三 四十七番目の分限又一番の貧者

 現銀三千七百貫目持つて、大きな顔をしやるな。都の身代、「袖鑑」を見るに、やうやう四十七番目に書けり。しかれば、京の分限は、遠国の手前良しとは格別ぞかし。家に伝へし諸道具ばかりも大分なり。
 この金銀を譲られては、一生栄花に、五十人口など居食ひにしても{*1}余るべき事なるに、悪所遣ひは限りのなきものにて、兄弟三人して撒き棄てける程に、親仁相果てられて、いまだ十五、六年の内に、家蔵までも売り払ひ、三人一所に借り家住まひして、悲しき身とは成りぬ。
 世は知れぬものぞ。昔は三條通に大名貸しをして、今は米屋に当座借りして一日暮らしに、唯居ては埒があかねば、綿秋を見かけて、美濃路より尾張の里々を廻り、京へは知れぬ身過ぎ。兄弟三人、外は交ぜず、辻打ち太鼓。「始まり、始まり。」と声立て、見物集まれば。
 「まづ御断りを申します。唯今仕りますは、都島原、はやり太夫、全盛のなりふり。買ひ手の大尽、取り上げられまして、散々の仕合せと成り、舌食ひ切りて死なれは致しませず、面の皮をさらしまして{*2}勧進仕りまする。風俗までを細かに、心を付けて致しまする。今程は、上方に坂田藤十郎と申しまして{*3}、やつし芸の名人あれども、それは移らぬ処もござります。我等の致しますは、その儘、生のやうして御目にかけます。」と身の上の事を狂言に、兄は大尽に成れば、弟は太夫の薫に成り、中息子は末社の花崎左吉に成り、世に有る時の座配、口説の{*4}詰め開き、女郎の嘘の改めやう、無心言ひさうな色を見て、手を良く外しやう。今のやうに賢ければ、何か歎く事無し。親の意見を聴かず、内を追ひ出さるる身ぶり。見る人も、「ここが良う似た。」と大笑ひ致しける。その後は{*5}勘当せられ、悲しき世渡りの思ひ入れ。見物に涙こぼさせ、さて編笠を脱ぎて、「この里の御衆は格別、通り御衆様方、持ち合はせが御座らば、少しの露を打たしやりましよ。爺の年忌に当たりまして。汗水を流しますでも御座りませぬ、一人に千貫目づつ要りました芸で御座る。」と人は知らぬ事を言ひける。
 この見物の中に、京万太夫が芝居より、江戸へ役者見立てに遣はしけるに、少し仕こなして、上方でも当たりさうなる者は、「手付け二百両。」など言ひけるが、これも良いには極まり難し。「まづ、上りての一談合。」と道中を急ぎしが、自分の用にて美濃路に廻り、この辻芸に我を折つて、「さてもしたり、したり。濡れをあれ程に粋の好くやうにする者、広き江戸にも無し。この三人は、六百が立て役は、古かね買ひに見せてもあり。今まで見知らぬ素人芸に、かかる上手もあるものかな。これを抱へて、この度の顔見世、都に花を降らせん。」と一筋に思ひ入り、仔細を聞けば、「四條の川原に、我々、顔さらす事、一門の恥。」と言ひ、「思ひ寄らず。」と同心せぬを、差し当たつて小判づくめにして、やうやう京に連れ上り、まづ男ぶりは良し。太夫元も、外へは沙汰無しに、珍重がる事浅からず。
 さて、ひそかに狂言にかけて見しに、三人ながら、傾城買ひの事より外は、「物申す。」と言ふ事も成らず、さりとては可笑し。「銀遣うて、遊女の道ばかり呑み込みけるや。」と大笑ひして、急ぎ暇を出せば、損の行かぬ浪人して、後は三人肩揃へて、伏見の色町へ京よりの卸せとは成りぬ。
 「一切の身過ぎ、その道々に身を助かるなれば、親より譲りの家業を励み、主の蔭なる商売{*6}を油断なく、その家確かに繁昌させて、世間を息子に渡し、浮世、暇に成つて、六十過ぎて年月の気晴らしに、女郎狂ひはするものなり。」と、さる法師の語り置かれし。必ず色道に仕過ごし多し。無分別盛んの時、行くべき所にあらず。これより怖い所無し。


    元禄八乙亥暦孟春吉日
書林  京洛寺町五條上ル町 田中庄兵衛
浪花堺筋備後町 八尾甚左衛門
校訂者註
 1:底本は、「坐食(ゐぐひ)にして余(あま)るべき」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「晒(さら)して」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「申(まう)ししまて」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「口舌(くぜつ)詰開(つめひら)き、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「跡(あと)に勘当(かんだう)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 6:底本は、「売買(ばいばい)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)語釈に従い改めた。