古き都を立ち出て雨

【本文】

 奈良坂や、時雨に菅笠も無く、手貝といふ町より夜を込めての旅出立。鶏も、我と鳴き比べして、行くは誰が子ぞ。
 刀屋徳内といふ者の倅、諸芸に器用なりしが、はがね、むねへ廻り、抜け鞘持つての喧嘩好き。親に幾度か{*1}袴を着せ、常にも不孝なれば、目狭き所より言ひ立て、旧里切らせて、その里を追ひ出しの鐘の鳴る時、春日野を後に、「いつか仕合せ良く帰り三笠山も、今が見納めと成りなん事も。」と何とやら悲しく、大明神を恨み、「『氏子は千金にも替へ給はぬ。』との御事。金子一歩も無くて、遥々の東路に下るを、哀れと問ふ人も無し。」と一人言の、浪に声ありて、「佐保の川をうち渡りて。」と謡を門々にて唄ひ、勧進して、漸々四十七日目に御江戸に着きて、麹町六丁目に請人屋の九助といふ方へ、友達、状をつけしを頼みに尋ねけるに、細かに様子も聞かず、「ここ元、稼ぎのためとや。その若盛りにては、何を致されても、口過ぎ程の事は気遣ひ無し。さて、まづ何を望み給ふぞ。少しの元手はあるか。」と尋ねしに、貫ざしに十八文、残る物とて米八合。徳三郎も、返事し兼ねて赤面し、迷惑さうなる様子を見て、亭主も通り者。「金銀あれば、ここへは下られぬ筈なり。それを儲けにこそ。」と合点して、情けを掛けぬ。
 「まづこの家、吉凶と思はれよ。今まで何程{*2}といふ限りも無く、諸国の旧恩切られを請け込み、首尾よく帰宅せぬも無し。そなたも追つ付け仕合せあるべし。その内は、我等を親と思はれよ。さて、一両年は奉公致させ、その後は分別あるべし。まづ出替り時までは、わづかの棒手振りなりとも致されよ。後、大名になつても、それが身について居るものではなし。」と。霜先の朝、道を急ぎ、四谷の町外れに里人を待ち、大根の出買ひして、夕に売り仕舞ひ、昔の楽しみを今思ひ当たれり。
 或る日、雨風の烈しきにも身を厭はず売り出、芝の土器町の末に小家がちなる淋しき所に廻りしに、板屋まばらに篠部竹の菱垣崩れかかり、北窓を「御文殊更」の清書にて張り塞ぎ、門柱に「関川内匠宿」と用に立つ手にて張り札。浪人らしく見えて、内は枯れ枯れに、名は仰山に知らせり。この草戸開けて、十四、五なる若衆、麗しき形を、いつ髪撫でつけし風情も無く、この寒空に切れ切れの絹袷一つになり、細縄の帯して、鞘剥げ柄の切れたる大脇差にて、雪踏草履片し片し履きて駆け出、我呼ばるる程に、立ち帰れば、もの言はぬ先に涙をこぼし、懐より汗手拭の半ば汚れたるを取り出し、「これにその大根少し替へて欲しき。」との願ひ。聞くより物哀れにて、「替ふるまでも無し。易き御事。」と、一把提げて内に入れば、この子の二親と見えしが、過ぎにし夏の紙帳を身にまとひ、小升、横槌を枕として、目ばかりうごつき、「嬉しや。それを喰うて今日の命を。」と、洗ふ間を待ち兼ね、夫婦手に触れて、親仁は漸々一口かぶりて、後は捨てられし。母は、「思ひながら咽を通らぬ。」と、手に持ちながら涙に沈まれし。
 徳三郎、これを見て、「さても浅ましき有様。」と思はざる袖を絞り、「いかなる故に、かかる憂き事に遭はせ給ふ。」と尋ねしに、この若衆、問はれて猶悲しく、「我々は、子細ありて長々浪人。かくも武運の尽きぬるものか。この七日八日は、二人の親達に湯を参らすべきも薪絶えて、堅固なる生まれ付き、その儘に見殺す事の口惜しき。」と語れば、親仁、枕を上げ、「愚かなり虎之助。知らぬ人に何を申すぞ。黙れ。御所柿の良きは、百につき何程か。鴨は、番ひで幾ら程か。その八百屋に問へ。」と、この身になりてもさすが、昔を忘れぬ僭上。聞けば、いたはしき中にも可笑し。
 徳三郎は、それより何となく宿に帰り、米、味噌、肴を調へ、かの家に急ぎ、門の戸を開くれば、最前の若衆、暗がりに泣く声怪しく、「昼の大根売りなるが、心元なし。」と尋ねけるに、「母は、七つの鐘の鳴る時、夢の如く果てられ、親仁は、只今息絶えける。」と言ふに驚き、近所にて油を調へ見るに、哀れ深し。
 虎之助、灯にて二人の顔を拝み、「今は。」と自害するを留め、「恥は、後に残りしもの。」と断り、せめて心を静めさせ、二人の亡きがらを、母は虎之助に負はせ、父は徳三郎肩に掛け、野墓の煙と成し、その夜は虎之助が伽して{*3}、難儀の初め終りを語り、「この度の御恩、命の内には送り難し。」と大人しく言ふにぞ、徳三郎、奈良にて親達への如才、身に応へて悲し。
 それより十日ばかり、毎日見舞ふ内に、生国信濃より歴々の武士、尋ね給ひ、段々様子を聞きて、「年月の事ども、さぞさぞ。」と、涙に目は開き給はず。折節、徳三郎居合はせしを、「さても頼もしき心底、武家にも珍し。この虎之助は、某が実子なるが、十一歳より関川内匠方へ養子に遣はしけるに、永の浪人の内、孝尽くせし事、我が子ながら神妙なり。いざ国元へ。」と伴ひ、徳三郎には金子百両給はり、末々の事まで申し合はせて別れける。
 その後徳三郎は、通町に棚出して、商ひの道広く、程なく分限に成りて、南都より二人の親を迎へ、朝夕、孝行を尽くし、人のためと成り、慈悲善根をして、すぐなる世を渡りて、日本橋のほとりに角屋敷。次第に家栄え、昔の奈良刀、今、金作りにして箱に納め、永代、松の枝を鳴らさず。この御時、江戸に安住して、猶悦びを重ねける。

【訳】

 時雨の降るのに菅笠もなくて、奈良の手貝といふ町を発つて、まだ夜の明け切らぬ内に旅路に上つた。夜明けの鶏の鳴く頃、我も劣らず泣きながら行く。それは誰ぞと言ふと、刀屋徳内といふ者の倅である。この者、諸々の遊芸に器用であつたが、刀の刃金が棟に付いたやうに、それがかへつて身を損なふ種となつて、喧嘩する事を好み、そのために、親に幾度も袴はいて詫び言言ひに行かせた。かく、いつも親不孝ばかりするので、狭い奈良の町の事とて、近所の人々から苦情を言ひ出し、とうとう親に勘当させて、所を追ひ出してしまつた。朝の寺の鐘の鳴る時分に、春日野を後にして出発した。「折角幸運に恵まれて、いつかは再び帰つて来たい。三笠山も、今が見納めとなるかも知れない。」と思つて、何となく悲しく、折角氏子でありながら、春日大明神の御恵みに浴する事もできない今の境涯から、明神様を恨むに至つた。「『神々は、氏子を大切にして、千金にも替へ給はぬものだ。』と聞くのに、自分は千金どころか、金子の一歩も持たぬ貧乏で、遥々と江戸に下つて行くのである。それを哀れと思つて、尋ねてくれる人もない。情けない事よ。」と一人言に呟いて行くと、佐保川の浪も心あるにや、声を上げた。
 さて、「佐保の川うち渡りて。」と謡うて、人々の門口に立つて、僅かの合力を得て命を繋ぎつつ、旅を続けて漸う四十七日目に江戸に着いて、麹町六丁目にある口入れ屋の九助といふ者の家へ、故郷の友達がくれた紹介状を頼みに頼つて行つて、身の振り方を頼んだ。細かに様子を聞く事もなく、「江戸に稼ぎに来なされたのか。その若盛りの体では、どんな仕事をなさつても、食べて行く分の事は、心配はない。さて、何の商売が御望みか。少しの資本はありませうか。」と尋ねた。ところが、貫ざしには十八文残つてゐるばかり。その他、道中の使ひ残りと言つては、米八合あるばかりであつた。徳三郎は恥づかしく、返事し兼ねて赤面してゐると、その迷惑さうな様子を見て、酸いも甘いもよく知つてゐる亭主は、「金銀を持つておいでなされば、ここまで下つて来られぬ筈ぢや。その金銀を儲けにこそ、下つて来られたものであらう。」と察し知つて、色々情けをかけてくれた。
 九助が言ふやう、「お前さんが私の家を頼つて来られたのを、まづ吉兆と思ひなさい。この家では、今まで数限りもなく、諸国の勘当者を引き請けて世話したが、立派に成功して郷里に帰つて行かない人は、一人もありません。お前さんも、やがて仕合せな事もあらう。それまでは、わしを親とも思つてゐなさい。さて、初めの内二、三年の間は、奉公に出して上げよう。それから、よく身の立て方を考へなさい。今は出替はり時でないから、奉公の口とても無いので、暫くの間は天秤棒担いで、小さい行商でもなさい。後、立身して大名になつたとて、行商した事がいつまでもお前さんの身についてゐて、出世の邪魔になるものではない。」と諭されたので、徳三郎はそれに従ひ、そろそろ霜も降りようとする寒い朝、道を急いで四谷の町外れに行つて、田舎の百姓達が野菜物を売りに来るのを待ち受けて、大根を買ひ取り、それを売り歩いて、夕方までに売つてしまつて帰つた。かうして骨を折るにつけて、以前放蕩した時分の事が、しみじみと今の身に思ひ当たつて、後悔された。
 或る日、雨風激しかつたが、それにも身を厭はず商売に出かけて、芝の土器町の外れの、小さい家ばかりの寂しい所を売つて廻つた。すると、そこの板葺屋根もまばらになり、篠目竹で結つた菱垣も崩れかかり、北窓は、手紙の殊更に清書した物で張り塞ぎ、門柱には「関川内匠宿」と、いかにも役に立つべき立派な筆蹟で書いた名札を貼り、浪人の宅と見えるが、内の様子はいかにも赤貧さうに見えて、名ばかり仰々しく掲げてある。この家の草の戸を開けて、十四、五歳の少年が出て来た。その容貌、いかにも美しい。が、いつ髪を撫でつけたといふ様子も見えず、この寒い時候に、切れ破れた絹の袷一枚着て、その上に細縄の帯を締め、鞘は漆の剥げ、柄は糸の切れた大脇差を差し、雪駄と草履を片方づつ履いて駆け出して、自分を呼び止めたので、立ち帰ると、まだ口をきかぬ内に涙をこぼして、懐中から汗手拭の薄汚れたのを取り出し、「これと大根を少し取り替へて下さい。」と頼んだ。それ聞くより、余りの貧乏さに可哀さうになり、「取り替へるまでもない。お易い御用。」と言つて、一把提げて家の内に入つて見ると、この子の両親と見える人が、この夏吊つた紙帳を体に掛け、小升と横槌を枕にして寝てゐた。目ばかりきょろきょろさして、「嬉しや。それを食べて、今日の命を繋ぐ事ができる。」と言つて、洗ふ間も待ちかねて、夫婦とも手に取り上げたが、父親の方は、やつと一口齧つて、その後は捨ててしまひ、母親の方は、「食べたいが、どうしても咽を通らない。」と言つて、大根を手にしながら涙に咽んだ。
 徳三郎、この様子を見て、「さても可哀さうな有様ではある。」と涙に袖を絞りつつ、「いかなる次第で、かうも零落なされましたか。」と尋ねると、この少年、問はれて一層悲しさ増さり、「我々は、事情あつて長々の浪人暮らしをして居ります。かくも武運に尽き果てたものか、この七、八日といふもの、両親に湯でも上げようにも、湯を沸かす薪も切れてしまひ、平常御丈夫な御生まれ付きの方を、この儘に見殺しにするのが、残念であります。」と語れば、これを聞いてゐた父親は、枕から頭を上げて、「馬鹿、虎之助。知らない御方に何を言ふのだ。黙れ。御所柿の良いのは、百文に幾つだ。鴨は番ひでいくらするか。その八百屋に聞け。」と言つた。この赤貧の身になつても、さすがに昔の身の上を忘れず、かかる僭上を言はれるのを聞けば、いかにも痛ましい中にも、又、可笑しい。
 徳三郎は、それから何気ない様子で我が宿に帰り、米や味噌や肴などを買ひ調へて、再び、かの浪人宅に急いで行き、門口の戸を開けると、内は真つ暗で、中に先刻の少年の泣く声が聞こえてゐるので、怪しく思ひ、「昼間の大根売りですが、どうなさいました。」と尋ねると、少年が、「母は、七つの時の鐘の鳴る時、夢のやうに亡くなられ、父は、たつた今、息が絶えました。」と言ふのに、徳三郎はびつくりして、近所に行つて、油を買つて来て見ると、誠に可哀さう至極であつた。虎之助は、灯火の下に両親の顔を見て拝み、「今は。」と決心して自殺しようとするのを、徳三郎止めて、「そんな事をなさると、恥は死後に残りますものを。思ひ止まりなされ。」と道理を責めて戒めて、心を静めさせ、両親の死骸は、母の方を虎之助に負はせ、父の方を徳三郎、肩に掛けて、野墓に行つてそこで火葬し、その夜は虎之助の万一を慮つて、付いてゐてやつた。虎之助は、浪人して貧に苦しんだ始終を語つて、「この度受けた大恩は、私一生の内には、到底報いる事はできません。」と大人らしく言ふので、徳三郎は、自分が奈良の故郷に居た時、不身持ちして両親に厄介をかけた事を思ひ出して、いかにもその身にこたへて悲しかつた。
 それから十日ばかりの間、毎日見舞うて慰めてゐると、この少年の故郷信濃から、立派な身分の武士がこの家を訪ねて来られ、これまでの浪人親子の様子を聞いて、「長の年月、さぞかし難儀をした事であらう。」と、落涙に目も開けかねられた様子であつた。その時、丁度徳三郎も来合はせてゐたが、色々親切を尽くした事を聞いて、武士は、「さても頼もしい心。町人ながら、武家にも珍しい心がけである。この虎之助は、某がためには実子であるが、十一歳の年から関川内匠方に養子に遣つたが、不幸にして関川は、長の浪人暮らしをされ、その間、これが色々と養親に孝行を尽くした事は、我が子ながら感心の至り。さあ、国元へ同道して帰らう。」と言つて、伴ひ帰られた。その際、徳三郎には金子百両を遣はされ、「猶将来、何かの場合、力になる」事まで約束して別れた。
 さて、その後徳三郎は、この金で通町に店を出して商売を始め、手広く商ひして、間もなく金持ちになり、故郷の奈良から両親を迎へ取つて、朝夕よく仕へて孝行を尽くし、又、他人のためにも世話をし、慈悲を施し、善根を積みなどして、正直に世を渡つて行き、やがて日本橋の辺に角屋敷を構へ、家運、次第に開け、家栄えて、昔の奈良刀も、今は黄金作りの刀に変はつて、立派な箱に納めるやうになつた。永久に風、松の枝を鳴らさぬこのめでたき太平の代、江戸に安らかに住んで、子孫いつまでも喜びを重ねて行つた。

【釈】

 この一文は、他と違ひ、孝行者の話である。これは、西鶴著書の意図と、当時のめでたく巻を閉ぢる、即ち、めでたき事の結末を好む意より、特に孝行説話としたものと解される。かかる例、西鶴の他の著作にもある。


校訂者註
 1:底本は、「いく度(たび)の」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「何人」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「伽(とぎ)し難儀(なんぎ)」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。