巻之三
一 引く手になびく狸婆
御代千歳山、松は古今不易の名木、春の風静かにして、四つの海に立つ波もなく、今、本朝の風俗、羊歯、譲り葉を売る山賤、穂俵、数の子を売る海人までも、その心ざし皆、和歌になつて、八百日行く浜の真砂は尽きぬ道広く、かかる豊かなる時世に住める万人、仕合せぞかし。
されば近年、人の有様を見るに、いづれか愚かなるは一人もなし。昔は、十人寄れば皆、物毎にうとく、我が身の上の事ばかりも、埒明くる者、稀なり。ましてや人の事請け取り、出入りの扱ひ、又は内談などに、言葉並べて物良く言ふ人もなし。殊更、公事だくみして、筋なき事を書き求め、相手に迷惑致させ、我が利欲にする事、思ひも寄らず。自然と義理につまれる言ひ分にも、一つ一つありの儘に書き付くる{*1}筆者は、五町七丁の内にも無き事なりしに、今時は物書かぬといふ男は無く、何事にても、外の智恵を借らず、面々に諸事を済まさぬといふ事無し。これ故、悪心も思ひ付き{*2}、人の難儀を顧みず、商売、或いは借銀の事までも、我が非分とは弁へながら、言ふ事の種を拵へ、油断のならぬ人心や。
以前は、借り請けたる金銀などに、とかうの出入りする事なし。仔細は、それぞれの家業に付き、一商ひすれば必ず利徳を得る事を見極め、この元手の為にその分際相応に借りて、思ひ入りの商売の後、その儘、元利揃へ済ましける。この程の人は、何の分別もせず、初めから相済まする合点なく、奢りの心より遊興所へ使ひ捨つる銀に借りければ、この銀の出所無し。されば、貸し方に難儀をかけ、言ひ事の種を作りぬ。この善悪、明白に御掟あればこそ、恐れて我が儘言ふ事なし。たとへば、いかなる悪智恵を以てとやかく言へるにして、借りたる物、一度は取らずに置く事なし。これを思ふに、元日の祝儀仕舞ひ、袴脱ぐといなや、「又来る年の大晦日も。月日の経つは今の事。」と暫しも忘るる事なかれ。世に何が怖いぞと言ふに、酒の酔ひも道をよければ別の事なし。気違ひの抜きたる脇差にて、過ちをせぬものなり。夜道歩かねば、追剥にもあはず。思ひの外なる欲を離れければ、騙りにもあはぬものなり。皆、人々の覚悟にある事の中にも、第一、身代を持ち崩して借銭乞はるる程、恐ろしく悲しきもの、この外に又なし。
さてもさても、うたての世や。身過ぎに仕合せありて、屋造りも人がましくせし人の言へる事は、随分と愚かなる事にても、人皆、耳を澄まして聞き届け、又、手前あさましく成り下りたる人の一言に、理の迫りたる事を申すにも、誰か聞き入れける人なく、よろづにつけて口惜しき事のみ、心にもなき事に疑はれぬ。世を富貴に暮らせし人は、人の金銀取り乱せしほとりへも、何心なく居流れ、又、貧者は我と身を引いて、わづかなる乱れ銭の傍へも寄りかね、心に遣る瀬なかりし。何程律義に生まれ付いても、貧しき人には先より油断せずして、手元に有り合はせける小道具なども、目に見えて取り直しける。この下心の恥づかし。申しても申しても、貧にして浮世に住める甲斐なし。いかなる前生の約束にて、貧福の二つあり。福者は招かずして得来り、貧者は願ふに損重なり、さりとては儘ならぬ世上沙汰。見るに付け聞くに付け、うとまし。
その身仕合せは、町人に限らず。武家にありける事ぞかし。さる大名方に、「御吉例。」とて、正月三日の夜、大書院にて、家久しき者ばかり召し寄せられ、宝引を仰せ付けられける。襖障子の内より、五色の長緒を数百筋投げ出して、手毎に一筋づつ引き取り、この緒の末に付け置かれし物を下されける。小姓引き出す縄に桑の木の撞木杖、可笑し。家老職の人引き出す縄に、銀銭一貫文。或いは、唐織の巻物を引き出すもあり。又は、御物拵への脇差、片端には搗き臼の古きに取り当たるもあり。提げ重箱、薙刀、印籠、巾着、日唐傘、緞子の夜着蒲団、塗杓子{*3}を取るもあり。知行取りは黄金に引き当て、茶道坊主は乾鮭一本の主に成り、横目役の人に、自然と眼鏡の当たるも可笑し。
一人一人の果報を見るに、軽き者の重き物に取り合ひけるは、一人もなかりき。ここに嘉例の年男とて、八十六歳になれる人、手を引かれて寿を勤めけるが、「我も物の数。」とて、人任せに取りてくれたる縄を引き出しけるに、奥上臈の中にも梅垣殿と申して、都より吟味をあそばし置かせられたる大振袖を下され、「これは、これは。」と興をさましける。又、男盛りの出頭人、しかも色を好みけるが、人の手の縄、より取りにして、様々観念して引きたぐりければ、大殿様の時さへ古狸と名に呼びし、百三つになる婆を引き出せば、一度に春の初めの大笑ひ有りて、御機嫌の上、島台の酒事、「万歳楽」とぞ謡ひける。
校訂者註
1:底本は、「書(か)き付(つ)ける」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。
2:底本は、「思(おも)ひ付(つ)く人(ひと)の」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。
3:底本は、「ふりしやくし」。『西鶴織留』(1993)語釈に従い改めた。
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