三 まことの綾は後に知るる
「三途八難の苦は、女人を根本。」と南山大師の法語なり。まことに女程、あさましきは無し。外面は菩薩に見えて、内心は夜叉の如し。されども世を立つる人の、男女なくては成り難し。今時の風俗、いかなる田舎育ちも、風俗{*1}、格別に成りぬ。「嵐もつらき」と眺めし桜が枝を焚き木になせる山人も、花の鏡と成る水に鬢櫛を浸し、汐汲む海人も、うね足袋はきて、羨ましき時世にあへり。
備前の国は夕浪静かに、瀬戸の曙の美景は、西行法師が「これは。」と横手を打てる所ぞかし。ここに続きて牛窓の島崎は、人家ありて、しかも諸人の志優しく{*2}、次第に繁昌の津と成れり。この所に森村氏の何がし、始めは世渡りのために、漁船手づからに差し引き賢く、年浪を重ねて後、分限。この里に軒を並ぶる屋作り無く、棟高うして住みぬ。杉をしるしに、小島酒といふ名物の商売するに、正直の頭に松尾大明神も宿らせ給ひ、下戸も上戸もこの家に通ひ樽の道狭く、福徳の五十年、一代の内にこの浜の人の鑑と成りぬ。夫婦、貧家の時より互に稼ぎ出して、今、老い楽に、節季の寝覚めも気遣ひなしに、明け行く春を祝ひぬ。
殊更一人の娘、美形にして、その名を錦と言へる事、浦人の子には、やさがたに聞こえ侍る。母親の才覚にて、京より御所方の作法心得たる女の諸礼者を呼び下して、錦、十一歳の頃よりこれを付け置き、万事、都を移しけるに、少しも鄙びたる事去つて、見し人、思ひの種と成り、かれこれの忍び文、一つ二つも千束と成り、「東路の錦木も、かくあるべき。」と思ひ合はせり。嬰児、総角の程過ぎて、当流の投げ島田。「女は髪頭。」と言ひ伝へし如く、この息女、十五の秋に見れば、山の甲斐無く、木々の錦は、この娘に眺め替へて、ふるされける。あまた縁の言ひ入れありしに、「一人の娘なれば、よろしき人を婿にもがな。」と世間聞き合はせけるに、我が住める里には無くて、阿波の城下、徳島の町に思ふ儘なる事ありて、約束極めて吉日に送りける。
七月七日の夜、星の林も輝き、妻迎ひさざめきて、丸に花菱の紋提灯、鳴門の浪に移ろひ、天も酔へるが如し。「これぞいにしへ、奈良の都より唐土への嫁入りも、かくありぬべし。」と思ひ合はせり。既に舟着きより乗り物続きて、仲人、鼻高うして婿の元に入りて、引き合はせの杯事、数々の祝儀過ぎて、匂ひの玉を大房に飾り付けたる蚊帳の吊り手、長枕を取り乱す時、人を喚び生くる声々、せはしかりき。「気付けよ。水よ。灸、針も叶はぬ。」とて泣く声とめ難く、嫁君の事は外に成しける。心元なくて尋ねしに、「婿殿、頓死。」と言へば、女の身にしては、馴染ある人よりは、悲しさひとしほまさりて、人の取り沙汰を顧みず、勝手口より駆け出、死骸に取り付き歎きぬ。
「これ程はかなき憂き目にあふ。前世の因果なるべし。」と我が身の上を悔み、「再び里には{*3}帰らじ。姿を変へて、夫のための後世、菩提の道に入るべし。」と一筋に思ひ定めて、下げ髪の中程を思ひ切りかかる所を、各々取りつき、やうやう教訓して、「四十九日目に、いかにもならせ給へ。召し連れられし女房ども、皆々御発心、御供仕るべし。とても道心の御願ひ、何か世の思はくを恥ぢさせ給ふぞ。御里に歎きかけ給ふは、これ、不孝の第一。」と諫めて、七日の仕上げ過ぎて、涙の海を是非なく帰る浪の、これぞ火宅の車舟。牛窓に上がり、一間の奥に取り籠り、外なく念仏に暮らしぬ。
それ日数ふりて、親達、又も縁付の内談ありしに、離れ切つての出家の望み。色々とめても聞き入れざれば、後には意見の品を替へて、「汝、孝行の志、偽り無くば、後夫を求めてこの家を立つべし。親の心を背き、身を助かる仏法ありや。」と道理にせめられ、謝つて思ひとまり、その後、岡山より歴々人の次男を入り縁に取り、万事を渡して親仁は隠居仕舞ひ、世に思ひ残せる事も無し。
この娘、入り婿に初めの夜、心底の程を語りて、「親孝行のため、かく夫婦の語らひなすと言へども、さりとは心に染まざりき。全く御主様を嫌ふにあらず。身を観ずれば、夢なるかな。錦のしとねを重ねても、人間、終の煙は免れ難し。とかく後世の心入れ。」つどつどに語り、至極の涙に沈めば、入り婿、これを感じ、「心安かれ。そなたの望みに任せ、二親一生の内は、随分懇ろに当たり、死去の後、我諸共、出家になるべし。」と二世かけて約束固め、表向きは夫婦の語らひして、同じ枕は並べながら、夢にも契りを籠めずして、十一年過ぎし内に、父は病死。母は残りて、久しく孫子の無き事、仏神を祈り給へど、さらにその甲斐も無い筈ぞかし。これも、寄る年の惜しからぬ程にして、空しく成り給へば、「今は、願ひ発心。」と夫婦一度に髪を下ろし、財宝、親類分けて、所を去つて、備中の国細谷川の奥山居して、昔の人に逢はず、二人とも仏道堅固に勤めける。
この事、人皆、不思議の沙汰せしに、仔細を京より来りて、朝暮付き添ひたる女の語りて、聞く人感涙、肝に銘じ、「かかる事、世にためし無し。親の命を背かず、男は{*4}持ちながら、終に最愛の道を断つて、今の世の中将姫、これぞかし。殊に夫の心中、末代の語り句、これらなるべし。」
校訂者註
1:底本は、「田舎育(ゐなかそだち)も格別(かくべつ)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
2:底本は、「優(やさ)しくて、次第(しだい)に」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
3:底本は、「里(さと)へは」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
4:底本は、「男(をとこ)を持(も)ちながら、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
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