本にその人の面影

【本文】

 無仏世界なる国里、和朝末々まで今は無かりき。殊更世の掟も静かなる松前の城下に久しき浪人、岩越数馬と言ひしが、近年、孔子頭に変へて、名も夢遊と改めける。世に住めば、夢にも遊ぶ暇なく、虫薬を合はせて今日を暮らしぬ。寄る年の口惜しく、奉公の望みも絶えて、七十歳にて入道し、その後は丸腰になつて武士の顔つきもせず。木綿着物の上に縮緬の一重羽織をかけ、三十年になる編笠、折り目を裏より紙子にてつづくりかぶれば、「日蔭者。」と言はれて、腫物、切疵の膏薬売りて、姿も心も町人になりぬ。
 内儀も歴々の息女なりしが、昔を捨てて朝夕の米を炊ぎ、手足もおのづから荒れたる宿に、是非もなき年月を送る内に、男子二人、作弥、八弥とて、悲しき中に漸々と育て、十七、十五に成りぬ。さすが生まれつき美しく、若衆盛りにして、執心の人絶え無く、門に市を成しぬ。後は、命をかけて作弥を忍ぶ人あり、八弥を慕ふ者あり。この美少、気の通りたる事、衆道の只中、情けを本としてその道理の弁へ、深く悩める人に心を移せど、親の夢遊、油断なく守りて、気の毒なる恋の関、儘ならぬ身を恨みぬ。
 夢遊、程無く名の夢に成り給ひ、作弥、八弥が悲しみ。殊更母人、歎きのやむ事なく、世間も恥ぢず、叶はぬ人を世にあるやうに、余り気うとかりき。この形、二人の若衆とは格別違ひ、背高く痩せ枯れて、色青ざめて顔長く、常さへ醜かりしに、この度愁へに沈み、髪頭をその儘に身を捨てければ、すさまじげになりて、他人は見るさへ嫌ひぬ。これも、その程無く夫の事を言ひ死にに、哀れや、無常野に送り、煙とは成しぬ。
 その夜は雨降りて物淋しく、近所に人の歎きを構はず、月待ちして音曲の数々過ぎて帰るに、臆病者ども、何が目に見えける。「作弥、八弥が母人の幽霊来る。」と仮初に言ひ出し、その後は、「我も見し。」「人も会ひつる。」と、由なき取り沙汰をして、夜に入れば往来止まりて、所の騒ぎとなれば、作弥、八弥が身にしては、世の外聞口惜しく、兄弟、寝覚にもこれを忘れず。
 その折から、窓の開け音ありありと、母親の面影、庭に認め、親子の仲ながら恐ろしく、兄の作弥は手を合はせ、「など成仏は、し給はぬ。さりとは浅ましき御事や。」と、涙を袖にしたしける。弟の八弥、甲斐甲斐しく、枕にありし半弓つがひ、放ちければ、形は消えて、はつと光あり。立ち寄りて見るに、年ふりし狸の鼻筋より射通し、いまだ息の荒きをとどめ刺して、騒ぐ気色も無く取り置きける。「これは、この所より東の宮山に住みて、今までいか程か人を悩ましけるに、この後、野道の子細あらじ。この度の手柄、八弥なり。」と。「いにしへの頼政、秀郷にも劣らじ。」と、これを褒めざる人は{*1}無し。
 この事、国守の沙汰に及び、文武の達者立ち合ひ、詮議のありしは、下々に思ふとは格別なり。「兄の作弥、再び見えし母を悲しむのところ、これ、武士の誠ある心底」を感じ入られ、「当分二十人扶持下し置かれ、末々御取り立てあるべき。」との仰せ渡されなり。「弟八弥事、変化にもせよ、親の形と見て、これに手づから弓矢の敵対。不孝の心ざし深し。」と御取り上げも無く、この国を立ち退きける。

【訳】

 仏法の信仰もない開けぬ里は、我が国の端々に至るまで、今はなくなつた。殊に世間の掟もよく守られて、静穏な松前の城下に久しく浪人をしてゐる、岩越数馬といふ者があつたが、近年、髪は総髪に結び、名も夢遊と変へてゐた。いかに隠退の身なればとて、世間に住んでゐる以上、その名の如く、夢にも遊ぶ暇はなく、小児の虫の薬を調合して、それで暮らしを立ててゐた。年もとつてしまつたので、残念ながら今は奉公の望みも捨てて、七十歳の時出家し、その後は大小、腰に差す事もやめて、武士の顔つきもせず、着物も木綿物の上に縮緬の一重羽織を引つ掛け、三十年も使ひ古した編笠の折り目の破れには、裏から紙を貼つて繕つてかぶれば、世間からは「日蔭者。」と言はれて、腫れ物や切り疵の膏薬を売り、姿も心も町人になつた。
 その女房は、元は立派な良家の娘御であつたが、今はその元の身分を捨てて、朝夕の炊事も手づからして、手足も自然と荒れてしまひ、荒れた家につまらない暮らしを立てて、月日を送る内に、作弥、八弥といふ兄弟の男の子を漸う育て上げて、今はその年も十七、十五になつた。さすがに素性とて、美しく生まれついて、今丁度若衆盛りであるから、慕ひ寄る人達が門に市をなした。後には命をかけて作弥を慕ふ人もあれば、八弥を思ふ人もあつた。この兄弟の美少年達は、中々粋で、男色の情けをよく知り、人情を本とし、物の道理をも弁へてゐるので、彼らに深く思ひを寄せる人達の情けを汲み知つては居れど、親の夢遊が少しも油断せず監督してゐるので、思ふ儘にならない身の上を悔やみ、恨んでゐた。
 親の夢遊は、その後程なく死んでしまはれ、後に残つた作弥、八弥、兄弟の子の悲しみは深かつたが、殊に母親の歎きは片時も止む時なく、世の人の思惑も恥ぢず、再び呼び返す事のできない亡き人を慕はれたのは、余りに過ぎて、いやらしかつた。この母親の容貌は、二人の子の青年とは大変な違ひで、背高く痩せ枯れ、色は青ざめて長顔で、常の顔さへ醜かつたが、この度の不幸の悲しみで、髪もよく結はず、身を捨てて構はないので凄まじくなつて、他人は見る事さへ嫌ふのであつた。この母親も、それから間もなく、亡き夫の事を言ひ暮らして死んでしまはれたので、野辺の墓場に送つて煙にした。
 その葬式の夜は、雨が降つて物寂しい晩であつたが、近所に、他人の歎きなど構はず月待ちをして、色々な音曲の数々に興じて散会となつたが、臆病な人達が、帰り道に何を見たのか、「作弥、八弥の母の幽霊が出る。」と愚かな事を言ひ出し、それからは、「我も見た。」「あの人も遇つた。」とつまらぬ噂を立てて、夜になると往来の人も絶えて、その地方の大騒ぎとなつた。
 作弥、八弥の身にとつては、世間の悪い噂を残念に思ひ、兄弟共に、日夜この事を忘れ兼ねてゐると、或る日、窓の開くやうな音がありありと聞こえたので、庭を見ると、母の在りし日の面影が目に見えた。いかに親子の間でも、それは誠に恐ろしく思はれた。兄の作弥は手を合はせて拝みながら、「なぜ成仏は、して下さらぬ。さても浅ましい事。」と涙に袖を潤はした。弟の八弥は勇ましく、枕上にあつた半弓を手に取り、矢をつがつて射放つと、母の姿は忽ち消えて、パッと光が見えた。そこに立ち寄つて見ると、年取つた狸が鼻から矢を射通されて、まだ死に切らずに息を荒くしてゐるのを、すぐにとどめを刺して、ちつとも動ずる色なく、その死骸の処置をした。
 この狸は、ここから東に当たる宮山に住んでゐて、これまで度々人を悩ました者であつたから、「これからは、野道を通つても安心だ。この度の御手柄は八弥殿だ。」といふので、「昔の鵺を射た源三位頼政や、百足を退治した俵藤太秀郷にも劣るまい。」と褒めちぎらぬ人はなかつた。
 この事、国の守の御耳に達し、その御指図で、文武両道に優れた人達を集めて、この事について評議をされた。その評議の結果は、下々の人達の考へとは大違ひであつた。それによると、「兄の作弥が、亡き母親の姿を再び見て、これを悲しんだのは、これ、武士の誠ある精神である。」として、「御感の余り、当分二十人扶持を下し置かれ、将来は武士として御取り立てあるべし。」といふ仰せ渡しであり、弟の八弥は、「たとへ化け物とはいへ、仮にも親の姿であるのに、これに手づから弓矢を射たのは、その不孝の心の浅からぬを表したものである。」として取り上げられず、この国を立ち退く事となつた。

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校訂者註
 1:底本は、「人なし。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。