南部の人が見たもまこと
【本文】
西国の珍説ども御聞かせ下され、長崎の事、見るやうに存じ候。貴様、そこ元に御入りなされ候一両年の内に、我等も罷り下り、又、上方と万事変はりたる大湊、一見仕りたく候。はた又、ここ元にて風聞仕り候は、艮竜の子飼ひ御座候由。何とぞ御才覚なされ、金子五十両までならば、御求め頼み申し候。川原に見世物、事を欠き申し候。春中に大分の銭を取り申す{*1}事に候。これに限らず、角のはえ申し候猿か、足の四、五本ある唐鳥か、何ぞ変はつて生き物を望み御座候。内々御心掛け下さるべく候。
この程は、芝居へも本見物は出申さず、客宿も中々合ひ申さず、人々に身過ぎの分別致し候。京も次第にせち賢く、近き頃より東福寺のほとりに「献立看板」といふ物を出し置き{*2}、一分から二匁まで当座飯を仕出し、御汁、干し葉に蛤のぬき身。料理、膾は見合はせ。煮物、生貝、ぜんまい。焼き物干鱈、引き手。香の物{*3}。右は五分膳。品々、道具、綺麗さ。夜舟に乗る都人、これにて支度をして、伏見の宿へ寄らず下り申し候。惣じてこんな事に罷り成り、息も鼻もさす事にはあらず、切なき命を繋ぎ申し候。
しかれども、都にて御座候。算用の大尽出申し候。合はぬものとは知りながら、又当年も、二千両までは請け合ひ、新芝居取り立て、大坂役者も良き者抱へ込み申し候。又、一花はいづれも見申すべく候。
さて、是非もなき浮世と存じ候は、貴様、御目掛けられし川原町の利平、この六月十九日に、相手と内談して討ち果たし申し候。存知の外なる事に、かくは成り行き申し候。
利平事、丹波の下村より孫八郎方へ、少しの銀子を持参致し、養子に参り、五、六年も過ぎ申し候ひて、その約束なれば、孫八娘こよしとめ合はせ、万事相渡し、夫婦は寺参りを浮世の仕事に仕り、喜び申し候折節、利平、京にて紙商売も、茶屋へ売り掛け思はしからず。染木綿を仕込みて奥筋へ下り申し候が、その時分、五月雨降り続き、道中の難儀思ひやる所へ、南部より上られし商人、孫八北隣の問屋に着きて、最上川の高水の話。往来の渡し舟、浪に打ち込まれ、人馬荷物、大分に損ねたる由を語り申し候程に。
孫八郎、これを聞きて、利平が事、心元無く、年の頃、風俗を言ひて、「もしかやうの男などは、その舟に見え渡り申さず候や{*4}。」と尋ねられしに、「それは、縦縞の帷子に、黒き一重羽織の、紋所に山形に剣菱を付けて、色白なる顔に少し釣り髭ある人ではなかつたか。」と利平に一つも違はず申せば、孫八驚き、「さて、その人も死にましたか。」と言へば、「成程、最後を申し候。四、五度も高浪に浮き沈みして、念仏の声二、三遍せしが、その内に我等の乗りし舟は、やうやうこなたへ着きて、命を拾ひました。」と小者と口を揃へて申しければ。
孫八、歎き出し、宿に帰るに足立ちかね、男泣きに世上を憚らず。持仏堂へ御明かしを上げ、花をさし替へ、香を盛りて、鉦を打ち鳴らせば、婆の涙の片手に御団子の拵へ。近所からは、思ひも寄らぬ弔ひ。娘は狂乱の如く身もだへ、見るさへこれは悲しく、わざわざ丹波へ人を仕立て、本の親の方へ知らせ申し候へば、存知の外諦めて、「それまでの事。」と言ひ、帰り申され候。
「去る人は日々に疎し。」と早百ケ日も過ぎて、「この儘にて置かれじ。せめて歎きのやむため。」とて、辺りの人取り持ちて、縁組の事を言ひ出せば、こよしは思ひ切り、「後夫は求めじ。」と申し候を、「この家立たねば、二親への不孝{*5}。」と無理に合点させ、利平弟の利左衛門を丹波より呼び寄せ、「兄の跡をかやうに相続する事、世間にある習ひ。」と是非祝言させて、「三国一」を謡うて仕舞ひ申し候ひて、いまだ二、三日過ぎて、利平、仕合せ良く無事立ち帰り申し候へば、いづれも呆れ果て申し候風情、何とも落ち着きかね。
日頃別しての方に行き、この首尾、段々聞き届け、「度々書状を上せしに、一度も届かざる事、因果にて御座候。」と何となく静まり、兄弟共に、「一分立ち難し。」と思ひ込み申し候か、「その夜ひそかに同道して、高野、熊野に参詣して、山中にて二人共に討ち果たしたる。」と沙汰仕り申し候。孫八娘こよしも、宿は出て行方知れず成り申し候。
これ程情けなき兄弟の最後は御座無く候。最前の南部商人、「まざまざと見た」も、偽りは無き由を申し候。とかく、利平前生の因果に極まり申し候。以上。
霜月三日 京 茶屋又兵衛
長崎にて 林金五郎様
この文を考へ見るに、急がぬ事を取り持ちて、是非もなき祝言に、三人まで{*6}命を失ひけるは、不憫なり。
【訳】
御手紙で以て、西国の珍しい話など御知らせ下され、遠方の長崎の事を、ここ京都に居て目撃するやうに、面白く思ひました。あなたが御滞在の一両年中に、私もそちらに下って、上方とは又、万事違ってゐる大港の町を見物したいと思ひます。
又、こちらの噂では、そちらには艮竜の子飼ひにしたものがあるさうですが、どうか御面倒を見て下さって、金五十両までに手に入るものならば、御買ひ求め下さるやう御頼み申します。四條河原の見世物も、種が尽きました。どうかそれで、来春中に大金儲けしたいと思ひます。この艮竜に限らず、角の生えた珍しい猿か、足の四、五本もある外国産の鳥か、その外、何ぞ変はった珍しい生き物が欲しいのでございます。どうか内々、御心掛け下さい。
近年は芝居へも、立派に金遣ふ御客は来ませんので、引き手茶屋も、中々引き合ひが立ちません。めいめいに暮らしの工面をして居ります。京都も次第に、人心が世知辛くなりまして、先だってから東福寺の辺に、献立を記した看板を掲げて、一分から二匁までで、あり合はせの料理で飯を食はせる事がはやり出しました。御汁は干し葉に蛤の抜き身。鱠は付けません。煮物は生貝にぜんまい。焼き物の干鱈を引き物にして、外に香の物つけて、これで五分。御膳その外の道具も、綺麗です。淀川の夜舟に乗らうとする京都の人は、ここで支度を済まして、伏見の宿には立ち寄らずに下って行きます。全体がこんな風に世知辛くなり、窮屈で息も詰まるやうです。苦しい生活を致して居ります。
しかし、さすがは京でございます。算用なしに金遣ふ大尽も出まして、引き合はぬ事は知れ切ってゐるのに、又今年も二千両までの元手を引き受けて、新芝居を興行する筈で、大坂役者の良い処を抱へ込む事になって居ります。又来春は、いづれ一繁昌する事でせう。
さて、「儘ならぬ浮世だ。」と思ひました事は、あなたが目をかけておいでなさった、川原町の利平の上でございます。利平は、この六月十九日に、相手と相談づくで果たし合ひをして、死にました。
この利平は、丹波の下村から孫八郎方へ、少々の持参金を持って養子に参って、五、六年も過ぎましてから、かねての約束で、孫八の娘のこよしと夫婦にして、家業その外、万事譲り渡し、孫八夫婦は御寺参りを浮世の仕事にして、楽々と暮らして居りましたのに、利平は、京の紙商売も、茶屋に売り掛けになって、思ふやうに代金も取れないので、染め木綿を仕込んで奥州筋へ商ひに出かけました。丁度その時分は五月で、雨が降り続き、家では、「道中の難儀、さぞかし。」と思ひやって心配してゐる処へ。
南部から京へ上って来られた商人が、孫八の北隣の問屋に着いて、最上川の洪水の話をして、「往来の渡し舟が波を打ち込まれて沈没し、人も馬も荷物も大分遭難した。」といふ事を語られたので、孫八郎はこれを聞いて、利平の身の上が心配になり、その年頃、衣類の様子などを話して、「もしや、かやうな男は、その舟に御見かけなさいませんでしたか。」と尋ねました。するとその商人は、「その人は、縦縞の帷子に黒の一重羽織を着て、紋所は山形に剣菱で、色は白い方で、少し釣り髭のある人ではありませんか。」と言ひました。その言ふ処が利平に一つとして違ひませんので、孫八はびっくりして、「さて、その人も死にましたか。」と聞くと、「成程、その通り、最期を見届けました。四、五度も高波の中に浮き沈みして、念仏二、三遍唱へられる声が聞こえましたが、その内に私どもは、乗った舟がこちらの岸に着いて、やっと命を拾ひ、その後の事は知りません。」と、連れた小者と異口同音に話しましたので。
孫八は、「それではいよいよ利平は溺死した」ものと思って歎き出し、家に帰るにも足が立たず、外聞も構はず男泣きに泣いて、持仏堂に灯明を上げ、御花をさし替へ、香を盛り、鉦を叩いて拝めば、婆も涙片手に御団子を拵へ、近所からは意外の不幸の弔ひに来る。娘のこよしは気狂ひのやうになり、身もだへして泣く。見るさへ哀れに悲しい有様でございました。わざわざ丹波の郷里へ使を仕立てて、実父母の方へ利平の不幸を知らせてやりました処、実家では案外諦めが良く、「これまでの定命でございませう。」といふ返事でございました。
「去る人は日々に疎し。」と諺に言ふやうに、早、利平が死んでから百ケ日も過ぎてしまった。「こよしを寡婦の儘にしておくわけには行くまい。せめて愁歎の思ひをやめさせるために、後夫を持たせたら良からう。」と周囲の人達が相談して、再縁の事を言ひ出して見ると、こよしは、「私はもう断念して居ります。再びの夫は持ちません。」と言ふのを、「それでは家が立ち行かないから、両親に対して不孝となるぞ。」と強いて勧めて承知させ、利平が弟の利左衛門を丹波から呼び寄せて、「兄の亡くなった後に、寡婦と結婚して、亡き兄の跡を相続する事は、世間によくある風習だから。」と無理に結婚の式を挙げさせ、「三国一の婿取り済ました……」とめでたく謡うて事を済ませてから。
まだやっと二、三日過ぎたばかりの処に、死んだと思った利平が、幸運にも無事に帰って来たので、一同びっくりして、呆れ果てた様子を、利平は見て何とも合点行きかね、かねて別懇に致してゐた人の所に行って、これまでの事情をよくよく聞き糺して、「旅から度々手紙を上せてやったのに、一度も届かなかったのが、事の行き違ひの原因であるが、これ全く、我が運命と思ふ外はない。」と考へて、何と無しに心も静まりましたが、兄弟とも、「かく成っては、人間の義理が立ち難い。」と思ひ込みましたものか、「その晩、ひそかに二人同道して、紀州高野と熊野に参詣して、山中で二人、互に果たし合って死んだ。」といふ噂でありました。孫八の娘こよしも、それから家出して、行方知れず成ってしまひました。これ程情けない兄弟の最期といふものはありません。
前にも申した、「南部商人の『まざまざと見た。』といふ話にも、偽りはない。」と申します。とにもかくにも、利平が前生からの因果に相違ありません。以上。
十一月三日 京都 茶屋又兵衛
長崎にて 林金五郎様
この文の意味を考へて見ると、急いでするにも及ばない、寡婦に後夫を持たせる世話を、周囲の人達がして、本人の進まない結婚を強ひてさせたばかりに、あたら三人の命を失ふ事になった、と見えるが、これは可哀さうな事である。
校訂者註
1:底本は、「取候事に候。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
2:底本は、「出し候。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
3:底本は、「かう物」。『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。
4:底本は、「申さずや」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
5:底本は、「不幸(ふかう)」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
6:底本は、「三人までの命」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
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