善悪の二つ車

【本文】

 良き友は少なく、悪しき連れはあるものぞかし。
 同じ心の海深く、安芸国の宮島に通ひ、遊女狂ひに身を焦がし、切り火縄一寸の内に、五里の所を早船にて、毎夜の騒ぎ仲間二人、心から姿からこれ程似たる人、世間広島にも又あるまじ。一人は備中屋の甚七、一人は金田屋の源七と言へり。この二人、親にかかりなれば、浮世の稼ぎを知らず。数年貯へ置かれし金銀、我が物を盗み遣ひ、「所の長者。」と言はれしも、家次第にさびて、十年余りに浅ましくなりぬ。
 親仁、若盛りに色々の艱難を砕き、今、老いの入り前、かかる身無し。朝夕も煙絶え絶えになりぬ。縁付き頃の妹ありて、母親、自然拵への衣類、手道具まで盗み出して売り払ひ、その銀も揚屋の物となりぬ。嫁も裸では呼ぶ人なく、哀れや、腰元使ひの奉公に出され、世上の兄親の優しき仕方を見て、一しほ恨みぬ。
 なほ、「日なたに氷。」の如く水ばかり残りて、後は火吹く力も無く、その年の波、胸に騒がしく、節分の夜暗きを構はず、甚七、源七、紙子頭巾をかぶり、棒組の口を揃へ、御厄払ひに出ける。誠に乞食に仕習ひなく、死なれぬ命の恥長く、「東方朔が九千歳。」と声可笑しげに喚けども、これにさへ仕合せなく、夜明け方まで駆け廻りて、漸々二人の中に銭十八文、煎豆二百粒ばかり。「これでは埒も明かぬ世や。」と、親達をさらりと西の国に捨て置き、源七、甚七、古里を去つて、備前岡山より路銭なくて、この所に足を踏み留め袖乞ひするに、いまだ昔の名残、額に見え、色白にして鬢つきの綺麗なれば、門立ちも不思議がりて、「通れ、通れ。」の言葉荒く、身の置き所もなく、過ぎにし奢りの事ども思ひ出し、男泣きの涙。豊嶋筵を持つて、よその見る目も恥づかし。
 その頃、備前は{*1}心学盛んにして、人の心も素直になり、主人に忠ある人、親に孝ある者は御恵み深く、おのづからその道に入りて、国の治まるこの時なれば、二人の才覚出して、足腰の立たざる野臥しの非人を語らひ、甚七は片輪車を作りて、七十に余る老人を乗せて、町筋に出るより涙ぐみ、「国を申せば安芸の国、年を申さば二十三。いかなる因果の報いにや、一人の親を養ひ兼ね、面を晒し勧進す。何も御慈悲は御ざらぬか。」と声悲しく、誠がましく歎きしに、人施して、銭米少しの内に山なして、後は車に積み余りぬ。
 源七も、年老いたる者を負ひて、その如くありきしに、人皆、心ざしを感じて情けをかけられければ、野末に篠竹を囲ひ、朽木のあるに任せて拾ひ集め、棟を並べて庵の形を作り、雨露我が家にて凌ぎ、「昨日までは雲を見て臥したる事を思へば、今宵の楽しみ、この上何かあるべし。」と、土釜に野沢の水を汲み込み、貰ひし物を一つに炊けば、搗かぬ米あり、新米あり。赤米、真搗き、小豆に限らず様々の色なして、天目に竹窓。「生あれば食あり。」と、腹膨るるに外の願ひもなし。
 甚七、老人に按摩をとらせ、夜もすがら蚊を払はせ、年寄りのくたびれを許さず。眠れば胴骨を踏み叩き、「とても腰抜け役のおのれめ。」と辛く当たるを、源七は格別にいたはりて、「さりとはさやうにすべき事に非ず。まづは親と名付け、しかもその蔭にて今日の身の上{*2}を助かれば、その恩は忘れじ。」と懇ろに当たるを、かへつて甚七そねみ、それよりは笹戸一重の中を隔てて、松火の取り交はしもせざりき。
 天、誠を照らし、善悪を咎め給ふにや。甚七、いつとなく人の慈悲を受けかね、渇々になりぬ。源七は、日に増し心の儘に勧進ありて、後は雨風の時は出ず、この老人をまことの親の如く孝を尽くしぬ。隣なる親仁の、これを見て世を歎き、甚七を恨み、「今日限りと、舌食ひ切つて果つべし。」と胸を定めし。
 この人、そもそもは賤しからず。越後にて名のある侍。「子細あつて浪人の後、身を隠し、今浅ましく成りぬ。」と昔物語を、甚七が留主の折から源七に聞かせて、是非もなき涙をこぼし、「我、空しくなりて後、何惜しからねど、せめて身体を犬狼のせせり捜さぬやうに、影隠して。」と頼まれけるにぞ、一しほ哀れまさりて、「自然の事ありとても、その気遣ひは、し給ひそ。我この所にある内は、悪しくは取り置き申すまじ。少しも心にかけ給ふな。」と頼もしく言ふにぞ、老人、手を合はして拝み、「さてもさても嬉しや。」と袖に玉を流しぬ。
 かかる時、旅人と見え、馬、乗り物を吊らせ、用ありげにたたずみ、この老人の面影を暫く見定め、「橋本内匠様か。」と取り付きぬれば、「金弥か。」と親子の縁切れず。
「これにて逢ふ事の悦び、限りなし。我事、武州に下りて随分身代を稼げども、有り付き遅く、あなたこなたを見合はせしに、望み叶ひて、先知五百石にて東国方へ相済み、この度御暇申し上げ、御迎ひに参りしに、五十日の訴訟なるに、尋ね兼ねて日数重なりしに、今日ここにて逢ひ奉る事、武運の尽きぬしるし。」と喜びぬ。老人、この程の難儀語り給ふにぞ、涙干す間は無かりし。
 かかる時、甚七帰りてこれを驚きぬ。金弥、捕つて押さへ、「情け知らずのおのれ、このまま置く者にあらねど、命を行く末に自然に思ひ知るべし。」と{*3}この庵を崩し、昔の野原と成し、源七は、この度の心ざしを感じ、「我、抱へ申すべし。」と、今一人の乞食も、老足なれば駕籠に乗せ、東路に下りぬ。
 残る物とて滅形合器、貝杓子。古筵の朝露、夕に風の身を責め、甚七が悲しさ。この事聞き伝へて、その後は所を追つ立てられ、なほ行く先迫りて、その年の雪の頃、播磨の書写寺の麓にて、立ちすくみて死にける。

【訳】

 良き友達といふものは少なく、悪しき仲間はいくらでもあるものである。
 同じ心の交じはり深く、海を渡つて安芸の国の宮島に通ひ、そこの遊女遊びに身をやつし、しかも切り火縄の僅か一寸燃える間に、広島から宮島に着くやうな早舟を仕立てて毎夜通ふ、道楽仲間二人があつた。この二人は心も容貌もよく似てゐて、これ程によく似た人は、世間広しといへども、この広島にも又と二人はあるまい。その一人は備中屋の甚七と言ひ、他の一人は金田屋の源七と言つた。この二人は、まだ親がかりの身であるから、世間の稼ぎの道を知らず、只遊び一方で、折角親が数年苦労して貯へておかれた金銀――それは結局、自分の財産となるべきものであるが――を盗み出しては、遊蕩費に消費して、その地方の長者と言はれた家も、そのために次第に衰へて、十年ばかりの間に浅ましく零落してしまつた。父親が若盛りの年頃に、色々と困難を凌いで折角作り上げた身代であるのに、今老境に入つて頼る身寄りもなく、朝夕に立てる炊煙も絶え絶えな、貧乏の身となつてしまつた。
 結婚頃の年配の妹が一人あつて、母親が、これまで目に立たぬやうに折々調へて来られた、嫁入り道具の衣類や手周りの道具までも、盗み出しては売り払ひ、その銀をも遊蕩費に使つて、悉く揚屋の物にしてしまつた。かく折角の嫁入り道具をなくしたので、妹も、道具なしに嫁にしてくれる家はなく、空しく婚期を過ごすやうになつたので、富家の腰元使ひの奉公に出された。世間には、我が妹に優しい親代はりの親切な兄のあるのを見て、妹は兄を一層怨むやうになつた。
 それでもやはり、日なたに出された氷の溶けて、後には水ばかり残るやうに、残る財産は何もなくなり、その後は赤貧になつて、その年も暮になつた。年末になつてはいよいよ心配で、節分の夜の暗いのも構はず、甚七、源七の両人は、紙子頭巾をかぶつて顔を隠し、二人仲間となつて、口上を揃へてしゃべりながら、厄払ひの乞食に出た。諺に、「乞食に仕習ひなし。」と言ふが、誠にその通りで、二人は死なれぬ命を生き長らへて、世に恥をさらしながら、ともかくも乞食をして廻つた。「東方朔が九千年も生きた。」といふ故事を引いた文句を、声可笑しく大声に唱へても、乞食してさへ幸運は無く、世の明け方まで市中を歩き廻つたが、二人の中に僅かに銭十八文と、煎り豆二百粒ばかり貰ひ溜めたばかりであつた。
 「これではこの世の暮らしはダメ。」と思つて、親達をそのまま西の国広島に捨てておいて、甚七と源七は故郷を立ち退いて、備前の岡山に出たが、ここで旅費が尽きたので、ここに留まつて乞食をした。ところが、元からの乞食でなく、以前立派な町人の息子であつた時の名残として、額の辺に上品なところが残つてゐた。色は白く、鬢付きは綺麗であるから、人家の門口に立つて食を乞うても、人々が本当の乞食とせず、胡乱者と疑つて、「通れ、通れ。」と言つて言葉荒く追ひ払はれるので、二人は身の置き所もなく、これまでの贅沢の事を思ひ出しては、男泣きに涙を流す。その涙、身につけた豊島筵を漏れて、他人の見る目も恥づかしい事であつた。
 その時分には、備前の国は心学が盛んに行はれてゐたが、その感化を受けて、人心も正直になつて居り、主人に忠なる者、親に孝なる者は、国守から賞せられて恵みを深く垂れられ、自然と人々は各々、その道に入りて教へを守り、国内はよく治まつてゐた時代であつたから、甚七、源七の両人は、その知恵分別を出して工夫をなし、足腰の立たぬやうに老衰して、山野に住む乞食を探し、それによく言ひ含めておいて、甚七は片輪車を作つて、七十歳に余るこの乞食を載せて曳き、通り筋に出ると涙ぐんだ声を上げて、「生まれた国を申せば安芸の国、年を申せば二十三歳。いかなる因果を身に受けたものか、貧乏に生まれ合はせ、たつた一人の親を養ひ兼ねて、かく人の前に恥づかしい面を晒して乞食をします。何も御慈悲を下さる者はございませぬか。」と、いかにも声悲しげに誠らしく物乞ひして歩くと、人々はこれを真実と思ひ、孝心に感じて米や銭の施しをするので、暫くの間に沢山貰ひ溜め、後は、その車にも積み切れぬやうになつた。
 源七も同様に、歳の老いた乞食を語らつて、これを背負うて甚七同様に乞食して廻つたところが、所の人々が両人の孝心を感心して情けをかけて、色々物など恵んでくれたので、野末に小さな竹を以て囲ひ、又、朽ちた木などのあるのを拾ひ集めて小屋を作り、二軒軒を並べてそれに住み、我が家で雨や露を凌ぐやうになつた。これまで野宿をして、雲を見ながら寝た事を思へば、今夜から小屋の中に住む事のできるので、「これにまさる楽しみは、世に何があらう。」と満足して、土釜に野沢の水を汲み入れて、貰ひ溜めた穀類を一緒に入れて炊ぐと、玄米もあれば新米もあり、赤米もあれば真搗きの精白米もあり、又、小豆さへあり、まだその他の物もあるので、実に色々な色の御飯に出来上がるのであつた。食器は天目茶碗、小屋の窓は竹窓。粗末ではあつても、諺に言ふ「生あれば食あり。」で、ひもじい思ひをする事もないので満足して、他に何の願ひもない。
 甚七の方は、その相棒の老人に按摩を取らせたり、又、夜もすがら蚊を払はせたりする。老人の事とてくたびれ易く、疲れても、手を休める事を許さない。老人が居眠りでもすると、怒つてその胴骨の辺を踏んだり、叩いたりしていぢめる。さうして、「腰抜け役に、これ位の事をさせても、おのれ、ろくにしない。」と言つて、大変つれなく当たるのに、源七の方は、それとは格別の相違で、大層相棒の老人をいたはつた。さうして、「甚七は、あのやうに老人を虐待するけれど、ああすべきものではない。まづ、仮にも親と名付けて物貰ひをし、その御蔭で今日のやうな、飢餓にも遭はぬ身の上となつてゐるのであるから、老人の恩は、自分は決して忘れまい。」と言つて、親切にその老人を遇するのを、甚七はかへつてそねみ、それからは、棟を並べた小屋に笹戸一重を隔てて住んでゐるに関はらず、二人の交際絶えて、松火の取り交はしさへしなくなつた。
 天は人の心の誠を照鑑あつて、善を賞し悪を咎め給ふものであらうか、老人を虐待する甚七は、いつともなく世人の情けの貰ひ物が少なくなり、ほとんど餓死するばかりの身となつた。それに引きかへ源七は、日に増して思ひ通りの多くの貰ひがあつて、後は、雨風の日には乞食にも出ず、小屋に居り、相棒の老人には真の親のやうに孝行を尽くした。それをば甚七の方の老人が見て、甚七が留守の折に、つくづく人生を歎じ、甚七を恨んで、「今日を限りに死なう。」と思ひ、我と我が舌を噛み切つて死ぬる覚悟を決めた。
 この老人は、元々素性賤しく無く、越後で相当の名のある武士であつた。「理由あつて浪人し、世間から身を隠して、今の如き浅ましい乞食の境遇に落ちた者である。」と、昔話をして源七に聞かせ、無理もない涙を流して、「私は、亡くなりましたところで、何も惜しい命とは思ひませんが、せめて死骸だけは、犬や狼に食ひ散らされたうありません。どうか死骸だけは、埋め隠しては下さいますまいか。」と頼むので、源七は一層可哀さうになつて、「万一の事があつても、後の事は決して心配なさるな。私がここに居る間は、決して悪くはしませんから、少しも心にかけなさるな。」と頼もしく言つてやると、老人は両手を合はせて源七を拝み、「さてもさても、嬉しう思ひます。」と言つて、袖に涙の玉を流した。
 かうしてゐる時、旅の人と見えて、馬を曳かせ、籠を舁かせて、用事ありげに小屋の前に立ち止まり、この老人の顔を暫しつくづくと見定めて、「橋本内匠様ではございませんか。」と言つて、老人に取り付いた。すると老人は、「金弥か。」と言つて、親子の名乗りをし、「親子の縁が切れず、かうしてここで巡り逢ふ事の喜びは、限りもありません。私事は、武州江戸に下り、奉公にありつかうと随分骨を折つて見ましたけれど、奉公の口見つからず、あなたこなたの大小名を聞き合はせまして、この度、かねての望み叶ひ、先知の五百石で、東国方の御大名に奉公叶ひ、今度御暇を願ひ出て、父上の御迎へに参りましたところ、五十日間の御暇の期限も迫りましたが、御尋ね出し兼ねましたところ、今日ここで御逢ひ申す事のできました事、未だ武運の尽きないしるしと存じます。」と、金弥は大いに喜んだ。老人は、これまでの艱難辛苦を語られるので、親子、涙の乾く間もなかつた。
 かういふところに甚七帰つて、この様子を見てびつくりした。金弥は甚七を取つて押さへて、「情け知らずの貴様、このままに許しておくべきものではないが、暫くこのまま見逃しておく。将来自然と、天命は悪を許されないといふ事を、思ひ当たるが良い。」と言つて、この小屋を打ち毀つて元の野原とし、源七は、「この度、老父をいたはつてくれた志を感じるから、自分が抱へて家来にしてやらう。」と言ひ、今一人の老人の乞食も、「老人の事なり。足が不自由であらうから。」と駕籠に乗せて、一緒に東国方へ下つて行つた。
 その後に残つた物は、壊れた合器や貝杓子や古筵で、朝に置く露、夕べに吹く風にさらされるその身の苦しさに、甚七はつくづく身の上を悲しんだ。この事が世間に漏れ聞こえたので、その後、所を追つ立てられた。猶行く先々に世を狭うして、とうとうその年の冬、雪の降る頃、播磨の国の書写山の麓で、行き倒れになつて死んでしまつた。

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校訂者註
 1:底本は、「其比心学」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「身うへ」。底本語釈及び『新編日本古典文学全集67』(1996)に従い改めた。
 3:底本は、「思ひしるべし。此」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。