八人の猩々講
【本文】
波の鼓の色も良く、長崎の湊にして猩々講を結び、杉叢の内に松尾大明神を勧請申し、甘口、辛口二つの壺を並べ、名のある八人の大上戸、ここに集まる。大蛇の甚三郎、酒天童子の勘内、和東坡の藤助、常夢の森右衛門、三人機嫌の四平、鉤掛升の六之進、早意の久左衛門、九日の菊兵衛。この者どもの参会、元日より大年まで酔ひのさめたる時もなく、いつとても、千秋楽は酒呑み掛かる時謡うて仕舞ひ、とかく正気のある内は、身を酒瓶の底に沈め、よろづ世の楽しみ、これに極めける。外より羨ましく、随分の遊び好き、一つ成る口の男、この仲間に今まで幾人か交じりて身を崩し、命を酒に呑まれし者、その数を知らず。
折節、豊前の小倉より、この所に宿を引きて、嶋絵を書きて世を渡る墨屋団兵衛と言ふ者、先祖より酒の家に生まれ、「あから呑み{*1}。」と言はれてこの方、終に上戸に出会はず。十九歳にて都に上り、三十三間の矢数酒{*2}。咽を通る勢ひ、「星野勘左衛門、和佐大八が弓勢にも、その道々にて劣らじ。天下の上戸。」と名も橘といふ酒屋あり。金箔置きの慰斗肴、これを出しけるに、金のざい心地して、それより呑み自慢して、長崎は酒所を望みて盃店を出しける。この所の下戸並みと言ふが、外の国の呑み大将にも負くる事にあらず。
団兵衛、猩々中へ乱れ入りて、夜日十三日の続け呑み。兵の交じはり、弱い所顕はれ、少しくたびれつきて、無理に我を立つる時、母親、異見せられしは、「さりとては大酒をやめよ。そちが父親団右衛門も、不断好まれ、碁会の座敷にて宵より明け方までの酒宴。内嶋休卜と言へる針立と当座の口論。さのみ言ふ程の事にもあらぬを、互に酔ひの紛れに次第に言葉荒く、刺し違へて、あたら浮世を果てられしを、両方共に世上の笑ひ者。草葉の蔭までよろしからぬ名のみ残り、女の身にさヘ口惜しく、孫子に伝へて、『酒といふ物、一滴も呑ませじ。』と思ひしに、親ながら儘ならず。汝、幾度か人の言ふ事を聞かず、余にすぐれての酒興。命の程も危なし{*3}。向後とまりて、母が心を休めよ。しかれども、俄にやむ事も成るまじ。この一夏を断りて、日に三度、夜に三度の限りを定め、一度に五合づつ、一日一夜までは許す。」とあれば、団兵衛、親を睨めつけ、「そなたの煎茶を飲みとまる事は、成るべきや。世の楽しみ、これより外は無し。酒に捨つる命、何惜しからぬ。今にも我、往生せば、沐浴も諸白を浴びせ、棺桶も伊丹の四斗樽に入れ、花山か紅葉の洞に埋まれたし。春秋の遊山、人の吸ひ筒の滴りかかれる願ひもあり。後世さへかく思へば、まして現世にこの楽しみをやめまじき。」と、猶々呑み明かし酔ひくれて、五日七日も続けさまに寝て、世の事を外になしぬ。
これを思ひと成りて、母果てらるるにも、枕を上げず、この死に目に会はず。遥かの後に夢さめて、歎くに甲斐ぞ無かりき。
【訳】
波の色も美しい長崎港に於いて、猩々講といふ会を作って、杉の森の中に松尾大明神の祠を建てて祀り、甘口、辛口の酒壺を二つ並べ置いて、ここに評判の八人の大酒家が集まった。おろちの甚三郎、酒呑童子の勘内、和東坡の藤助、常夢の森右衛門、三人機嫌の四平、鉤掛け升の六之進、いらちの久左衛門、九日の菊兵衛の八人の集まりで、この人達は、元日から大晦日まで、酒の酔ひのさめた時はない連中で、いつも、千秋楽は酒宴の始まりに謡ってしまひ、とかくまだ正気のある間は、酒甕の底に身を浸すやうにして、全ての楽しみを、只この酒の楽しみの一つに極めてゐた。この様子をよそから見て羨ましく思ひ、随分遊び好きの、しかも一つ呑める方の男で、これまでこの八人の仲間に入って、身を持ち崩し、命までも酒に呑まれてしまった者が、幾人あったか。数知れぬ程である。
丁度その時分に、豊前の小倉から、この長崎に家を引っ越して来て、西洋風の線画を書いて世を渡る、墨屋団兵衛といふ者があった。先祖の代から酒呑みの家に生まれて、「あから呑み。」と言はれて、呑み覚えた小児の時から、終に自分以上の上戸に出会った事がない。十九歳で京都に上り、「三十三間堂の矢数、星野勘左衛門、和佐大八が弓勢にも劣らじ。」とばかり、大酒家連と競争呑みして、「天下の大酒家。」と名に立った。橘といふ酒屋から、金箔を置いた熨斗肴を出して贈ったが、これは、矢数に出す金の采配と同様に思はれた。この事あって以来、大酒を自慢にして、「長崎は酒のはやる所だから。」と、望んでそこに行き、盃店を出した。この地の下戸と言はれる人でも、他所での大酒家と言はれる者にも負けない。
団兵衛は、大酒家連中に入って、夜昼十三日間の酒の続け呑みをした。猛者連中の交じはりであるから、終に弱みを見せて、少しくたびれて来たのを、無理に我慢してゐる時、母親、異見して、「さて、その大酒をやめろ。お前のお父さん団右衛門殿も、平常、酒を好んで呑まれ、或る碁会の座敷で、宵から明け方まで酒宴のあった折、内島休卜といふ針医と当座の口論をなされた。さして言ふ程の事もないのに、お互に酔ひの上であるから、次第に言葉荒くなって、とうとう刺し違へて、あたら命を捨てておしまひなされたが、結局、御自分も相手も世間の物笑ひになり、死後まで良くない評判を流された。女の身の私でさへ残念で堪らず、孫子の代まで遺言して、『酒といふものは、一滴も飲ますまい。』と思ったが、親でありながら、思ふやうにならず、お前は幾度言っても言ふ事を聞かず、世間にすぐれた酒興を致す。それでは命も危ない。以後は酒をやめて、母が心を休めてくれ。とは言ふものの、俄にやめるといふ事もできまいから、この一夏だけは、昼三度、夜三度、そして一度に五合づつと決め、それも、一日一夜までの続け呑みは許さう。」と言はれた。
すると団兵衛は、母親を睨め付け、「あなたは煎茶をやめる事ができませうか。世の中の楽しみ、酒より他にありません。酒のために命を捨てる事は、惜しいとは思ひません。今にも私が死にましたら、湯灌にも上酒を浴びせて欲しいし、棺桶も伊丹の四斗樽にして、花の山か紅葉の洞の名所に埋めて欲しい。さうしたら、春秋の遊山の人達の吸ひ筒から汲む盃の滴りが、墓の上にかかるのが{*4}望みです。死後の事さへかう思ひますから、生きてゐる限りは、酒をやめる事は厭です。」と、依然として呑み明かし、酔ひくれて、五日七日も眠り続けて、仕事を外にした。
これが心配の種になって、亡くなられた母親の臨終にも枕上がらず、とうとう死に目にも会はず、数日後に目覚めて歎いたが、もう何の甲斐もなかった。
校訂者註
1:底本は、「呑」のふりがな判読不能。『本朝二十不孝』(1993)語釈に従った。
2:底本は、「矢数(やかず)咽(のんど)を」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
3:底本は、「雲落(あへなし)」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)語釈に従い改めた。
4:底本は、「かゝのが」。
コメント