人は知れぬ国の土仏

【本文】

 御経にも、「命は水上の泡の如し。」とあり。浪は風の立たせ、人は友の騒がしぬ。
 伊勢の国鳥羽といふ大湊に、出崎の藤内とて、貧家に煙を立て、海人の手業の釣針の鍛冶住みしが、藤助と名付けて一人の子を持ち、老いの立ち居の助かり、粗金の槌を打たせ、かかる浮世習ひにて、親は憐み、子は孝を尽くすを道なり。
 この浦辺に近年の出来分限、神部屋と言へる人、仕合丸とて大船を作りて、大廻しの江戸商ひ。この舟の上乗りに若き者の抱へられしに、藤助、家職を捨ててこれを望みしを、二人の親、深く歎き、「身過ぎは様々なり。万里の海上を行く事、一つの命を二つ物がけ。是非に思ひとどまれ。」と、大方ならず旅の名残を惜しみ、死に別るるが如く、涙は目の前の海とも成りぬ。この有様を構はず、「東路見るためなれば、この度ばかり。」と出て行く。
 その後は、風の夕暮、雨の朝を物案じして、諸神に大願、諸仏に歩みを運び、後世を忘れて現世を祈り、我が子の無事願ひしに、明くる年の春の風、舟は異なく湊に着きて、再び顔を見し事、悦びの酒の上に様々の誓言にて、「親たる人の心を背くなれば、重ねては思ひ寄らぬ舟の上。」と言葉にて安堵させしが、心底には中々思ひとどまる事にあらず。
 欲は人の常なり、恋は人の外なり。最前下りし時、伊豆の下田に舟がかりせしに、その苫の屋の女に仮初の誓ひして、古郷の住まひを捨て、各々に暇乞ひなしに、出船あるを幸ひに乗り行く。
 折節は、中の秋空恐ろしく、雲の叢立ちけるが、日和見も定めなく、この舟、沖に出ると、寅の刻より大風吹き暮れ、九日流され、月の光に昼夜の分かちをやうやうに覚え、夢心になつて行く程に、浅瀬に舟底さはると思ふ時、皆々魂を取り直し、目を開きて見しに、国里の草の形はありて、蘆の枯れ葉の芭蕉の如くなる中に、二角、後へ生へる獣。これぞ水牛ならめ。その外、人形ありて羽のある物。声はさながら犬にして、一丈余り、耳の長き物。一つも目馴れず物すごく、近づくに身を縮めける。山も里も見る事絶えて、船中三十二人、男泣きにして暮れぬ。
 米はあれども水を切らし、咽乾けば、伊丹、鴻之池の四斗入を酌み交はし、この中にても酔ひに憂きを忘れ、鹿の巻筆の小歌唄へば、観音経読むもあり。六字南無右衛門節の浄瑠璃を語るもあり。下戸は荷物開けて、旅硯に露を注ぎ、願状を書きぬ。又は{*1}一歩小判を取り出し、「四、五年に折角延ばしける甲斐なし。」と算用してゐるもあり。今果つべきも知らぬ命の内に、「足がさはつた。」と口論をする機嫌もあり。来年の正月の事を言ふもあり。人の心は様々に変はれど、この舟ここを去らぬ難儀、思ひ出せば惣泣きに、哀れは問ふ人もなく、伏し沈みぬ。
 なほ立波荒く、生臭き風吹きて、又この舟を散らし、遥かなる磯辺に着きて、岩組に上がれば、清き流れの幾筋かありて、これを掬び上げ、舟にも貯へをして命を繋ぎぬ。心静かに眺めければ、諸木、五色の枝を垂れ、玉敷く光に驚き、「我も我も。」と拾ひしに、不思議や、老いたる社人顕はれ、「一つも取る事、愚かなれ。やれ、舟に乗れ。」と有難き教へに任せけるに、藤助ばかり聞き入れず、玉拾ふ内に、どつと吹き来るは、これ神風ならん。波路、心に任せ、子細なく伊勢の大淀の浜に戻りて、藤助が身の上語りければ、夫婦の人、焦がれ泣き、五歳余り待ち侘び、二人共に儚く成りぬ。
 かの藤助は、島に残されありしを、見馴れぬ唐人あまた来り{*2}、取り囲みて連れ帰り、鉄門の厳しき人家に入りて、銅の柱に貫き通せし中程に、さかさまに吊り揚げ、手足の筋を取りて人油を絞られしは、生を替へずに地獄の責めに遭ひぬ。弱れば薬を与へて、生けつ殺しつ日数経る内に、日本より渡唐の僧、四百余州を巡りてこの所に来り、暫したたずみ、この有様を見給ふに、藤助、昔の形は眼ばかり動きて、右の小指を食ひ切り、左の袂に心の程を書きて見せける。「自らは、生国勢州鳥羽の湊、藤助と言ふ者なり。思はざる難風に逢ひて、ここに流され、かかる憂き事に身を責めらるるは悲し。この所は纐纈城とて恐ろしき国なれば、命をとられ給ふな。」と書き付けて見せしに驚き、ここを立ち退き、修行の後、帰朝し給ひ、この里に来りて、この物語あそばしける。
 聞く人、涙にくれて、「この藤助が身の難儀は皆、親の言葉を背きし罰ならん。」と思ひやりぬ。

【訳】

 仏教の経文の中に、「人の命は、水上に浮く泡のやうに消え易く、儚いものである。」といふ意味の事が述べてある。浪の立つのは風のためであり、人の心を騒がすものは、その友のためである。伊勢の国鳥羽といふ大きな港に、出崎の藤内といふ者があつて、貧乏に暮らしてゐた。その職業は、漁夫の使ふ釣針を造る鍛冶屋であつた。この者に藤助といふ一人の息子があつたが、老後の仕事の助手として、相鎚を打たせてゐた。この世の習ひとして、かく親は子を憐れみ、子は親に孝を尽くすを、人の道とするのである。
 この鳥羽の浦辺に、近年俄に金持ちになつた神部屋といふ人が居た。仕合丸といふ大きな船を造つて、遠方の江戸まで廻漕させて商ひをした。この仕合丸の上乗りに、歳の若い者を雇ひ入れる事になつて、藤助がそれを望み、「鍛冶の職を捨てて、行きたい。」と言ひ出した。両親は、ひどくこれを歎いて、「渡世の業は色々あるのに、遠い遠い海に出る事は、たつた一つの生命を、乗るかそるかの冒険をするのは、よろしくない。是非断念せよ{*3}。」と言ひ、倅の旅に出る事に名残を惜しんで、死に別れでもするやうに、ひどく泣かれた。それにも構はず藤助は、「江戸の様子を見に行くのであるから、この度だけは許して下さい。」と言つて出て行つた。
 倅が出て行つた後は、風の吹く夕、雨の降る朝につけて、両親は倅の身の上を心配して、諸々の神に祈願し、又、諸方の仏にも参詣し、自分の後世の助かる願ひはよそにして、倅の無事ばかりを祈つてゐた。すると、翌年の春になつて、この倅の乗つた船は、何の災ひもなく鳥羽の港に帰着した。親子は、再び顔を見る事のできた事を喜び、祝ひの酒を酌み交はした上、倅は誓言の上で、「もう二度と航海に出る事は、両親の意に背く事だから、思ひ止まる。」と、言葉の上では両親を安心させたが、心の底では、容易に思ひ止まる事ではなかつた。
 さて、欲心は人々の常であり、恋は人の心の外である。この倅も、この前、江戸に下つた時、伊豆の下田の港に碇泊してゐた際に、この港の貧しい家の女と仮初の契りを結んで、夫婦の誓ひをしてゐたので、故郷の鳥羽の住まひを捨て、人々に暇乞ひもしないで、出帆する船のあるのを幸ひに、便乗して行つた。
 その時節は、秋の半ばにあたつて、空模様恐ろしく、雲が叢々と立ち込めてゐて、天候も見定める事ができなかつた。この船が沖の方に出ると、午前四時頃から大風が吹き出し、毎日吹き続いて、九日間漂流してゐたが、月の光の時々見えたので、漸く昼夜の区別を知り、夢のやうな心持ちになつて行く内に、船の底の浅瀬に触るのを感じて、乗組一同、漸く魂を取り戻して、目を開けて見ると、故郷で見たと草の形に違ひは無けれど、葦の枯れ葉がまるで芭蕉の葉のやうに大きい。その葦の中に、二つの角の後ろに生えてゐる獣が居る。これが、話に聞いてゐた水牛であらう。その外に、人間の形をして翼の生えた物が居る。声を聞くと犬の声そのままで、形は一丈ばかりもある、耳の長い物が居る。一つとして目馴れた物は無く、それらが近づいて来るので、恐ろしさに身を縮めた。山もなければ里もないので、船中三十二人の乗合皆、男泣きに泣いて日を暮らした。
 米は貯へが残つて居れども、水は使ひ果たし、喉の渇きを覚ゆれば、せん方なく積荷の四斗樽の酒を飲んで、かうした災難の際にも、せめて酒の酔ひで憂さを忘れて、鹿の巻筆の小唄を歌ふ者もあれば、観音経を読誦する者もあれば、六字南無右衛門節の浄瑠璃を語る者もある。下戸の者は、酒は飲めぬので、荷物を開けて、旅行用の硯に露の雫を注ぎ入れて、神仏への願状を書く者もあり、又は、一歩金を取り出して、「四、五年もかかつて折角これだけ貯めたのに、かういふ災難に遭つて、何の甲斐もなくなつた。」と言ひながら、勘定してゐる者もある。「今にも死ぬか知れない。」といふ際に、「ちょつと足が触つた。」と言つては、怒つて口論をする機嫌買ひもある。来年の正月の事を言ひ出す者もある。人の心は様々で、かく言ふ事なす事違つてはゐるが、この舟がここを離れず、故郷へも帰る事のできない儚さを思ひ出しては、総泣きに泣くその哀れさを、尋ねてくれる人もないので、人々はそこに泣き伏した。
 なほ波が荒く立つて、生臭い風が吹いて、この浅瀬に坐つた船を吹き散らし、吹き流して、又遠方の海岸に吹き着けた。海岸に散らばつてゐる岩の上に上がると、清い水が幾筋か流れてゐたので、「これ幸ひ。」と手に掬ひ上げて飲んだ上に、船にも貯へて、これで命を繋ぐ事ができた。さて、心を鎮めて四辺を眺めて見ると、色々の木があつて、五色の色した枝を垂れて居り、石といふ石は、玉の光を放つてゐるのに驚き、「我も我も。」と拾ひ集めてゐると、不思議にも年老いた神主の様をした人が現れて、「その石、一つも取つてはいけない。やい、船に乗れ。」と仰せられた。一同は、この有り難い教へに従つたが、藤助だけはそれを聞き入れず、やはり玉を拾つてゐると、どつと吹き出した風は、これ、神風と言ふのであらう。この風に吹かれて、船は風波穏やかな海上を、無事に伊勢の国の大淀の浜に戻つて来た。藤助だけ、見知らぬ浜辺に取り残された話をすると、両親は我が子を恋ひ焦がれ、泣き暮らして五年過ぎたが、とうとう待ち侘びて、二人とも死んでしまつた。
 かの藤助が只一人、島に取り残されてゐるのを、見馴れぬ外国人と見ゆる者が沢山来て、彼を取り巻いて連れて帰り、厳しい厳重な鉄門を以て堅めた家に連れ込み、銅の大きな柱に貫きを通してある、その貫きの中程に彼をさかさまに吊り下げて、手足の筋を切つて、人油を絞つた。これは全く、この世ながらの地獄の責めと言ふべきであつた。弱つて来ると、薬を飲ませて元気づけて、又絞る。
 かうして生けたり殺したりして、日数を経る内に、渡唐した日本の或る坊さんが、唐四百余州を巡つて、ここに来かかり、暫く立ち止まつて、この悲惨な有様を見てゐた。藤助は、昔の姿形は無く、変はり果てて、只目ばかり動いて、口もきけないでゐたが、やうやう右の小指を食ひ切つて、左の袂に心の内を書いて、この坊さんに見せた。「自分は、伊勢の鳥羽の港の生まれ、藤助といふ者であります。意外な難風にあつて、ここに漂着しまして、かういふ憂き難儀を見て居ります事、誠に悲しい事であります。ここは、纐纈城と申す恐ろしい所でありますから、あなたも命を取られなさるな。」といふ事を、血で認めて見せると、かの坊さんもびつくりして、ここを立ち退いて、それから方々修行して日本へ帰られ、鳥羽に来て、この話をされた。
 話を聞いた人は皆、涙にくれて、「この藤助が、知らぬ国でかういふ難儀にあつたのも、これ全く、両親の言葉に背いて親不孝をした天罰であらう。」と、遥かに不憫に思ひやつた。

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校訂者註
 1:底本は、「又一歩」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「来りて」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「断念せろ。」。