風は形無うして松に響き、花は色あつて物言はず。眼に遮る事は心に浮かび、思ふ事言はねば腹が膨るるといふは、昔、やつがれが小さき腹して、拙き口を開けて、世間の由なし事を筆に続けて、これを世の人心と名づけ、難波のくれはどり織り留める物ならし。
    難波  西鶴

 西鶴生涯の内、述作する所の仮名草子、棟に充ち牛に汗して世にはびこる内に、日本永代蔵、本朝町人鑑、世の人心、これを三部の書と名づく。尤も、商職人の閲するに、日用、世を渡るたつきに心を得べき亀鑑たるべき物にして、永代蔵は、その功なりて後、町人鑑、世の人心、半ば書き遺して、過ぎし酉の葉月にこの世を去りぬ。されば、両部の名のみにして、空しく三部の欠けたらんには、主の本望も叶はず。且は、巻いて紙虫の家とも成らば、珠を汚泥に隠すに等しからんと、書林の何がしの歎きに応じて、両部の書き残されし半ばづつを取り合はせて一部と成し、彼に与ふるついで、予に序を乞ふ。この書の功の終はらざるに別れしを思ひ出て、涙を墨にして筆を添へ侍りぬ。
    難波俳林  団水誌