巻之六
一 官女の移り気
「世にある物の習ひとて、暗がりの鼠、昼盗人、絶えず。かねて用心せよ。」と世間気の賢き人の言ひ知らせける。かくの如く万事に気づかひをせば、小家に火を焚くまじや、渡海の舟に乗るまじや。一切の人間、運は天にあり。神鳴落ちて掴まれけるも、「死は前生よりの定まり事。」と言へり。されども用心して、身を逃るる事には逃れ、長命の後、病死をするは、これ、人の常なり。
されば大名、高家方には、地震、神鳴の間とて、番匠にたくませ、赤銅瓦の三階作り。一重一重に天井幕を張りて、四方に賀茂の葵吊らせて、緞帳に名香を焚き掛け、稲光の影映るより、奥様、これに入らせ給へば、前後は御局、女臈達相詰めて、観音経を読み給ふにぞ、この難は幾度か仔細なし。高人、錦のしとねを重ねても、夕の煙は逃れず。「仏の御迎ひ舟には乗るまじき。」と言ふ事、成らず。思へば時刻の息引き取るには、何とも用心、成り難し。総じての人間、ここの大事を忘れ、身の楽しみに年月を暮らしぬ。
殊更、高家に召し使はれし女中は、その筋目も賤しからぬ人の息女にして、若年より世のせはしき事を知らず。その身の為ばかりに、官女の立ち振舞を見習ひ、「朝夕のもて遊び。」とて玉琴、和歌に心を成し、花の曙、雪の夕、月、紅葉に身を染め、願ひは恋ぐさの外無く、一生、淫酒の二つの中に一つの姿を色作りて、夢うつつの如く、何罪も無く望みも無く。流れを汲みて、源を知れる道理。さもしき地下人に相見えねば、今時の切なる事は、女の脚絆はくなどの始末心、仮にもなかりしに。
さる御所に近う召されし鴬の局と申せし人、梅咲く初春の二十四日に、上より御願ひ事ありて、北野の神へ御代参申されての下向に、町筋の有様、目に珍しく、乗り物の窓より、小家がちなる西陣のほとりを通られしに、付き付きの男、神楽銭の外に上ぐべき初穂を忘れて、今思ひ出し、顔つきうろたへて、「これに暫く。」と言ひ捨てて、又神社に行きぬ。今織の機音せし門に、乗り物立てて軒下に休みぬ。
この内に摺鉢の音聞こえて、下女、小取り廻しに働きければ、いまだ年若なる内儀が、つい腰掛けながら美しき手して、若菜を揃へ、鏡餅の名残を雑煮して、我が夫をもてなす風情。主は中敷居枕にして、心よげに足を延べて、「過ぎにし節季はゆるりと仕舞ふ、我が宿の思ひ出。公家も頭にかづき装束がむつかし。大名も腰にさして袴肩衣、嫌なり。町人ほど心安き者は無し。『君が為春の野に出で若菜摘む』と読み給ふを、『ととが為嚊に若菜を揃へさせ』。杓子果報の我が身。」と言ふを、鴬の局、聞き耳立てて、「世の楽しみ、あれぞ。」と一筋に羨ましく、屋形に帰りても猶忘れず。
病気に言ひ立て、無理に御暇{*1}申し受け、その後は、我が物好きにて町家へ縁組せしに、いかにしても堪忍ならぬは、米が飯になる事{*2}可笑しがり、「油でも火が灯るものか。」と不思議を立つる。これになぞらへて、よろづの事、一つも世上の埒明かざれば、形の美しきばかりにても済まぬ事にして、幾所か去られ、戻りて、後には四條通の白粉屋の店に、置き看板ばかりに呼びけるが、これも商ひ口を叩かねば、又追ひ出されて、様々の恥ども重なりて、世に恥づかしき所をおぼえず。
東川原の機嫌とる太鼓持を男にして、初めの程は、一人女も使ひしが、後には貧家の物寂しく、人の手より貰ふ物を心当てにせし身過ぎなれば、違ふ事ばかりにて、年中買ひがかり済ます事なく、この男、五節句共に宿にて致したる事無し。今は、鴬の局も音を入れて、昔の形変はりて、浅葱の古袷の右の片袖、紙子縫ひ継ぎたるを、霜月頃の風を凌ぎ、観世こよりの帯して、髪は、ならず髷にも結はず。二十日も湯あみせねば、その身、毛虫の如く成りて、爪切らず、かね付けず。声付きも舌早にうらがれ、かくも賤しく成るものかな。
これにつれて、志も恐ろしくさもしく、夜道を歩く事を厭はず。知らぬ男の触はらば{*3}、渡世の種にねだる気に成り、借銭乞ひの言葉質を取り、まんまと女虎落と名に立ち、人の賃仕事に、さし足袋、ひねり元結、或いは手間縫ひの煙草入、又は組帯、線香の上包み。何にても請け取りて、返すといふ事無く、売り食ひにして、年の八、九年も世を渡りぬ。「そこの女に物を頼むな。」と言ひ触らせしが、都の広さは、このよこしまにても年を暮らしぬ。
「この女のかく成りぬべきとは、氏神も知り給はぬ事ぞ。その時その時の人心、世に有る時には定め難し。これを思ふに、忝き宮仕へを捨てて、由なき民家の住まひを羨みし故なり。世界の男女共に、その家風を弁へたる主人の外に、必ず必ず望む事なかれ。」と、この鴬の局の本末をよく知れる人の語りぬ。
校訂者註
1:底本は、「お暇(いとま)を申(まう)しうけ、」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
2:底本は、「ことををかしがり、」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
3:底本は、「さらば、」。『西鶴織留』(1993)語釈に従い改めた。
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