二 人には棒振虫同然に思はれ
上野の桜、返り咲きして、折節の淋しきに、これは春の心して、見に行く人、袖の寒風を厭はず、何ぞと言へば人の山、静かなる御江戸の時めきける。
黒門より池の端を歩むに、しんちゆう屋の市右衛門とて隠れも無き、金魚、銀魚を売る者あり。庭には生け舟七、八十も並べて、溜め水清く、浮藻を紅くぐりて三つ尾働き、眺めなり。中にも尺に余りて鱗の照りたるを、金子五両、七両に買ひ求めて行くを見て、「又、遠国にない事なり。これなん大名の若子様の御慰びに成るぞかし。何事も見た事なくては、話にも成り難し。とかく、人の心も武蔵野なれば広し。」と沙汰する所へ。
田夫なる男の、小さき手玉のすくひ網に小桶を持ち添へ、この宿に来りぬ。「何ぞ。」と見れば、棒振虫。これ、金魚の餌食みなるが、一日仕事に取り集めて、やうやう銭二十五文に売りて、「又、明日持つて参るべし。」と下男どもに軽薄言ひて帰る。又、これを見れば、「ここも悲しく世を送れる人あり。」と物あはれげに、その者を見れば、これはこれは。伊勢町の月夜の利左衛門といへる大尽。我が家を立ち退き、いづくに暮らせしも知らざりしに、さりとては醜い姿には成りぬ。
「いづれも昔語りし友達仲間に、汝を慕ふ事、大方ならず。知らぬ事とて、それよりの年月、かく浅ましく暮らさせし事は、是非無し。この後は、我々請け取り、貧楽に世を渡らすべし。」と言ひけるに、まだこの身に成りても、過ぎにし贅やまずして、「女郎買ひの行く末、かく成れる習ひなれば、さのみ恥づかしき事にもあらず。いかないかな、各々の御合力は受けまじ。『利左程の者なれども、その時に従ひて、悪所の友のよしみに今日を送る。』と言はれしも口惜し。面々の心ざしは、千盃なり。久しぶりに会ふ事。又、重ねて出合ふ事もあるまじ。一盃の茶碗酒、暫しの楽しみなるべし。」と先立つて出、茶屋に腰を掛けて、「これきり。」と、かの二十五文を投げ出しぬ。しかもこの銭は、宿なる妻子の夕を急ぎ、鍋洗うて待ちけるに、少しも引けぬ心根。
皆々、涙に袖口を浸し、「時雨も知れぬ空なれば、いざ、そなたの侘び住まひに行きて、よろづを語りながら酒を呑むならば、ひとしほ慰みにも成りぬべし。今の内儀は、定めて。吉州と良い仲か。」と言へば、「この女郎故にこそ、かくは成りぬ。傾城も、誠のある時顕はれて、四年あとより息子を儲け、『とと様。かか様。』と言ふを頼りに、今日までは暮らしける。」と夢の如く語るを、うつつのやうに聞きて、谷中の入相頃に呉竹のざわつき、留まり雀の命も明日を知らぬ、餌差町の東の外れに着きぬ。
「この裏にかすかなる住まひ。三人ながら這入り給はば、中々、腰の掛け所もあるまじ。それもよしよし、何か包むべし。」と案内して行くに、葭垣に秋を過ぎたる朝顔の、末葉も枯れ枯れに成りける蔓を探し、七十余りの婆の、その実を一つ一つ取りて、又来年の眺めを慕ひける。「されば、人間は露の命とも言ふに、この老人は。」と顔が眺められて、「婆様、ここを通ります。」と有り体の礼儀を述べて、埋れ井のはた越ゆるも危なく、蔭干しの煙草の引きはへたる細縄の下行く程に、窓より親の面影を見て、「とと様の銭持つて戻らしやつた。」と言ふ声も不憫なり。
内儀は、昔の目賢く、同道せし人々を見しより、「御三人の中にも、伊豆屋吉郎兵衛様、これへ入らせ給ふまじ。残る御両人は苦しからず。」と言ふ。主を始め、各々不思議を立て、「いかにして、あればかりを咎め給へるぞ。」と言へば、「是非無きは勤めの身。あなたには只一度、仮なる枕物語せし事、今以て心に懸かりぬ。主に隠す事も由無し。」と玉なる涙をこぼしぬ。
聞くに理をせめて痛はしく、亭主も誠なるを満足して、「女郎の身は、その筈の物なるに、これは優しき断り。」と時に胸を晴らし、「これは、我等が客なり。」と三人共に内へ招き、「まづ御茶。」と言ふに薪なく、吊り仏棚の戸びら外れてありけるを幸ひに、菜刀にて打ち割り、間を合はせけるも賢し。
「さて、御秘蔵の男子は。」と言へば、十四、五色も継ぎ集めたる布団に巻きて、裸身の肩をすくめて嵐を厭ふ風情を見て、殊更に哀れなり。「寒いに、これは。」と言へば、内儀うち笑ひて、「着る物は捨てて、あの如く。嚊と無理なる口説。」と言ひも果てぬに、「大溝へはまつたれば、裸になされて寒い。着る物が干上がつたらば、着たい。」と泣きける。
主も女も随分心強かりしが、今は前後をおぼえず涙に成りぬ。いづれも暫しは物も言はれず。「さては、あの子が一つ着る物、替はりも無くてや。親の身として、子をかなしまざるはなかりしに、よくよく不自由なればこそ、かかる憂き目を見するなれ。」
何語るべきも、歎き先立ち、各々帰る時、三人ながらささやきて、持ち合せたる少金を取り集めて一歩三十八、こまがね七十目ばかり、立ちさまに天目に入れて、これとは断り無しに出せしが、亭主も送りて出しが、「さらば、さらば。」と夕暮深き道を急ぎしに、又後より、かの金銀を持ちて追つかけ、「これはどうした仕方。神ぞ神ぞ、筋なき金を貰ふべき子細無し。」と人の断りも聞かず、投げ捨てて立ち帰りぬ。
是非なく取つて戻り、それより二、三日過ぎて、色品替へて、内儀の方へ持たせ遣はしけるに、早その人は在郷へ立ち退き、空き家と成りぬ。色々穿鑿すれども、その行き方知れず。三人共にこれを歎き、「思へば、女郎狂ひも迷ひの種。」と言ひ合はせてやめける。
「世は定め無し。異な事が障りと成りて、その頃の薄雲、若山、一学、三人の女郎の大分損。」と言ひ終はりぬ。
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