親子五人仍つて書き置き件の如し
【本文】
人は皆、煙の種。富士の山烈しき風病はやりて、難儀を駿河の町に医師暇なく、旦那寺の門を敲き、無常はいつを定め難し。折節の寒空にも、経惟子一重を浮世の旅衣。
ここに、呉服町二丁目に虎屋善左衛門とて、分限、国中に沙汰し、棟高き家あり。年栄えし{*1}時より法体しての十徳、名を善入と呼ばれて、何の役なし坊と成りぬ。惣領を善右衛門、これに家督を渡し、二男善助には殿方の商ひ、三男善吉に町屋、善八に寺方と、それぞれに商売の道筋をつけ、いづれも若盛りにして、器用にすぐれ、笛、鼓、太鼓を並べて、朝暮座敷能を、善入、太夫をし給へば、四人の子ども、囃子方を勤め、手代あまたあれば、ワキ、ツレ、地謡まで家内にて仕舞ひ、歓楽並びなく、いつ年の寄るべきものとも知らぬ身の、夕暮より風心と、少しの事の覚め難く、色々医術を尽くす験気もなく、次第弱りの枕に、四人の子、御機嫌の程を窺ひけるは、又もなく美々しく、人は、病家を他人に見せけるは、悲しきものなり。かかる時節には、妻子ならでは頼みなし。
善入、「浮世の限り。」と思ひ定め、「書き置き状を残さん。」と、四人の子ども、近く寄せ、通ひ口の戸を閉めて、「我、この度絶命なれば、申し置く事、外になし。兄善右衛門を親にして、我に随ひし如く、何によらず、少しも背く事なかれ。さて、世間を思ひ廻すに、見分よりない物は、金銀なり。この家、久しく栄えて、外よりの思はくには、五万両もあるべきやうに見ゆベし。汝等先として、頼もしく思ふべけれど、人には聞かせぬ事、さりとは格別の内証なり。内蔵の鍵渡すなれば、諸道具改むべし。我が名跡を継がせぬれば、この屋敷、万事をこのまま善右衛門にとらすなり。有銀は、甲乙なしに四つに分けて譲るなり。
「ここに秘密の内談あり。手前よろしき人には、大分の金銀をも預け、縁組のためにもなり、かれこれ勝手の良き多し。それによつて、我、分別して、世の聞こえばかりに、無い金子を書き置きする事ぞ。必ず、心にて済ますべし。漸々、小判二千両ならでは、浅間を誓文にて、外に無し。これを八千両にして、『一人に二千両づつ。』と書き置くなり。無用の僭上なれども、人間は外聞。」と申されければ、いづれも御心ざしに涙を流し、「たとへ御譲りなきとても、願ひ申すにあらず。自然御死去あそばすとも、兄、親の事なれば、随分御心に随ひ、世渡りを精に入れ、末々繁昌になし申すべし。」と、言葉を揃へて申しければ、善入、嬉しく、「今は思ひ残す事もなし。」とて、この通りに遺言状を認め、それより四、五日過ぎて、極まる往生を各々悲しみ、野辺の送り、花を降らし、「死に光り」とや、提灯、道を輝かし、葬礼までを人羨みける。地獄極楽の道も、銭ぞかし。
四十九日までの弔ひ、諸僧の経の声絶えず。人皆、これを殊勝に思ひしに、二男善助、七日もたたぬ内より悪心起こり、香花をも取らず、十露盤枕にして思案を巡らし、善吉、善八を招き、「この程つくづく思ふに、いかにしてもこの家に二千両ばかりの有り金、世上にも誠にせぬ事なり。これは善右衛門、親仁をたらし、かくは書き置きをさせける。八千両金子あるに極まりし事なり。その上、大分の道具を取るなれば、是非、書き置きの通り、金子請け取れ。」と申し出せば、欲に目の見えぬ若者進みて、「段々親仁、仕方悪し。兄顔をして、善右衛門憎し。書き置きを証拠に、この金子請け取れ。」と、後先構はず談合しめ、この通り申せば、善右衛門驚き、「その方皆々相対にて、親仁、世にまします時、よくよく合点して、今更かやうに申すは、いかなる事ぞ。人に聞かすな、心元なし。」と言へば、三人、顔色変へて、「何か隠す事には非ず。親の遺言の通りに、金子渡し給へ。」と、詮議に及ばず責め付けられ、善右衛門身にしては、さても悲しく、「親の恥を顕はし、又断り申せば、家の滅亡。色々異見させても、中々聞き入るる気色もなし。証文の立つ世上なれば、是非もなき仕合せなり。由なき外聞を思し召しての跡職、忽ち難儀となり、我一人の迷惑。おのれらも、了簡の上にてこの首尾に済まし、偽りなき某を疑ふ事、天命遁るべきか。これを思ふに、大方ならぬ因果なり。世に長らへて嬉しからず。」と思ひ究め、「親の名を下す事、後の世までの不孝なり。命惜しからじ。」と、夜更けて宿忍び出、親達の墓に参り、この段々を歎き、卵塔の水舟に腰を掛け、四十二の十一月五日の明け方に、腹掻き割いて、夢とは成りぬ。
野寺の坊主、告げ来りて、又もや愁へに沈みぬ。中にも善右衛門妻の歎き、理。せめて哀れにこそ。三人の弟ども、他の人の顔して、「死にたはけ。」と申しなし、乱気の沙汰に成りて済みぬ。その後、三人の者、蔵の鍵請け取り、吟味をするに、小判二千両の外に無し。この行方の詮議、やむ事なく、その夜は三人ながら、蔵なる金戸棚の前に臥しける。
夜半に善右衛門、面影を顕はし、我が女房に心を残さず、まざまざと語りければ、夢の内にも胸を定め、目覚めてなほ一念やめず。枕にかけし長刀取り伸べ、蔵に駆け入り、善助、善吉、善八を漏らさず切り据ゑ、二歳に成りし男子を、乳母が添へ乳をせし懐より取り出し、自害せられし善右衛門脇差を持ち添へさせ、「目前に親の敵。討つぞ。」と、三人共にとどめ刺し、この事、乳母に語り置き、その身も心刺し通し、消えける。露の世の朝の霜、これ程はかなき事は無し。子細聞き伝へて、弟三人の大悪を憎み、兄の心底推し測りて、見ぬ人までも袖をひたしける。その後は、二つ子の善太郎にしらせけるとなり。
家栄え、家滅ぶるも皆、これ人の孝と不孝とにありける。
【訳】
人は皆、一度は死んで、火葬の煙となつてしまふべきものである。
或る年、駿河の国府の町に、烈しく風邪の病がはやつて、人々が難儀を致した。町医者達は治療に暇なく、又、ひつきりなしに旦那寺の門を叩いて、葬礼を頼みに人が来るといふ有様であつた。人間の無常は、いつを死期とは定め難い事である。寒中の時節にも、死人は経帷子一枚を、浮世から冥途への旅衣とするものである。
ここに、呉服町二丁目に虎屋善左衛門と言つて、大金持ちといふ評判の国中に聞こえた、棟の高い立派な家屋敷があつた。老体になる前から法体して、隠居の身の上となり、身には十徳を着、名は善入と改めて、今は世に何といふ仕事もない、閑散な身であつた。
惣領の子を善右衛門と言つた。この子に家督を譲り、次男の善助には武家屋敷方面、三男の善吉には町家方面、四男の善八には寺方面と、それぞれに商売の道筋を分けてつけてやつた。この子供達、いづれも若盛りであり、しかも物事に器用で、笛、鼓、太鼓等の技芸に優れて上達してゐたので、朝に夕に座敷能を催して、善入が太夫役を勤めて舞はれると、四人の子達は囃子方の役を勤める。又、手代も沢山居たので、これらの中でワキ役、ツレ役、地謡の役まで勤めて、家内中の人達で事は済んだ。歓楽この上もなくおぼえて、いつ年が寄るとも知らないやうな、結構な身の上であつたが、或る日の夕刻から風邪気味で、少しばかりの熱が冷めず、色々と医者の手にかけて療治を尽くしたが、更にしるし見えず、次第次第に弱つて行つた。枕元には四人の子達が付いてゐて、様子を見、看護をしてゐたのは、又なき麗しい事であつた。一体、病室を他人に見せる(病人を看護させる)のは、悲しい事である。病気の折は、他人の手では駄目である。どうしても妻子の手でなくては、満足でないものである。
善入は、「もはや快癒は覚束ない。」と覚悟して、「遺言状を遺さう。」と思ひ、四人の子供を枕辺近く呼び寄せ、通ひ口の戸を閉めさせて言ふやう、「俺も今度は最期と思ふから、申し置かうと思ふが、それは外でない。俺が万一の後は、兄の善右衛門を親と思うて、これまで俺に従つたやうに、何によらず兄の指図を受けて、少しも背くなよ。さて、世間を見渡して見ると、外から見るやうにないものは、金だ。この家も、久しく繁盛してゐるので、世間では、『五万両もあらう。』と思ふであらう。お前らを初めとして、頼もしく思ふだらうが、人には決して聞かせるな。それは、実際とは大変な相違である。今、内蔵の鍵を渡すから、諸道具一切、調べて見るが良い。俺の名跡を継がせるから、この家屋敷は全てこのまま、惣領の善右衛門に取らせるぞ。現金は甲乙の差なく、四人の兄弟に平分して譲るのぢや。
「それに、極秘密の相談がある。資産のしつかりした家には、世間から沢山の金銀の預け入れもするし、又、良い家と縁組もできるし、かれこれ都合の良い事が多い。それで、俺も考へて、只世間への見せかけばかりに、無い金高を遺言状の中に書いておくぞ。必ず心の内だけにしておけ。家の現金は、小判で二千両の他はない。浅間様に誓文立てて言ふ、これには決して嘘偽りは無い。それを、遺言状には「八千両」にしておいて、「お前達一人前、二千両の遺産。」と書いて置く。これは、無用な見栄だけれども、見栄といふものは、大切なものだ。」と言はれた。四人の子供達も皆、父親の有り難い心に感じて、涙を流して、「たとひ御遺産を頂戴しなくても、こちらからお願ひ申すべきものではございません。万一の事がありましても、兄は親同然の者でございますから、随分心がけてその心に従ひ、渡世の事に勉強致し、行く末はこの家を繁昌させませう。」と言葉を揃へて申した。これを聞いて、善入も嬉しく思ひ、「今は何も思ひ残す事はない。」と言つて、右の通りの遺言状を認めて、それから四、五日して、天命尽きて往生を遂げられた。一同悲しみ、野辺の送りを立派にした。「死に光り」と言はうか、提灯は道を輝かすばかりであつたので、葬式までを世間では羨んだ。
地獄に行くか極楽へ行くか、冥途の道の定まるのも、金銀次第である。四十九日の法事まで、諸僧の読み上げる御経の声が絶えないやうに、丁寧に営んだのを、世間の人達は、「親孝行な事。」と感心してゐた。ところが、次男善助が、それから七日を経たぬ内に悪心を起こして、位牌の前に香を焚き花を供ふる事すらせず、算盤を枕にして色々考へた上、善吉、善八の両人の弟を招き、言ふやう、「先日からつくづくと考へて見るに、この家にたつた二千両の現金しかないといふ事は、世間でも誰も本当にはしない事だ。これは、兄貴の善右衛門が親父さんを騙して、あんな嘘の遺言をさせたものに相違ない。実際は、遺書の表にある通り、八千両あるに極つてゐる。兄貴は現金ばかりか、その上に沢山の道具までも譲り受けるのだから、我々は遺書の表通りに、二千両づつ受け取らうではないか。」と言ひ出した。
すると、欲に目のくらんだ若い者の事とて、進み出て言ふやう、「これまでの親父殿の段々の仕方が間違つてゐる。兄貴顔をした善右衛門が憎い。書き置きを証拠として、その表通りの金額を受け取らう。」と、事の結果も構はず相談を決めて、その通り善右衛門に申し出たので、善右衛門は驚いて、「お前達も立ち合ひの上で、親父様がまだ御在世の内に、よくよく御熟考なされた上で、かういふ遺言状を御作りになつた事を、よく承知してゐながら、今更そんな無法な事を申し出すとは何事だ。そんな事を、決して他人には聞かせるな。それが心配だ。」と言ふと、三人の弟達は顔色を変へて、「何も隠す事はありません。親父様の遺言の通りに金子を渡して下さい。」と、言句なしに責め付けて請求され、善右衛門の身にしては、さても悲しい事である。
「かうして親の恥を世間にさらし、又、出る所へ出て訴へれば、家の滅亡ともなる。人に頼んで異見して貰つても、到底聞き入れて心を翻す様子もない。証文が口をきく世の中であるから、親父様の遺言状がある以上、やむを得ない事である。つまらぬ世間の外聞を御考へになつて、御亡くなりになつた後の遺産の処置をつけようとなさつたのが、かへつてかう急にうちの難儀となつて、自分だけが迷惑を受ける始末となつた。自分等もよく承知の上で、一応事を済ましておきながら、偽りのない俺を疑うて、天罰逃るる事のできると思ふか。これを思へば、これは一通りならぬ我が身の因果といふものだ。この上は、世間に生き長らへても嬉しくはない。」と思ひ極めて、「かうして親の名を汚す事は、この世ばかりでなく、後世までの親不孝である。かうなつては、命も惜しくはない。」と、その夜更けてから我が家を忍び出、親達の墓参りをして、弟達の悪事の次第をかこち、墓石の水入れの上に腰掛けて、四十二歳の十一月五日の夜の明け方に、我と我が腹を掻き裂いて、一生を夢と散り果てた。
野寺の僧がこれを見つけて、善右衛門の家に知らせて来たので、父親の亡くなられてから、再びこの不幸の歎きに沈む事となつた。歎く人々の中でも、善右衛門の妻の歎きはひとしほで、それも誠に道理千万の事で、可哀さうな事であつた。然るに三人の弟達は、他人のやうな平気な顔つきして、「馬鹿な死に方をしたものだ。」と言ひ、「善右衛門は発狂して死んだ。」といふ事になつて済んだ。
その後、三人の弟達が蔵の鍵を受け取つて、蔵の中に入つて吟味をしたが、やはり二千両の小判以外には、現金はなかつた。「どうした事だらう。確かに八千両ある筈だ。どこに行つたのだらう。」と、その詮議が果てもなかつた。そこで三人は、その夜は、蔵の中の金を入れた戸棚の前に寝た。
夜半になると、死んだ善右衛門が姿を顕はして、その妻の夢枕に立つて、その意中を残らず打ち明けたので、妻は夢の中にも決意して、目覚めても復讐の一念なほやまず、枕頭にかけてあつた長刀を取り下ろして、それを取つて蔵の中に駆け入り、三人の弟達を残らず切り据ゑ、まだ二歳の小さい息子を、添へ乳してゐる乳母の懐から連れて来て、父善右衛門が自殺に用ゐた脇差を持たせ、それを我が手に持ち添へて、「親の敵討ぞ。」と言つて、三人のとどめを刺し、この事の次第を乳母に話しておいて、自分も胸を刺し通して死んだ。露の如き人生を、朝の霜と共に、儚く消えてしまつた。これほど儚く哀れな事はない。この事を伝へ聞いて、三人の弟達の大悪を憎み、兄善右衛門の心中を察して、見ぬ人までも同情の涙に袂を潤した。後の家督は、二歳の善太郎が継ぐ事となつたさうである。
家の栄えるのはその子の孝に因り、滅ぶのはその子の不孝に因るものである。
校訂者註
1:底本は、「栄(さかえ)ん時」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
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