当社の案内申す程可笑し

【本文】

 縁付きに、改めて同じ宗門を願ふこそ理なれ。浄土は二十八日を祝ふに、門徒は精進日と言へり。今の世は後生の昼にさがり、西は極楽寺ぞ有り難し。
 相州鎌倉山雪の下と言ふ所に、藤沢屋の木工右衛門、旅人の留め宿をして世を渡りしが、娘一人ありて、後、木工右衛門夫婦、世を早うなりぬ。この娘、二十六、七{*1}まで縁遠き事、形思はしからぬ故なり。いつとなく軒荒れて、影洩る星月夜も一人寂しく、浮世も叶はぬから捨て心になつて、朝夕親の香花を取りて、涙に暮らしぬ。人皆不憫をかけ、「似合ひの事もがな。」と思ふに、幸ひなくて年経る内に、今日を送り兼ねし。
 その頃、若宮八幡の前に、才覚らしき男、鬢付き後上がりにして、上髭子細らしく置きて、木綿縞の袴に、馬乗り開けし長羽織に、割鞘の大脇差さして、神主にも非ず、地下人とも見えず。海の者とも山家の者とも知れぬ男、金太夫と名を付き、この所初めて参詣の人に先立ち、「当社へ{*2}御案内申します。」と早口に腰をかがめ、「これなる銀杏の木の葉は、頼朝の御内儀の丸鏡の下へ入れられし残りぢやと申し伝へました。あれなる切り石が、梶原様の唐臼部屋の跡。鶴が岡と申しまするは、昔、仏の蝋燭立てをここで鋳ました所と申す。これが、静御前の綿帽子掛けの松。小袋坂と申すは、大黒天の墓所なり。切通しと申しますは、土佐坊が読み歌留多を打つた所。扇が谷と言ふは、浅利の与市が出店。この岩に疵のござるは{*3}、朝比奈が下駄の跡。それに杉の大木の見えますが、和田の酒屋の跡。」と、酔うた顔付きして嘘八百、銭を取らぬと言ふ事なし。
 この者、生国は丹波の笹山の町人{*4}なりしが、親の心を大きに背き、旧里を切られてさまよひ、ここに来りて、口賢く近付きを求め、幽かなる片庇を借りて、一日暮しも気散じなる世なり。
 この男、小判を溜めて、人の思はくの外なる内証なれば、木工右衛門が娘の方へ入り婿取り持ち、首尾残る所なし。枕を並べ、親しく成りて後、この娘、毎日持仏堂を開けて御あかしを揚ぐるを見て、かの男、「これは何のためぞ。」と、散々仏前を荒らしぬ。女、心に悲しく、「いかに宗旨違へばとて、後世に隔てのあるべきや。自らに添ひ給へば、我が親もそなたの親同然。その位牌をうち砕き給ふは辛し。子のない仲ならば、身を投げ果つべきものを。儘ならぬ浮世。」と日数ふりて、この子、三歳に成りぬ。
 或る夜の寝覚に、枕元近き灯の油土器を引き傾け、酒の如く一滴も残さず呑みける。その後試しけるに、毎夜呑まざる事なし。これ隠れなく、あなたこなたにて呑ませ、「前代、珍しき事ぞ。」と沙汰せざる所なし。人、なほ不思議に思ひ、泣く時、「油。」と言へば、その儘に機嫌を直しける。
 程なく五歳になりて、常の人にすぐれて賢し。殊更、物言ふ事、大人の如し。夫婦悦び、花の春を時得て、袴の着初めさせて、近所ひけらかしけるに、この子、大勢の中に畏まり、申し出すこそ恐ろしけれ。「私の親は、灯し油売りが肌に金子八十両付けしを、この五年あとに切つて、それより手前よくなられし。しかもその夕暮は雨風のして、二月九日。虫出し神鳴り響き渡りし。」と正々と語れば、各々ぞつとして、この倅が顔を眺めし。「いかにも、いかにも。その頃、亀が井の谷にて油売りを闇討。色々御穿鑿、今に知れず。」と、有つて過ぎたる事を思ひ合はせて驚きける。
 物に因果あり。その中にその油売りが従弟ありて、この事を聞き咎め、「このままは置かじ。」と俄に親類を集め、内談するを聞きて、金太夫堪り兼ね、科もなき女を刺し殺し、己も同じ枕の見苦しく、最後を取り乱しぬ。
 その分に済みて、倅子はたたずむ方もなく、その日は我が家にありしが、暮天に行き方見えずなりにき。今に不思議の晴れざる事。

【訳】

 娘が嫁入りをするには、婿の宗旨を吟味して、同宗門の信者の間に結婚を行はうとするのは、道理ある事である。浄土宗信者の家では、月の二十八日は祝日として、生臭を食べるのに、門徒の真宗信者の家では、この日を精進日として、生臭を忌む。かういふ習慣の相違があるから、異宗旨の間の結婚は不都合である。当世は、仏教信仰のいささか衰へた時ではあるが、この所の西には極楽寺といふ有り難い寺がある。(寺も有り難いが、西方にある極楽世界は有り難い所である。)
 相州鎌倉の雪の下といふ所に、藤沢屋木工右衛門といふ者があり、旅人宿をして暮らしを立ててゐたが、この男に一人の娘の子があった。不幸にして、この木右衛門夫婦は早く死んでしまひ、娘は一人ぼっちとなった。
 この娘は、二十六、七歳{*5}の年まで縁遠くして、縁付きをしなかったが、それは、生まれつき器量の思はしくないためである。その家は、いつとなく軒端荒れて、夜は星の影がその軒を漏れて、月夜も一人居寂しく、浮世の暮らしも心に叶はぬところから、世を捨てる心になって、只、亡き親の位牌の前に香を焚き、花を供へて朝夕を暮らしてゐた。世間の人達皆、この娘の孤独に同情して、「似合はしい縁談もあれかし。」と思ってゐたが、不幸にして良縁なく、空しく年月を過ごしてゐる内に、とうとう貧乏で、その日その日を送り兼ねるやうになった。
 その頃、若宮八幡宮の前に、智恵ありさうな顔つきの男があった。鬢を後上がりに結ひ、上髭を勿体らしく生やし、木綿縞の袴をつけ、背を縫ひ開けた長い馬乗り羽織を着、割り鞘の大脇差を佩きて、見たところ、神主でもなければ地下人でもなく、海の者とも山の者とも分からぬ、得体の知れぬ男であった。名を金太夫と言って、この八幡宮に初めて参詣する人を見ては、その先に立って歩みながら、腰をかがめて、「当社の案内を申します。」と早口にしゃべるやう。
 「ここにあります銀杏の木の葉は、昔、頼朝公の北の方が、丸鏡の下に入れられた銀杏の葉の残りであると申し伝へました。あそこにあります切り石は、昔、梶原景時様の屋敷の唐臼部屋の跡の切り石でございます。又、ここを鶴が岡と申しますわけは、昔、仏前の蝋燭立てを、ここで鋳て造りましたからでございます。この松が、昔、静御前が参詣の節、その綿帽子を取って掛けられた松でございます。小袋坂と申しますのは、福の神大黒様の御墓のある所であるから申します。切り通しと申しますのは、昔、土佐坊昌俊が読み歌留多を切られた古跡でございます。扇ヶ谷と申しますのは、昔、浅利の与一が浅蜊を売った出店の跡でございます。この岩に疵の見えますのは、昔、豪傑朝比奈義秀が歩いた下駄の力でついた跡でございます。そこに杉の大木の見えますのが、昔、和田の酒盛を致した酒屋の跡でございます。」などと、酒に酔った顔つきして、嘘八百のでたらめを喋り立て、八百文の銭を儲けない日はなかった。
 この男の郷里は丹波の国の篠山で、元町人であったが、親の心に大いに背いて不孝をし、勘当されて浪人となり、あちこちとさまよひ歩いた末、ここに流れて来て、口賢く人に懇親を求め、小さい片庇の家を借りて住み、その日暮らしに生活を営んで、気儘な世を送ってゐる男である。この男は、小判を貯へて、他から見て人が意外とする程、手元の豊かな者であるので、「木工右衛門の娘に入り婿になさう。」と世話する人があって、首尾よく調ひ、よろず遺漏なく済ませて結婚し、夫婦の親しみをなした。
 夫は、この女が毎日、持仏堂の扉を開けて、灯明を上げて拝むのを見て、「これは、何のためにするものだ。」と言って、散々に仏前の諸道具を打ち壊した。女は、女心にこの事を悲しく思ひ、「いかに宗旨が違ってゐると言っても、後生の幸ひを願ふ仏法の信仰に、違ひのある筈はありません。私を妻として連れ添って下さるからには、私の親はあなたの親も同様の者であります。それだのに、私の親の位牌を打ち砕きなさるのは、私にとっては誠に辛い事であります。まだ子供のない時ならば、身投げをして死ぬ事もできますが、子供があっては、それも思ふ儘にはなりません。儘ならぬが浮世の常。」と歎きながら日数を経てゐる内に、二人が仲の子供は三歳になった。
 或る夜の事である。夫婦が夜中に目を覚まして見ると、この子が枕元に近い有明行灯の油土器を傾けて、油を一滴も残さず飲み尽くすのを見た。「これは、不思議。」と、その後気をつけてゐると、毎晩油を飲まないといふ事はない。この事隠れなく、世上の噂に立ったので、あそこここで試しに飲ませて見て、「これは、前代未聞の珍事ぞ。」と、この噂をせぬ所はなかった。人々、これを一層不思議に思ひ、この上に、この子が泣く時、「油をやらう。」と言ふと、すぐに機嫌を直して泣き止んだ。
 間もなく五歳になると、普通の人より優れて賢く、殊に物を言ふところは、まるで大人のやうであった。夫婦は喜び、花の春の好時節にあった心持ちで、袴着の式を挙げて、近所に自慢をした。ところがこの子、大勢の人の中に畏まり出て、実に恐ろしい事を言ひ出した。
 「私の親は、灯し油売りの商人が肌に付けてゐた金子八十両をば、今から五年前に、その油売りを切り殺して奪ひ取って、それから金持ちになられたのであります。しかも、その殺された夕暮は、雨風の吹く二月九日の事であり、虫出しの雷鳴まで轟き渡りました。」と、まざまざと言ふので、聞いてゐた人々は、ぞっと寒気を感じて、恐ろしさにこの子の顔を見た。思ひ起こして見ると、いかにも。「丁度五年ばかり前に、亀が井の谷で油売りを闇討にした者があった。御上でも、色々犯人の捜索をされたが、今に至ってわからない。」と、過去の事件を思ひ合はせてびっくりした。
 物には因果の道理がある。「多くの人の中に、その油売りの従弟に当たる者があって、この小児の言葉を聞き咎めて帰り、『このままには捨て置かじ。』と、俄に親類を集めて相談を致してゐる。」といふ事を、近太夫、耳にして、「これは堪らぬ。」と、何の科もない妻を刺し殺し、自分も同時に自殺して、取り乱した最期の見苦しい様を人に見られた。
 事件は、当人が死んだので、そのままに済み、後に残った倅は、俄に両親を失って、たたずむ方もなくなった。その日は家に居たが、暮方になって行方不明になってしまった。今に至って、この不思議は晴れない。

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校訂者註
 1・5:底本は、「二十六」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「当社の」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「御ござるは。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「笹山(さゝやま)なりしが。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。