無用の力自慢
【本文】
行司、唐団扇をかざして四本柱の内に立てば、勧進元の大関は丸山仁太夫、続きて和歌の助、蔦之助。寄り関には扉閉右衛門、関脇に塩釜、白藤。左右に立ち分かれ、前相撲始まりて、次第に形の山高く、金比羅の祭にあまたの見物。讃岐円座の所せきなく、上方の手取り、在郷の力業。見て面白さ、これぞかし。その後は相撲、はやり出、里の牛飼、山家の柴男までも、緞子の二重廻りをかきて、四十八手に骨を砕き、片輪になる事も厭はず{*1}、無用の達者を好みぬ。
ここに、「高松の荒磯。」と名乗りて、力ばかりを自慢して、昨今取り出の男、丸亀屋の才兵衛とて歴々の町人。両替店出し、世間に知れたる者には、慰みながら、これは似合はざりき。「それ、人のもて遊びには、琴碁書画の外に、茶の湯、鞠、楊弓、謡など聞き良し。何ぞや、裸身と成りて五体危なき勝負、さりとは宜しからず。自今これをやめて、良き友に交じはり、四書の素読み、習へ。」と親仁、分別らしき異見。
「こんな事が耳に入れば、一両年も後に家譲り、よろづに構はぬものを。」と母親は、男勝りの智恵を出して、才兵衛をひそかに招き、「もまた、そなたも十九の春なれば、花見がてらの都に{*2}上り、金銀貯めしはこんなためなれば、嶋原に行きて、太夫を残らず見尽くし、大坂の芝居子に出合ひ、その若衆気に入らば、すぐに身請けして、三津寺新屋敷とやらに家でも{*3}買うて取らせ、心安き立ち寄り所にせられよ。この度、千両二千両使へばとて、後の減る内蔵でも無し。首尾は母に任せよ。」と、うまい事言うて聞かしても、才兵衛、一円合点せず。「只世の中に、相撲取るより外に、何か遊興無し。」と中々やむる事にあらず。「一人も一人から。」と悲しく、今は教訓の言葉も尽きける。あまたの手代、不審耳を立てて、「かかる親達を持ちて、心の儘なる色遊びをせば、浮世に思ひ残す事あるまじ。さても若旦那のわる物好き。」と深く悔やみぬ。
その後は、力業の異見、言ふ事ならずして、いやましに肉食を好み、筋骨逞しくなりて、十九の時、三十ばかりに見えて、前の形は変はり、格別になり給ひぬ。一門中内談して、「とかくは縁組をとり急ぎ、よろしき妻あらば、おのづから心ざしも直るべし。」と、相応の人の息女貰ひ、祝言、事済みて後、一度も部屋に入る事なく、首尾の悪しきを歎き、乳参らせて育て上げたる乳母に、この事を言はせければ、「男盛りに力落としては、口惜し。弓矢八幡、摩利支天、南無不動明王、身が燃えて、女は厭。」と言ひ切りて、あたら花嫁を立て物にして淋しがらせ、我一人、寝間{*4}の戸のあけ暮。「相撲より外に楽しみ無し。」と、毎日修行つのりて後は、力あり、手あり。「荒磯。」と名乗れば、尻に帆掛けて逃げ、相手もなく、四国一番の取り手になりぬ。
「今は恐らく、我に立ち並び、手合ひする人もや。」と広言。皆々憎みし折節、山里に夜、宮相撲ありて、才兵衛罷り出しに、在所より強力進み出て、才兵衛と引つ組んで、何の手もなく宙に差し上げ落としける程に、捨て舟の荒磯に埋もれし如く、大方は真砂ににえ込み、あばら骨砕けて、漸々乗り物に舁き入れられ、憂き事に逢ひて宿に帰り、様々養生する程に、はかどらずして、我と心腹立てて、少しの事に人を怪しめければ、下々恐れて、後は病家に行く人無く、勿体なくも親達に足をさすらせ、大小便とられ、冥加に尽きし身の果て。「親の罰当たり。」と名乗りける。
【訳】
行事が軍扇を上げて、四本柱の内に立てば、勧進元の大関丸山仁太夫、それに続く大関の和歌之助、蔦之助。又、寄り関には扉閉右衛門、さて関脇には塩釜と白藤。これらの者が左右に立ち分かれて、各々その座につき、それから前相撲が始まる。次第に取り組むに従つて、力士もその体格が大きく、たけも高くなる。さて、讃岐国金毘羅神社の御祭に催す勧進相撲には、沢山の見物が出て、讃岐円座に場所も狭しと詰めかける。この興行には、上方の手取り力士、田舎の力業力士どもが立ち会つて、実に面白いのである。この興行の後は、この地に相撲が流行して、村方の牛飼や山家の柴刈り男までも、緞子の二重廻りの締め込みをかいて、四十八手の秘術を尽くして、骨を折つて取る。誤つて不具者になる事も構はず、無用の力業に優秀者たる事を望んだ。
ここに、「高松の荒磯。」と力士名を名乗つて、力ばかりを自慢にしてゐる、この頃この地方の新進力士があつた。この男は、丸亀屋の才兵衛といふ、立派な富裕の町人であつて、両替屋を営業にして、世間に知られた者であるのに、慰み事とは言ひながら、これは又、身分には不似合ひな慰み事に凝つたものである。「およそ人の遊び、慰み事には、琴、碁、書画。又、その他には茶の湯、蹴鞠、楊弓、謡曲などあるが、これらは世間に聞こえても、聞き良いものである。それに何ぞや、裸になつて体をやぶる、危険な相撲の勝負事に耽るとは。さてもよろしからぬ事である。これからは相撲をやめて、良い友達に交じはり、四書の素読でもするが良い。」と、親爺さんは、いかにも思慮ある異見をされたが、「そんな事がこの男に効くものなら、一両年も以前に家督を譲つて、我々は隠居して、万事構はぬ身となつたものを。」と母親は歎かれた。
さて、この母親は、男勝りの気性で、智恵袋を絞つて、才兵衛をひそかに招き、「お前も又、十九歳になつたから、この春の花見がてら、京都見物に行つたらよからう。かねて金銀を貯めるのも、かうした慰みをしようためであるから、京では島原の廓に行つて、太夫職の遊女を残らず揚げて遊んで見よ。又、大坂の芝居に出る若衆役者にも会つて見よ。その若衆の中に、もし気に入つた者があつたら、すぐに身請けをして、三つ寺新屋敷とやら言ふ所に家でも買つてやつて、気安い休み所にしたが良い。この度の上方見物に、千両二千両遣つたところで、うちの財産は減るやうな金蔵でもない。万事の事は、この母に任せておけ。」と、うまい事を言つて聞かせても、才兵衛は全く承知せず、「この世の中に、ただ相撲を取る事より他に、何が慰みがあらう。これより他には、遊興といふものはない。」と言つて、中々やめる事{*5}ではない。「一人も一人柄。」と諺に言ふが、折角の一人息子でも、これではかへつて悲しみの種であり、今はもう教訓の種も尽きてしまつた。
この家の多くの手代どもが、この母親の言葉に耳を傾けて思ふには、「かういふ結構な親達を持つて、思ふ存分に好色の遊びをしたら、この世に思ひ残す事はあるまい。さてもさても、うちの若旦那の悪物好きをなさる事よ。」と深く歎いた。
これから後は、力業の相撲道楽に対して、異見をする事もできなくなつた。この男、いよいよ肉食を好んで、筋骨逞しくなり、十九歳といふのに、早三十歳の盛りとも見えて、以前の容貌とは全く見違へるやうに変はつた。一門中の人々、内々相談を遂げて、「ともかく、嫁を持たせるが良からう。」と言ふので、縁組を取り急ぎ、「良い女房を持たせたら、自然に心も変はるであらう。」と、身分もふさはしい家柄の娘を貰つて、祝言を済ませたが、一度も夫婦の部屋に入る事なく、夫婦の関係も思ふやうにないので、それを歎く余りに、元の乳母から忠告させたところが、「女に接して力を落とす事は、残念だ。弓矢神八幡、摩利支天、南無不動明王に誓つて、女に接する事は厭。身内が燃えるやうで、女はつくづく厭だ。」と言ひ切つて、折角の花嫁をも飾り物にして置いて寂しがらせ、自分は一人、我が寝室に寝て、明け暮れを送つた。さうして毎日毎日、「相撲より他に楽しみはない。」と言つて、相撲の稽古に耽つた。
この稽古の功積もつて、力量も優れ、技も秀でるやうになつて、「荒磯。」と名乗りを揚ぐれば、相手の者は、尻に帆掛けて逃げ出すやうになり、誰も相撲の相手になる者は無く、四国第一の強い力士となつた。「今は恐らく、自分と立ち並んで相撲を取る人はあるまい。」と広言するのを、人々は憎く思つてゐた。
丁度その頃、或る山里に宵祭があつて、相撲を興行する事になつたので、才兵衛も出ると、或る在所から強い者が出て、それが才兵衛と取り組む事となつた。この男、非常の強力で、何の苦もなく才兵衛を宙に差し上げて、地上に落としたので、あたかも捨て舟が荒磯の砂に埋もれてゐるやうに、土俵の砂に体がめり込む程になり、肋骨は砕けてしまつた。漸く乗り物に舁き入れられ、えらい目に遭つて家に帰つた。
様々に養生したが、中々はかばかしい効き目も見えないので、自然に腹立ち易くなつて、少しの事にも乱暴して、人に傷つけたりするので、下々の者も恐れて、病室に行く者は無くなつた。それで、勿体なくも両親が足をさすつてやり、大小便を取つてやられた。かうして、冥加に尽きた身の果ては、世間から、「親不孝の罰。」と言はれるのであつた。
校訂者註
1:底本は、「いはず」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
2:底本は、「都のぼり。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
3:底本は、「家家でも」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
4:底本は、「独りねの戸」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
5:底本は、「こととではない」。
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