が淵

【本文】

 黄金の釜の掘り出し、今の世には無かりき。富貴にしても苦あり。貧賤にしても楽しみあり。一切の人間、応ぜぬ分限を願ひ、身を滅ぼす。古例、その数を知らず。
 さざ波や、大津の浦より矢橋に渡す舟長の身は、比叡の山風の灯と危ふく、入相の鐘を聴けば、命の内外の気遣ひ、俄に雲となり雨となる。鏡山も人顔見えず暮れかかり、旅人、心の{*1}急げば、「ここは一勢出し、艪を速めて。」など声々に頼めば、「我、老いの波六十に余れども、今時の若者、拙者が働き、思ひも寄らず。」と諸肌を脱ぎしに、肩先より手首まで切り疵、空き所もなく、枝を深山木の漆の如し。なほ背中に憂き目を見せける。「あれでも死なぬものかな。」と各々横手を打つて、「これは{*2}いかなる故に、かく又、身をあやしめけるぞ。」
 親仁、間はれて涙に袖蓑を浸し、「されば、人間、前生の因果を知らず。某、そもそもは石川五太夫とて、志賀の片里に住みなして、あまたの人馬を抱へ、物作りをして、世の中の秋にあひ、春を送り、しかも一子に五右衛門とて、すぐれたる大力。殊に諸芸に達し、老いの末々頼もしかりしに、己が農作を外に、無用の武芸を嗜み、柔、捕り手を稽古に、闇の夜の巷に出、往来の人を悩ましけるが、後は欲心起こりて、勢田の橋に出て水を呑み、盗跖、長範にまさり、国に盗人の司となり、類に集まる悪人、関寺の番内、坂本の小虎、音羽の石千代、膳所の十六。この四人を始め、その外、鍵外しの長丸、鞴の風之助、穴掘りの団八、縄すべりの猿松、窓くぐりの軽太夫、格子崩しの鉄伝、猫の真似の闇右衛門、隠し松明の千吉、白刃取りの早若。これらをそれぞれの役分して、近在所々に入りて、夜毎に寝耳を驚かし、万人の煩ひとなりぬ。
 「この事、次第につのれば、『天の咎め、世の穿鑿、いかなる憂き目にあひつらん。』と頻りに異見するに、かへつて仇をなし、現在の親に縄をかけ、『それにて思ひ知れ。』と捨て置き、己が宝を己と盗み、眷属召し連れ都の方に{*3}行きける。その後にて、日頃五右衛門に恨み深き狼籍者乱れ入り、『子の代はりに、この親を死なぬ程切れ、切れ。』と、この如く身を苛まれ、これにも惜しきは命。世の業替へて、生死の海の渡し舟。」
 「さりとはさりとは悲しき物語」の内に、舳先、岸に着けば、各々上がり、「かかる悪人もあるものぞ。天竺阿闍世、唐土の悪王にも劣らじ。」と、皆々涙になりて別れし。
 かの五右衛門は、都にて白昼に、鑓を三人、並びの手振りを先に立て、その身は乗り馬、後より挟箱持、沓籠。歴々の待と見せて見分に廻り、大盗みの手立てをして、仲間に子細あれば大仏の鐘を撞きならし、これ相図に集まり、己は六波羅の高薮の内に隠れゐて、「ここ、夜盗の学校。」と定め、命冥加のある盗人に、この一通り指南をさせ、前髪立の野良には巾着切を教へ、大胆者には追剥の働きを習はせ、人体らしき者には騙りの大事を伝へ、里育ちの者には木綿を盗ませ、色々四十八手の伝授を、印可までこの道修行するこそうたてけれ。後は、三百余人の組下、石川が掟を背き、昼夜分かちもなく京都を騒がせ、程なく搦め捕られ、世の見せしめに七條河原に引き出され{*4}、大釜に油を焚き立て、これに親子を入れて煮られにける{*5}。
 その身の熱さを七歳になる子に払ひ、とても遁れぬ今の間なるに、一子を我が下に敷きけるを、見し人笑へば、「不憫さに、最後を急ぐ。」と言へり。「おのれ、その弁へあらば、かくは成るまじ。親に縄かけし酬い、目前の火宅。なほ又の世は火の車、鬼の引き肴になるべし。」と、これを憎まざるは無し。

【訳】

 黄金の釜を掘り出したといふ、支那の二十四孝中の郭巨のやうな孝行者の例は、当世にはない。富貴の者にも苦しみはあり、貧賤の者にも楽しみはある。全ての人間、「自分の身分に不相応な富貴になりたい。」と願ふ、その欲心から、かへつて身を滅ぼす例は、昔から少なくない。
 近江の大津の港から琵琶湖を矢橋に渡す、渡し船の船頭の身の上は、譬へば比叡山風の前に置く灯の如く、いつ消えるかわからぬ、危ふいものである。入相の寺の鐘を聞けば、「今日の命はまづ無事であつたが、明日の命は測り難い。」と心配する。今まで良かつた今日の天気も、俄に雲が出て雨となつて、日も暮れかかれば、鏡山も見えず、人顔も見えぬやうになるので、乗合船の客達は皆心急ぎして、船頭に向つて、「ここは船頭殿、一精出して、艪を速めて漕いで欲しい。」などと頼むと、船頭は、「私も年取つて、既に六十を越えては居れど、今時の若い人は、私程の働きは思ひも寄りません。」と言つて、諸肌脱いだところを見ると、肩先から手首にかけて、切り疵が空き所もないやうに一杯で、譬へば、かの深山にある漆の木の枝のやうであつた。その上に、背中にも又大傷の痕があつた。「あれほど傷を受けても、よくも死なぬものだ。」と乗客一同、横手を打つて感じ、「これは又どうしたわけで、これ程に身を危ふくなされたか。」と問うた。
 問はれて親父は、着てゐた袖蓑を涙に浸しながら答へた。「さて人間といふ者は、前生からどういふ因果の糸を引いて生まれて来るか知らぬが、私は元、石川五太夫と申して、志賀の片ほとりに住んで、幾多の人馬を抱へ持つて農作を致し、秋の収穫を得て春秋を送り、豊かに暮らして居りました。しかも一子の後嗣もあり、五右衛門と申して、人にすぐれた大力者で、殊に諸芸にも上達してゐたので、私も老後を頼もしく存じてゐましたところ、この子は自分の仕事の百姓仕事を嫌つて、農家には無用な武芸を好み、柔や捕つ手の術を稽古して、闇の夜の街頭に出て、往来の人を投げたりなどしていぢめてゐましたが、後は人をいぢめるばかりでなく、欲心を起こして、瀬田の橋に出て、人目を忍んで悪事を働き、盗跖や熊坂長範にもまさる大盗賊と成り、遂に国の盗賊の首領となりました。
 「類を以て集まる悪人どもには、関寺の番内、坂本の小虎、音羽の石千代、膳所の十六の四人を初めとして、その外、鍵外しの長丸、ふいごの風之助、穴掘りの団八、縄滑りの猿松、窓くぐりの軽太夫、格子崩しの鉄伝、猫の真似の闇右衛門、隠し松明の千吉、白刃取りの早若といふやうな手下の者どもに、それぞれの役目をあてがつて、近在所々に押し入りをして、毎夜毎夜、所の人の寝耳を驚かして、多くの人の煩ひとなつてゐました。「かかる悪行が次第に募つたら、終には天の咎めを受け、世間の穿鑿にあつて、いかなる憂き目を見る事ともなるであらう。」と色々に異見をしましたが、その情けを仇にして、真身の親に縄をかけて、「これで思ひ知れ。」と言つて、そのままに捨て置いて、自分の家の財宝を自分で盗み、配下の者どもを連れて、京都の方に行つてしまひました。
 「その後で、かねて五右衛門に怨みを抱いてゐた乱暴者どもが、我が家に乱入して来て、「子の五右衛門の代はりに、この親を死なぬ程度に切つてやれ。」と言つて、かくの如く私の体を切つて苦しめた。かく切り苛まれても、人間にとつて命は大事だから、死にもされず、これまでの生業の農業をやめて、命を的の、海を渡る危険な職の船頭になつた。」と語つた。さてもさても、悲しい話。
 この悲しい話の内に、船が岸に着いたので、乗客達一同、陸上に上がりかかり、「これ程の悪人も、あればあるものだ。天竺の阿闍世太子や、支那の悪王にも劣るまい。」と言つて一同、涙を流して袂を分かつた。
 かの五右衛門は、郷里を去つてから京都に出て、日中は三人の鑓持を先に立て、その後から自分は馬に乗つて行き、又、後には挟箱持、沓籠持を連れて、立派な武士と見せて道を通り、夜盗みに押し入るべき家々を見て廻つた。もし仲間内に何か事でも起これば、大仏の鐘を撞いて、それを合図に集まる事に決めておき、自身は六波羅の竹藪の中を隠れ場所にして、ここを盗人のための学校にして、命の仕合せの良い配下の盗人を教師にして、盗みの術一通りを教授させた。十八、九歳の若い野郎には掏摸の術を教へ、豪胆に生まれついた者には追剥の法を習はせ、真面目さうに見える男には詐欺の手段を伝授し、田舎育ちの者には畑の木綿を盗ませ、かく盗賊の様々の手段の秘奥まで教へて、修行させるのであつた。誠に浅ましい事である。後は、三百余人の配下の者ども、五右衛門の指図に違背して、昼夜の分かちもなく京都中を騒がせ、乱暴を働くので、とうとう五右衛門も、その筋の手に召し捕られ、世間の見せしめに、七條河原に引き出されて、大釜に油をたぎらせた中に五右衛門親子を入れて、煮殺される事になつた。
 この場になつても五右衛門は、我が身の熱さの苦しさを暫くでも逃れようと、その子を我が下敷きにしたのを、見物の人々が嘲笑すると、「我が子の不憫さに、一刻も早く死なさうとするのだ。」と負け惜しみの言ひ訳をした。「自身に子のためを思ふ、さうした親心があつたら、かういふ浅ましい身には成り果てはすまい。親に縄をかけて苦しめた報いとして、すぐに現世に於いて、かく油に煮られる刑になつたのである。なほ来世では地獄に墜ちて、火の車に乗せられ、鬼の食物にもなるだらう。」と言つて、五右衛門を憎まない者はない。

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校訂者註
 1:底本は、「心いそげば」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「是を」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「方(かた)にに行ける。」。『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
 4:底本は、「搦捕(からめとら)れ。大釜(おほがま)に」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「煎(にら)れける。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。