懐硯 巻五
一 面影の似せ男 無筆は無念なる事
西の海、あをきが原に現れ出し似せ男ありける。
旅の夕暮を急ぎ、日向の国橘の里といふ所に一夜を明かし、折節、ほととぎすの田舎声さへ珍しく、浮世の事ども語らせて聞くに、「いまだ、この程の事。」とて、宿の主の、言葉に子細を籠めて話しけるは。
これより一里ばかり南に、落水村といふ所に榎森与太夫とて、庄屋に続きて田畠の高を作りて{*1}有徳なる百姓あり。よろづの事賢く、天命を考へ、下人と同じく耕作を励みぬ。或る時、岡山に行きて、下刈りをさせて、下人下女まで真柴頂き連れて、帰るさの後に一人残りけるが、その暮に及びても宿へ戻らざりしに、各々驚き、その所に尋ね行きしに、形は見えずなりて、梢の烏、寝ぐら争ひ、これに問ふべき便りもなくて、皆々不思議を立てしに、小笹の片蔭、道無き方の{*2}末に、茶小紋の羽織、荒く掴み破りて、これのみ残りぬ。いづれも嘆く内に、女、殊更に身を悶へ、諸神を祈り、それより二十日に余り、国中の深山海辺を探しけれども、何のしるべもなかりき。是非なき愁への片手に三歳の一子を育てて、甲斐甲斐しくその跡を立てける。里女にはすぐれて美しければ、所の若き者、この後家を忍ぶに、少しも取り乱す事なく年月を重ね、程なく九とせの過ぐるは夢なり。
その又村続きに、溝越伝介と言へる小百姓、四、五年の不作に遇ひ、日頃かくまへの悪しく、妻子もそれぞれに見放ち、おのづからの{*3}袖乞と成りてさまよひ歩く内に、安芸の国宮の市に紛れ、千畳敷といふ堂に丸寝せしに、哀れは同じ袖枕のほとりに、声まざまざと古里を思はれける。橘村の与太夫に聞こえければ、曙を待ち兼ね、彼が{*4}面影を見るに、年は経れども形は違はず。自然の涙溢れ、「何と、与太夫。互にこの有様は、いかなる因果ぞ。」とすがり付きて嘆くに、この男、けんによも無き顔して、「我が名は与太夫とは言はず。いかなる事に尋ね給ふぞ。我が生国は大隅、風の森のほとり、桜村と言へる所の者なるが、一門散り散りの身と成り、名は小平太とこそ申し侍れ。」と身の上委細に語りぬ。
聞きても不審晴れ難し。「世に似た者こそあれ。年の程、顔形、左の肩の首筋に打ち疵の跡まで、与太夫といへる人の面影。」と横手を打つて、「世界は広し。これ程似たる事は。」と申しけるにぞ、小平太、興をさまし、「その与太夫といへる人は、いかなる事ぞ。」と問ひける。伝介、悲しき中の長物語せしは、「そもそも与太夫といふ人、日向国橘村の大百姓。」親類の事ども、妻子の嘆き、九年あとにくれてんに見えざる事。都度都度に話しける内に、小平太、横道者にて、「我、その与太夫に形の似たるこそ幸ひ。その里に行きて、その女房をたぶらかし、世を楽々と渡るべき」悪心出来、猶伝介に様子を聞き届け、ここを別れて日向の国近く分け入り、わざとうつけを顔に作り、「狗品に掴まれし者。」と折々言葉の末に申せば、いつとなくこれを沙汰して、「与太夫こそ、それ、そこに天狗が落として、世に命はありけるぞ{*5}。」と言ふ。
程なく女は伝へ聞きて、あるにあられず尋ね行き、逢ひ見しより前後を忘じ、涙にくれて、昔の与太夫に思ひ込みて、我が里の家にいざなひて帰り、「再び逢ふ事の嬉しさ。」と、辺りの{*6}在所より従弟の末まで寄り集まりて、祝ひの振舞、酒事あり。「さても、年月の難儀にや、やつれ給ふ事よ。」と悦び、涙を流して皆々帰れば、女房、来し方の憂き思ひを語り、「忘れ形見と思ひて育てし与太郎も、早、十一歳。この成人、見給へ。」と移り変はりし四方山の物語に夜更けて、珍しき添寝の枕を交はし、昨日今日と経つは程無く、二年目の春、与太郎が弟も出来て、猶々落ち付きけるに。
その夏、殊更の日照りにて、天下の百姓、雨を乞ひ、龍神を驚かし、様々行なひありしかども、そのしるし無く、青田の早苗は、さながらの枯れ柴の如くなりし時、「この橘村の御社、忝くも住吉大明神の御本所にて渡らせ給ふ。既に十一ケ年あとの日照りにも当社を祈り奉るに、忽ちその利生あつて、万民を潤せり。その時の願書も、与太夫書ける。吉例なれば、この度も幸ひ堅固にて居るこそ吉左右。書かせらるべし。」と呼び出すに、小平太、元より無筆にて、この時、目の鞘の外れし男ありて、これに気をつけて、与太夫にあらぬ事を見出しけれども、女房、合点せず。「物書き給はぬは、天狗に掴まれて、気の抜けたる故。」と。
その気振り言ふ者あれば、かへつて腹を立て、泣き悲しむを{*7}、蔭にて笑ひて、「面々の好き好き。」と、そのなりけり{*8}になりて、構ふ者無く、今に語り伝へり。世には、かかる事もあり。
校訂者註
1:底本は、「次(つ)ぎて田畠(たはた)の高(たか)を作(つく)り、」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
2:底本は、「なき末(すゑ)に」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
3:底本は、「妻子(つまこ)と夫々(それ(二字以上の繰り返し記号と濁点)に見放(みはな)ち、自(おのづから)袖乞(そでこひ)」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
4:底本は、「彼(か)の面影(おもかげ)」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
5:底本は、「ありけるにぞと」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
6:底本は、「傍(あたり)在所(ざいしよ)」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
7:底本は、「泣悲(なきかなし)むと、」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
8:底本は、「そのなりになりて」。『西鶴諸国ばなし 懐硯』(1992)に従い改めた。
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