四 塩売りの楽介
粟田口神明の宮のほとりに、軒端に手の届く笹葺の庵を結び、夫婦住み侘びて、六十余歳まで子のなき者の行く末の悲しさは、女房は男の手業の沓を作りて、窓の呉竹に結ひ添へ、大津に通ふ馬方に売りて、渡世の頼りと成しぬ。男は毎日、京に行きて、計り塩を商売して、やうやう今日を暮らし、明日の身の上を構はず。宿に帰れば、栗栖野小野の萩柴を折りくべて、山科の里芋に勧修寺の煎じ茶して、楽しみこれに極めて、世にある人の栄花も羨む事なく、只、年中を夢の如く、正月に餅も搗かず、盆に鯖も据はらず。九月の節句近付けども、栗、菊酒の用意もせず。取り集める掛銀も無く、人に済まする借銭もあらず。さても軽き身代、外より見ての苦しみ、内証の楽介、格別ぞかし。
折節は九月八日、我人、「物前。」とて、足音、常とは変はり、かづきたる御所染姿の京女臈も、とりなり構はず、道忙しき世間憚りなく、中立ち売りの中程に、いづれの御服所とは知らず、表口十五、六立ち続きたる家普請。「今日、棟上げの祝儀。」とて、幕うち廻して、金屏、毛氈、色を争ひ、庭には樽肴持ちつどひて、帳付け、暇もなく、台所の役人、それぞれに承り、一門の女中、花を飾り、表客は松竹の島台廻して酒宴始まり、様々の芸尽くし。いづれも七杯機嫌の大笑ひ、やむ事なし。
番匠は、鳥帽子装束を改めて、白幣をかざし、鬼門よける弓矢を供へ、拍子を揃へて棟の槌を打ち初め。「万歳楽。」と言葉を重ね、五百八十の餅をまけば、これを拾ふ人、大道も狭かりき。立ち止まりて見る人毎に、「かかる作事をして世を渡るこそ、長者なれ。あの如くして、子孫に渡したき」願ひ無きは、一人も無し。財宝に望みなき人は、何となくうち眺めて通りぬ。立ち止まる程の人は皆、人の宝を数へて、殊更、内蔵に目を付けけるは、何の用にも立たぬ欲なり。この主も、二十年以前までは提灯の張り替へして、火吹く力もなかりしが、何から分限にならぬといふ事なし。少しの事に気をつけて、渋油にきらを引いて、雨夜の提灯といふを始めて、今、「七千貫目持ち。」と世間の指図に違ひ無し。筬掻き、たごの手せし人にもあらねば、都にも、昔は大方に吟味して、歴々の縁組せし事。言ふもくどけれども{*1}、とかく、世は銀の光ぞかし。
かの塩売りばかりは、家作りの望みもなく、良き声して小歌に、拍子踊りを面白く、暫く覗きて、見物皆々立ち退きける時、奥縞の財布を拾ひ上げて、「これ、落としたる主は無きか。」と言へば、年の頃五十余りの法体の人、「我、落としけるに、もらかし給へ。」と言ふ。「成程、返し申すべし。しかし、疑ふにはあらねど、中には何が入りけるぞ。」と言ふ。「細銀、百目ばかりあり。」と言ふ。塩売り、大きに眼色変へて、「年にこそよれ、さてもさもしき心底なり。中は金子なれば、その方の物にはあらず。これ落としたる人、我が宿に尋ね給へ。」と、紛れなく所を触れて帰りぬ。
その夜、室町通西行桜の町、菱屋といふ絹屋の手代尋ねて、小判百二十両、西国問屋より請け取り、主人の手前、迷惑仕る段々、断り申せば、「百二十両との書き付けに相違なし。」とて、何の惜しげも無う、くれける。手代、涙を流し、喜ぶ事の限りもなく、「外の手に渡らば、よもや我には返るまじ。すぐに駆け落ちの身を、再び京都に帰る祝儀。」とて、その内小判五両、礼物に置きければ、塩売り、中々これを請けず。「これは、そなたの金子にあらず。主人の物を我に分けらるる故なし。申し請くる事、思ひも寄らず。」と度々返せば、是非なく取りて京に帰りぬ。
この手代、その恩を忘れずして、それより後は、雨、風、雪の日の難儀、塩売り、京に出かねる日は、人を頼み置き、定まつて塩を二斗づつ買ひに遣はしければ、塩屋は、「天の与へ。」と喜び、かの手代が働きとは知らずして過ぎぬ。厚恩を忘れぬ心から、手代もその後は、我が世の仕合せ続きて、近年、書き絵小袖を仕出し、俄分限と成りぬ。
その頃又、上京に隠れも{*2}なき名医の有りけるが、名人は必ず気随にして、御所方への御出入りを「むつかし。」と、これも粟田口に引き込み、静かなる片原町に、物好きの生垣、奥深に住みなし、ここも東海道なれば、諸大名の下り上りにも、王城の忝さは、高腰かけて鼻歌歌へど、誰咎むる事もなし。
この法師、或る時、夕立しての後、下駄はきながら、我が門に立ちて遠見せられしが、かの塩売り、夕暮に京より帰るを見て、内に逃げ入り給ふを、各々、不思議を立て、「あの塩売りなどに、何として恐れ給ふぞ。」と尋ねければ、「あれは、今の世の聖人なり。聖人に足駄はきながら対面するも、恐れあり。又、近付きならねば、下駄脱ぐまでもなし。とかく、御目にかからぬが良い。」と申さるる程に、「あの者を聖人とは、いかなる事ぞ。」と言へば、「それを知らずや。今の世、金子を拾うて返す事が、そもやそもや、広い洛中洛外にも、又あるまじ。これ程の聖人、唐土も見ぬ事。」と仰せられける程に、いづれも、「尤も。」と合点して、この塩売りに恐れ侍るとなり。
校訂者註
1:底本は、「くどけども、」。『西鶴織留』(1993)語釈に従い改めた。
2:底本は、「隠(かく)れなき」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
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